やってたなぁ

今日は午後から第二の故郷に出張です。なんでも、人権教育研究会の総会だとか。わたしはそこの研究会には所属してないけど、オブザーバー参加をさせてもらってます。
前半は総会。わたしは議決権はないから、ひたすら聞くだけです。寝ちゃいました(笑)。で、そのあとの記念講演は、かつて一緒に同和教育の連絡会をやった仲間によるものです。
第二の故郷の中学校は、とにかく荒れと低学力で有名でした。いつだったか、中の人が「うちは京都で一番学力が低い」と胸を張ってました(笑)。でも、それではどうしようもありません。なので、おそらくは50年くらい前からいろんなとりくみをしてきました。
はじめは「荒れ」との闘いです。ちなみに、40年くらい前の状況は、教員の平均年齢が30歳くらい。平均在職期間が2年くらいという、メッチャクチャなデータが残っています。つまり、教員がもたないってことです。そんなところから、「荒れ」を克服するとりくみが長く続きました。ちなみに、いつ頃まで続いたかというと、わたしが担任してる頃も続いていました(笑)。なにせ、近所の中学校と河原で決戦してたらしい。もちろん素手なんてことはないです。金属バットとチェーン使ってたらしいです。ほんとに落ち着いたのは、ここ10年くらいじゃないかな。でも、荒れてる時の子どもたち、決して学校からソッポを向いてはいませんでした。中学校への信頼は厚かった気がします。そんな「信頼」をベースに、20年くらい前から「低学力」との闘いがはじまりました。
ちなみに、わたしが「参戦」したのは30年くらい前です。最初期に出会った子らは、まさに荒れと低学力の両方を持っていて、「学習会」という名前の信頼関係づくりの場に誘うところからはじまりました。そんななかで、でもやめていった子もいたなぁ。やはり、高校では最低限の学力はどうしても要求されるんですよね。
「低学力」との闘いが組織化されたのが「同和教育連絡会」だったんですよね。ここは10歳くらい年上の先輩たちが参加していて、鉄砲玉時代のわたしは参加させてもらえませんでした。でも、ほどなくして鉄砲玉を卒業して参加するようになりました。なんかそう考えると、歴史の転換点に、わけもわからずに居続けてますねぇ。
で、低学力は克服したかというと、まだできていません。でも、かなりマシにはなったかな。
荒れも低学力も、ほんとに長い時間をかけてそうなったわけで、それは対症療法的になんとかなるものではないんですよね。そして、「連絡会」も対症療法でなんとかしようとはしてない。
そんな歴史を、仲間の講師は話されました。
わたしは今も「連絡会」に参加しています。まだ歴史は終わってなくて、つくられている途中です。

で、夜は数学科の飲み会です。場所はおとつい行った店です。我ながら「なにやってんねん」と思います。まぁでも、料理もワインもおいしいし、赤ワインこぼさなかったし、久しぶりに「今宵もはじまりました」に投稿できたし、まぁええか。

さらに出掛けには70円まけてもらえたし、店員さんに顔は覚えられてたし、まぁええか(笑)。