この間行った「フェミニズム研究会第8回」の折に、ずっとほしいと思っていた「生存学研究センター報告書[24]」をもらいました。で、それを読んでいたのですが…。
やはりこの間の研究会でのわたしの発言は届かないだろうなということを、あらためて思い知らされたんですよね。
先の本の中で繰り返し論じられているのは「Personal is political」という言葉です。というか、おそらくは堀江さんのこの言葉へのこだわりがあの研究会を生み出し、あの本を生み出したんだろうなと思うのです。
まさに、この社会において、女性たちは私的領域を担うものとして疎外されてきた。そしてそれは「個人的なこと」とされることで(男性が担う)公的領域に持ち込むものではないとされてきた。しかしながら、まさにその構造そのものが「政治的なこと」である。つまり、「個人的なことは政治的なことである」。さらに、その公/私の線引きは男性によってなされている。これがやっかい。つまり女性たちは、公的領域にかかわろうとした時「あなたは男性と同じか?」と聞かれる。ちなみに、この問は、実は「あなたは人間か?」という意味を含むんですけどね。これに対するいかなる答えも「女性を「女性」であることから疎外する」。つまり「yes」と答えると「女性」ではなくなり、「no」と答えると「公的領域」に入れなくなる。まさに、この線引きそのものを問い、ずらす必要があるわけです。
こうして、「女たち」がこの社会にどう位置づけられ、なにを対象として闘う必要があるのかが明らかになっていった。このあたりがフェミニズムが明らかにしたことなのかな。まぁ、わたしはフェミニズムについて勉強してないからわかりませんが。
ところで、「女たち」の中で疑問が出される。それは「「女たち」の間でも差異があるではないか」ということです。それは例えばアフリカンアメリカンであったりヒスパニッシュやアジアンであったり、さらにはレズビアンであったり。こうしたダブルマイノリティがその差異を主張しようとした時、その差異を「個人的なこと」としようとすると、フェミニズム内において壮大なブーメランが飛んでくるわけです。先の本は、このあたりを問うているんですね。
まぁ、「そんなんアカンのあたりまえじゃん」と一般には思われるだろうけど、こんなことは日常的に山のようにあるわけです。つまり「マイノリティ内のマイノリティが声を上げると、「その問題提起を今するのはやめろ」「今は一致団結すべき時」と言われる」みたいなね。さらには、そういう空気を「読んで」、混乱させないように自主規制かけるとかね。
まさに、マイノリティが差異に敏感だし、ジレンマに陥るのはこのあたり。というか、マジョリティはこういうあたりは問われません。だって、線引きしてるのは権力を持っているマジョリティですからね。
というのはおいといて。
でも、堀江さんは、あの本の冒頭で「でも、フェミニズムは充分に闘う武器たりうる」とされています。まさにそんな本なんですよね。
で、読みながら、まだ全部は読んでないけど「うらやましい」と思いました。あるいは「自分はここじゃない」と言ってもいいかな。
それは、例えばレズビアンが「女たちの間の差異」であるとするなら、トランス女性であるわたしは、そもそもその「女たち」に入るのかどうかという決定的な差があるということです。わたしはずっとこのことにこだわってきたし、疑問に思ってきたし、混乱し続けています。フェミニズムに惹かれれば惹かれるほど、この壁にぶつかる。「フェミニズムはわたしの武器たりうるのか?」ということです。
まぁ、別に入れてもらわなくても、それはそれでいいんです。まさにパトリック・カリフィアの
もしトランスセクシュアリティのすべての痕跡を消し去ることができ、完全に男性として生活できるなら、わたしはそうするだろうか?多くのトランスセクシュアルがイエスと即答することをわたしは知っている。しかしわたしは、この<大いなるジェンダー分割線>にとどまり、苦くはあるが貴重な何かを見続ける。この眺めは、危険なほどの高みからではあるが、心躍る愉快なものだ。共感とは、常に孤独から生まれるものだ。
です。ちなみに、こないだの研究会で言ったのはこのことなんですけどね。
たぶんカリフィアは知ってます。カリフィアの辞書には「〜たち」という言葉はないってことを。そしてそのことを、わたしも知ってます。
そういうわたしが、フェミニズムの「女たち」という言葉を聞いた時、そしてその中の「差異」を見つめながら、それでもなおかつ「〜たち」という言葉を使う/使えるということ。そのことそのものがうらやましくもあるし、でも、きっとそこには自分は行けないし、たぶん行かない。まさにそこに「差異」を感じる。そして「差異」を感じているうちは、そこに行けないし、行かない。
「多様な性を生きる」ということに特化すると難しいですが、「ありのままに生きる」という意味では、私と同じ経験をしている人は誰もいないわけです。そういう意味で、私と接点のある人は誰もいないんですよ。そういう絶対的な孤独を引き受けたうえで、人とつながっていくということじゃないかと思っています。