今日の授業の「入り」のひとこと
「今日は「にっぽん、爆発しろ」という気分です」
です。
結局、リベラルといわれる層が議員にはすごく少なくて、そういう人数を全部かき集めても勝てないんですよね。その背後には、リベラルな中道という人が少ないってことがあるのかな。極右が増えることで極左に流れないとバランスがとれなくなった。すると、ネトウヨ的議員は山のようにいるけど、極左はそもそも議会制民主主義を否定したりもしてたから議員にいない。
まぁ、あれが現実的な解なんだろうけど、もう「カレー味のうんこかハヤシライス味のうんこか」なわけで、「どっちにしろうんこやろ!」なわけです。
だから、ほんとにもう「にっぽん、爆発しろ」としか言えない。
でも、ここで生きていくしかないのかなぁ。
日: 2017年9月28日
授業の作法
この間、悩み深きあるセンセが、なぜかわたしの授業をヒントにしようとされてます。どうやら発端は、授業があまりにもうるさいので、そのクラスの生徒たちにそのセンセの授業についてのアンケートをとったところらしいです。すると、ある生徒が「怒鳴らなくても危機感をもたせる方法をいつきは知ってる」と書いたらしいです。なんかやったっけ?
でも、藁をもつかむ思いで見に来られた授業が、これまたやりやすい日で、一体感あふれた感じで、びっくりされたと。いや、その前の前の授業とか、みんな寝てたし(笑)。
でも、そのセンセ、ものすごく研究されてるし、準備も工夫もしておられる。どころか、子どもたちのアンケートを見たら「先生の授業は好き」って書いてます。だから、なんの問題もない。てか、問題があるのはわたしのほうのはずです(笑)。
そのセンセと話してて、わたしが留意していることを話すと「あぁ、一緒」ってつぶやかれてます。まぁ、だから見に来られたんでしょうけどね。でも、どこかでなにかが違うみたいです。それを、そのセンセは「人柄とテクニック」と言われます。が、テクニックはともかく「人柄」は違うでしょうね。そうなったら授業のよしあしは「人柄」で決まってしまう。そしたら普遍性もなにもなくなってしまいます。
で、つらつら考えていたのですが、子どもたちの前の「人柄」もまた「テクニック」なのかなと。
まぁ、基本、
「教壇は舞台!わたしは主演女優!あなたがたは観客!わたしの手のひらの上で踊るのよ!」
って考えてますからね(笑)。
役者である限りは、人柄もテクニックのうちでしょう。もしも、ほんとうに人柄があるとしたら、そのテクニックのさらに背後くらいの、かなり深いところなんじゃないかなと。
あとは「子どもであること」かな。そうすると、テクニックとしての人柄が前へ出てきます。喜怒哀楽ははっきりと。それも「I message」で。子どもは普遍化しません。するときは「みんなやってる」とかいう子どもの普遍化で、それに対しては「みんな〇〇したら、お前も〇〇するんか!」というアホな普遍化返しでおしまいです。
喜怒哀楽には、もしかしたら「びっくり」も入るのかな。そういや「おもしれーo(^^)o」は多用しますね。新たな知識や新たな気づきを楽しむ。子どもたちの小さな気づきを大きく育てて驚き楽しむ。
あるいは自分の疑問を徹底的に考えて、さらになぜその疑問を持ったのか、そしてなぜそれにその解答を導き出したのか。その過程も徹底的に考える。そして気づきに驚き喜ぶ。それは、子どもが「なぜ?」を繰り返してくることと似ているかもしれません。
そして、そういう演技をすることを楽しむということ。なぜなら、教室は芝居小屋だからです。
たぶんそんなことをやってるな。
あー、めんどくさいことやってるなー(笑)。