なんかもう、さみしくなってくることが多々あります。
まぁ、わたしはチキンですから、ここみたいな寂れたところにしか書かないのですが…。
この歳になると、ふと「昔のこと」を思い出したりするのです。で、「昔のこと」を思い出したりすると、その延長線上に「わたしの昔」よりもさらに過去の人々のことも考えたりするのです。
なんでこんな話が出てくるかというと…。
年寄りの繰り言なんですが、最近の若い人(笑)は「発信」がうまいなと。ちなみに、この「若い人」の定義は年齢というよりも、運動歴とか発言歴とか、ま、そんな感じでしょうか。
例えば、わたしなんかは、生まれてはじめて実践レポートを書いたのは1989年くらいなので、もうかれこれ30年近く前のことなんですよね。当然、手書きです(笑)。で、レポートにはそれぞれの時代の「作風」というのがありまして、わたしが徹底的に叩き込まれたのは「実践で語る」だったんですね。あるいは「事実を差し出す」とも言われました。つまり「理念で語らない」ってことです。
すると、とてもしんどい。あることを発信したいと思っても、それを実証する「子どもの姿」がないと語れないんです。だから、日常の子どもたちとの出会いから、ひたすらそれを探すんです。
ちなみに、ここで「被差別当事者」と「教員」の圧倒的なアドバンテージが出てくる。それは、被差別当事者は「自分のこと」を言えばいいわけですからね。
てのはおいといて…。
でも、そうやって「言説の蓄積」ってのをつくってきました。そういうのに基づいて、現在の言説がある。その中には「子どもの姿で語る」ことへの窮屈さとかもあるんだと思います。例えば「もう少し自由に語ろうよ」とかね。だから、実践なしでも話を聞いてくれる地盤ができた。
もうひとつ。「term」の問題もあります。わたしよりも前の人たちは「term」がないところから現実とのせめぎあいの中で「term」をつくりだしてきた。わたしの世代は、実践を通して、その「term」に則りながら、その中身を検証し、ふくらましてきた。その延長線上に、いまの「term」があるわけです。
何が言いたいかというと、いま、ひとつの「語り」があるとしたら、その語りはオリジナルなものじゃなくて、長い歴史の上にある「語り」なんだということです。言い換えるなら、いま、自分が感じて発信する「自分がオリジナルと感じる語り」は、その前に「その語りをつくる過程で「語ること」すらできなかった人々の「語りとはならなかった語り」」の上にあるってことなんです。
それは、例えば部落問題でも、障害の問題でも、ヘイトの問題でも、トランスの問題でも、レズビアンの問題でも、ゲイの問題でも、Xの問題でも…。おそらくはすべての「問題」についての「語り」の中にある。
で、わたしが大切にしたいなと思うのは「「語ること」すらできなかった人々の「語りとはならなかった語り」」に思いを馳せることなんです。例えばそれはウトロのハルモニやハラボジの「言葉」であり、カルーセル麻紀さんやケイト・ボーンスタインやパトリック・カリフィア、いやいや、もっと前の世代の人かな。わからんけど。そんな人々が編み上げてきた生き様と、そこから出てくるふとした「言葉」ですね。そこに「語り」の源流を見出し、その系譜の上に自分の「語り」があるということなんです。
それは、過去へのリスペクトです。言い換えるなら、「おべんきょ」の世界における「先行研究をふまえる」ってことです。
当然「先行研究」を踏まえると、容易には語れなくなる。でも、それをしなきゃアカンと、わたしは考えています。逆に、それを踏まえればこそ、「語り」の中に厚みが出てくる。それを追い求めたいとも思っています。
最初の話にもどると、「若い人」の「発信」=「語り」のうまさは、その前にいる人々の「語り」や、さらには「「語ること」すらできなかった「語りとはならなかった語り」」の上にあるということなんです。
それを踏まえてない*1さまざまな言動を見聞きすると、どうしようもなくさみしくなってくるんですよね。
*1:それは、語った人に限定するのではなく、受け取った側も含まれます。