で、その背後にあるのは「一致した行動」なんでしょうね。「みんなで一致して」という考え。これ、ガッコのセンセは好きです。子どもにも要求し、同僚にも要求する。
でも、基本的にムリなんです。
生徒は居住地も違えば生活環境も違う。階層も違えば学力も違う。ちなみに、階層と学力を近づけるために学校間格差をつくったわけですけど、それは居住地と生活環境の格差を広げる結果になったわけで、結局「違う」んですよね。なのに「同じであること」を要求する。それは無理でしょう。
同様に教員についても、例えば社会と数学と芸術では思考形態そのものが違いますから、そこで「一致せよ」なんて不可能です。しかも、社会とか芸術なんて、教科内でもバラバラですからね。
わたしは常に「バラバラを前提にした枠組みのゆるさこそが大切」と考えているのですが、どうもそれは伝わりません。ここで大切なのは「枠組みがないのではない」ということなんです。一定の枠組みは、おそらくは必要なんです。が、それを異なる人が同居できるようにどうゆるめるかが問われているんです。
例えば、マンションの規則で「ゴミは8時から9時の間に出す」なんていう規則があったとしたら、8時前に出勤をする人とか夜勤の人は出せない。それをどうするかということです。今のやり方は「無理は認めない」です。そこには「「8時から9時の間に出せる人」が標準」という考え方がある。でも、無理なものは無理なんです。そして、その回避の方法はあらゆるマンションでとられている。つまり、「ゴミ収集車が来る時間」という枠組みはあるけど、「ゴミ出しの時間」というもののゆるさを実現するってことです。
同じことは学校でも言えるはずなんですよね。でも「一致させたい」し、そのために「会議を開く」んです。それはとてもまずいです。
いいじゃん、バラバラで。だって、標準そのものがないんだから、ある人の「当たり前」は別の人の「当たり前」とことなる。ある人の「当たり前」で枠をつくったら、他の人に歪みが行って、結果うまくまわらなくなる。仮に「ある人と別の人」を標準としても「更に別の人」が排除される。そして排除されるのは「マイノリティ」です。
そんなことなら「標準がないこと」を前提にデザインしたほうがよほどいい。そのことでうまくまわるなら、なんの問題もない。