ホテルの朝ごはんのバイキングって、激しく迷います。パン中心でいくのかごはん中心でいくのか。ただこれ、両方のメニューが拮抗しているときは当然迷うのですが、拮抗していないときは迷いようがないはずです。が、やはりパンとコーヒーを朝ごはんとしたいわたしとしては、迷うのです。ちなみに、今朝のメニューはキャベセンとウィンナーとヨーグルトがパン用で、卵焼きと焼き魚と納豆と漬け物と味噌汁がごはん用でした。で、選択をミスってしまい、キャベセンとウィンナーと納豆と味噌汁とごはんとヨーグルトとコーヒーいう、わけのわからない選択をしてしまいました。
で、M井さんに迎えに来ていただいて、向かったのは「田川市炭鉱・歴史博物館」…の駐車場。中に入るとお金がとられるし、「炭鉱とは何か」の説明はあるけど「炭鉱労働者」については「表の歴史」しかないんだとか。なので、単なる集合場所でした(笑)。で、車に分乗して、フィールドワークの開始です。ちなみに、案内して下さるのは人権情報センターの光武さん。メッチャマニアックな方らしいです。
- 田川翔魂之碑近辺
最初に向かったのは「田川翔魂之碑近辺」です。「近辺」というのは、この「碑」の下にあるお墓の中に、朝鮮人炭鉱労働者のお墓が無数にあって、そこを見に行ったからです。
なんでも、朝鮮人が亡くなった場合、焼いて骨壺に入れるところまでは会社はやるけど、「あとは自分で」となっていたそうです。で、その骨壺を夜中にお寺に持っていって放置する場合もあれば、夜中にお墓の適当な場所を掘って埋めて、その上に標識として石を埋める場合もあったそうな。で、この「碑」に下一帯に、そのようなあるとのことです。
まずは入り口。
これが日本人炭鉱労働者のお墓です。
ボタでできた墓石には、番号がふってあります。
そして、これが朝鮮人炭鉱労働者のお墓です。
なんでも、上に埋めてある石は珪石らしく、えらい堅いんだそうな。中には埋めてあった骨壺が表面に出ていることもあります。
で、「田川翔魂之碑」は、そんな朝鮮人炭鉱労働者の無念の死を祈念したものだそうです。
近くに市民プールがあって、キャアキャア楽しんでいる声が聞こえてきます。それとは対照的な風景がありました。
続いて向かったのは「三井寺」です。これ、関西の人間は「みいでら」と読みますが、こちらは炭鉱の所有者である「三井」がつくったので「みついでら」と読みます。
まぁ、お寺そのものは水子供養とか馬頭なんちゃらとかいろいろあって、それはそれでおもしろい。
でも、光武さん、そのあたりの説明はメッチャ簡単です。そして「いつきさんが好きそうなのはこっちでしょう」と案内してださったのは、三井寺の奥にある「捕虜収容所跡」でした。
なんか、興奮がマックスになるのが悲しい性です。ここ、裏がガケになっていて、とても逃げにくい地形だとか。
表に出ようと思って、そこにあった木のポールを見ると、こんなものが!
閂か何かのあとですね。なるほどなぁ。
- ボタ湯
続いて向かったのは「ボタ湯跡」です。ちなみに、ここからは場所はさっぱりわかりません。なにせ、車でグルグルまわって、わけがわからなくなってますから。
ボタ山にはボタと混じって石炭も入っています。そんなのが自然発火して熱を持ちます。そこを通った水はお湯になります。それを使った温泉?が「ボタ湯」です。
立派な建物です。
ここ、現在は倉庫として使っておられます。中に入れてもらいました。女湯の脱衣室。いっぱい宣伝ポスターがはってあります。
鏡台跡かな。下には椅子が転がっています。
こちらは男湯。湯船の跡がはっきりわかります。
炭鉱労働で汚れた身体をきれいにし、疲れた身体を癒していたんだろうなぁ。
ちなみに、当然のことながら、裏にあるのはボタ山です。
が、現在は火力発電所の火力調整にボタを使うので、ほとんどボタ山は残っていないとか。
ここで、お昼ごはん。向かったのは「幸楽園」。ここで冷麺を食べました。うまい!
- さりげなくある坑道入り口
お昼ごはんを食べたあと、ふたたび博物館の駐車場に集合。まずは添田のめんべい工場に行って「おみやげ」をゲットしました。ここからは、川崎に移動。完全に廃墟探訪がはじまります。
まずは、道から見える坑道の入り口です。
普通に家の裏にあるのでビックリします。たぶん、家の倉庫として使っておられるみたいです。てことは、裏山は石炭をガンガン掘ってるところだから…。こわいな。
- 線路跡
続いて行ったのは「線路跡」です。
石炭を掘って、それをトロッコに乗せて外へ運び出す線路が、今も残っています。なぜかここ、入れます(笑)。
延々と線路が続いて、やがて行き止まり。
奥から見ると、遠くに外が見えます。
なんか「地下水道」を思い出します。
ちなみに、ここに光武さんの案内で入ったのは、わたしが2人目だとか(笑)。
- 第一坑扇風機跡
続いて行ったのは「第一坑扇風機跡」です。これは、坑道に空気を送り込むための巨大な扇風機を格納していた小屋です。
近くには、なぜか山の方を向いたスピーカーが設置されていました。
- 共愛寮のメタセコイア
「共愛寮」は、朝鮮人炭鉱労働者が収容された「寮」です。入り口の代わりにメタセコイアが植えられたとか。
ちなみに、ここ、たぶん道から100mぐらいしか奥まっていないのですが、薮こきしないと行けなくて、たぶん1時間半ぐらいかかるとか。てことは、わたしのお座敷1回分ですね(笑)。
- 排気口跡
お次は「排気口」の跡です。遠くにトランペット型のコンクリートが上を向いて設置されています。
- なんかの台座跡
- ポイント切換小屋跡兼国語講習所跡
今は何が何だかわからなくなっている建物です。
もともとここは石炭を運び出す線路のポイント小屋だったそうです。その後、一時「国語(クゴ)講習所」として使われていたそうな。看板があります。よく見ると、「南朝鮮」とあります。
- 排気口跡2
炭鉱は、三井みたいな大企業も持っていましたが、個人経営の炭鉱もあったとか。なかにはムラの人が持っている炭鉱もあって、そういう人は、当然かなりのお金持ちなわけです。「でも、ムラの人なんだよね」とは光武さんの弁。まさに部落差別ですね。
そんな、おそらくは小さな炭鉱の排気口の跡です。
これ、なんと個人の方が保存をされているとか。すごいなぁ。
神棚があります。
この穴は坑道の上にあけられています。
排気するときは、坑道の入り口を閉鎖して、上向きに扇風機を設置したとか。
- 炭住
そして、再び伊田に移動して、「炭住(炭鉱住宅)」です。これがもっとも古いものだとか。
ちなみに、ここは「跡」ではありません。なぜなら現在も住んでおられるからです。ちょうどここを去ろうとした時に、郵便屋さんがバイクで入っていかれました。
そこから少し移動すると、炭住群があります。ここ、区長さんとの取り決めで写真撮影が許可されているとか。ちなみに、道の下側は長屋で、道の上は戸建てです。
近くには「炭売(炭鉱売店)」があります。
ここ、現在も現役の角打ちです。中にはビアサーバーもありました。スーパードライですけどね^^;;
ということで、田川のフィールドワークは終了です。
あとは、小倉の駅まで送ってもらって新幹線で京都へ。
長い長い1週間が終わります。