昨日はほんとに疲れました。夕方髪の毛をカットして、出来具合の確認と、いつ切ったかがわかるようにするために写真を撮ったのですが、顔が歪んでました。ちなみに、わたしの顔は疲れてるときは歪んでます。動いているとわからないのですが、写真を撮るとてきめんにわかります。
で、今朝も疲れがとれてません。どんだけ疲れたんやねんと。でもま、どうせ授業をしているうちに体調はもどるんだろな。必要なのは、適度な発声と適度な運動です(笑)。
ちなみに、3年生は図書室学習。机の間をぶらつきながら、遊んでる子に注意をしたり、遊びにつきあったり。そんなことをしながら、昨日の人権学習の感想を聞いていました。
S「せんせい、ウトロも部落か?」
い「いや、あそこは朝鮮人がたくさん住んではるところ。戦争中にな、京都南飛行場というのをつくろうとしててな、ちょうど久御山高校のあたりが滑走路でな、そこの盛り土をする仕事をしてはってん。つまり、昨日言ったみたいに、日本の植民地政策がつくった街やな」
S「部落ってこわいってお母さん言ってる」
い「そやなぁ。昨日のビデオ思い出してほしいんやけど、迷路みたいな街やろ。そしたら、その奥になにがあるかわからんやん。しかも、貧乏な感じの人がいっぱいいてな。そしたら、なんか怖い感じがするやん。たぶん、お母さんの親の時代はそんなんやろ。で、お母さんの頃はそういうのがなくなってて、でも、そういうふうに思った親が「こわい」って言ったら、そういう迷路みたいな街が目の前になくて知らないから、「あー、こわいんや」ってなるんとちゃうかな。実際に知り合いになったら、こわい人もいるけど、優しい人もいるで。まぁ、人間関係やな」
S「部落の人って、結束力が強くて、よそ者が来たら「お前何者や」って感じでみはるって聞いたで」
い「そやなぁ。そら、差別されてたら、ガードか固くなるやん。「差別しに来たんか?」ってな。例えば、女性専用車両に男の人が入ってきたら、知らん女の人同士でも「あの人、なに」ってなるやろ?」
S「なるなる!」
い「それと同じやちゃうかな。もしも痴漢の危険がなかったらそんなふうにはならへんやろ?それと同じで、差別がなかったらそんなふうにはならへんのとちゃうかなぁ。」
子どもたちは部落を知ってるんですよね。それも親から聞いて。でも、それはアンケートからは出てこない。なぜなら、PCな回答にならないから。でも、ちゃんとマイナスの情報は持っていて、今まで習ったPCな知識との間でconflictを抱えてる。だから、その「マイナスな知識」をまずは受けとめて、それを肯定しながら、なぜそういう「マイナスな知識」が出てくるのかをひとつひとつ説明することが大切なんじゃないかな。
つまり、「人権学習」という、ある種のPCな時間のあとに出てくる「でもほんまはこうちゃうん?」という問いかけへのカウンターこそが、ほんとの人権学習かもしれません。
昼休みに、またまた知ってる子にちょっかいかけました。
い「昨日の作文のやりとり、すごかったやろ?あれ、全部、人権学習の作文やで。みんな、自分の話を書きやんねん」
S「へー、今とレベルが違いますね」
い「いや、そうやないねん。わたし、毎週学級通信出しててな、そこに作文載せるねん。そしたら、「あの作文に対して自分はこう思った」ってのが出てくるねん」
S「へー」
い「そやからな。わたしが担任してたら、毎日のショートホームルームが全部人権学習やねん」
S「へー、いいなぁ」
「毎日のショートホームルームが全部人権学習」に対して「いいなぁ」という答えが返ってきたことに驚いたけど、たぶんそうなんですよね。人権学習って、「○○について学ぶ」ことをきっかけにして、ひとりひとりの生徒が自分が聞いてほしいことを語り、聞いてほしいことを聞く、そのことを通してつながっていく営みなのかなと思いました。
もちろん、それを望まない子がいることもわかった上で、でも、きっと大人の世界ではありえないそんなことを教室でやる「試み」なのかもしれません。
いま、自分がクラスを持ったらどうなるかな。まぁ、そんなことを考えるのはやめましょう^^;;。
そんなふうに1日過ごしたら、なんとなく疲れが回復してきたり(笑)。