恋愛・結婚と部落問題 −結婚差別を考える−

今日は某人権教育研究会の夏季研です。
昨日の夜が遅かったので、さすがに今朝はしんどいです。車で行くか電車で行くか、迷います。ある種車の方が楽なんですよね。歩かなくていい。でも、車の運転中は休めない。思案のしどころです。でもまぁ、いろいろ考えて電車にしました。しんどいなぁ。
それでもなんとか京都府中部にある会場に着いて、研究会開始。わたしは今年も発表はなしです。だって、6月にひとつプレゼンがあって、昨日プレゼンがあって、さらに今日というのは無理というものです。いや、かつてはできたかもしれないけど、今はそんなに気軽にできることはやっていません。
でも、発表がないと楽です。今日ものんびり気分での参加です。そういや、去年のこの研究会が、死にかかったあとの最初の外出でした(笑)。
で、レポートを聞いていると「片手落ち」発言が。当然指摘をするわけですが、それに対して「あえて使った」との反論。「これは片手が落ちているのではなく、手順の片方が落ちているという意味だから差別発言にはならない。言葉狩りだ」という趣旨の発言です。はいはい。語源の問題ではありません。例え語源がそうであっても、言葉の意味は変化していきます。自分が差別的な意図がないなら、まずそれを明示してから使うべきで、あとから「実は」ってのはイマイチですね。まぁ、若くてとても勉強がよくおできになる方のようですから、挑戦的にそういうことをやっているんでしょうけどね。
なんか、ご自分の学校でやっている実践や、そこで人権を担当されている方がとても立派で豊富な知識をお持ちで、「だから自分は差別なんてするはずがない!」感が、ご自分の頭のよさとあいまって出てきているのですが、すまんけど、地べたを這いずりまわって生きてきた頭の悪いわたしには、そういうのは届かんのですわ(笑)。

で、午後は大阪市大の齋藤直子さんの講演です。めっちゃ楽しみです。
齋藤さん、昨日は長野県で講演をされてきたということで、滑り出しはテンションが変で妙に上滑りな感じでしたが、途中からギアがかみあってきたのか、明快な話になりはじめました。
テーマは結婚差別です。
よく、結婚差別の授業案をつくったら「もっと新しい事例はないのか」とかいう、本末転倒な要望が返ってきて頭に来たりするのですが、でも実際のところどうなのかというのは、「駆け込み寺」みたいな活動をしていないと、なかなかわからないのが現状です。そもそも、結婚差別は、その前提となるそれぞれの時代の結婚観や結婚の状況に左右されます。よく言われるのは、「部落内で結婚していた時代は結婚差別は起こりにくく、部落外と結婚するようになることで結婚差別が起こるようになってきた」ということです。が、齋藤さんは、ご自分の専門である「家族社会学」で得られた知見を使いながら、時代背景と結婚差別の状況を見事に解き明かして行かれます。さらに、それは序章に過ぎません。結婚差別にはさまざまな論点があり、それらを丹念に語っていかれます。
こうした問題意識の背景にあるのは「差別はひと言でできるが、差別をしてはいけないということを説明するのはとてもたいへんだ」ということです。思わず午前の事例を思い出したりして(笑)。
いや、ほんとうにおもしろい講演でした。

帰りの電車の中でもう少し話。こういうのができるのが、主催者の役得です。
講演の中で、「結婚差別で使われる論理は定型がある」ということを言われたのですが、ほんとうに「なるほどな」です。つまり、結婚差別に使える言説は残っていく。そして、有効ではなかった言説は淘汰されていく。最終的に残った言説は、きわめて有効な言説になります。で、その言説を、使う本人はあたかもオリジナルであるかのように使うし、使われた方もまたオリジナルに使われた気になる。でも、結婚差別にあった人たちの体験を聞くと「それ、言われた!」みたいになる。逆に言うならば、「学ぶ」ことによって、もしも自分が結婚差別にあったとしたら「返し」の方法もわかるし、周囲の状況で結婚差別をしなきゃならない立場に直面した時(例えば、自分の子どもの結婚に親戚が文句をつけるみたいなシチュエーション)、そこへの対処法がわかる。
と同時に、もうひとつおもしろかったのが、「みんなテンプレ好きだよね」なんですよね。これは、最近の若者の傾向にもある。例えば「結婚は祝福されたい」というテンプレがあると、容易に結婚差別に荷担する方へと流れていく。つまり「親の反対がある→祝福されない」ということですね。そういう意味では、「テンプレで考えない」ということがとても大切なかもしれないなと思いました。

そんなことをいろいろ話をして、齋藤さんとおわかれ。
さて、家に帰ってお風呂に入ってビールだ。マジで疲れました。