去年だったかに、マクロ・メゾ・ミクロについて考えたわけですが、そんなことをふと思い出す、今日のおべんきょの前半です。
内容的には新渡日の子どもたちへのとりくみの話なんですが、京都市は教育委員会レベルではそれなりにマニュアルもつくっているし、制度も保障している。にもかかわらず、現場の教員、特に新渡日の子どもを担任している教員がそのことを知らないという話です。
まぁ、これ、もったいない話です。せっかくさまざまなリソースを用意してくれているのに、知らなければアプローチすらできません。ただ、なぜ知らないんだろうとは思います。それを教員個人のせいにするのでもなく、教育委員会の怠慢とか広報のまずさにするのでもなく、もう少し構造的に捉えてみたいなぁとか、ふと考えてみたりするわけです。
そこで、メゾとしての教育委員会とミクロとしての学校・教員の「ズレ」が出てくるのかな。そのズレの内容は、実はわからないのでなんとも言えないのですが、もしかすると「よかれ」と思って制度をつくるけど、その制度がミクロレベルでは「負担」となるので、自然とそこから逃げてしまうみたいなことはないのかなぁとか。ちなみに、この「負担」というのも意識的ではない気がするのです。
教員って、平等性をすごく重んじる気がします。実際に平等かどうかは別としてですが。そうすると「制度」は「特別扱い」になる。それは平等性とは反対に思えてしまう。でも、実は「平等性」って楽なんです。「なにもしないこと」ですから。
なんか、そんなあたりにカギがある気はするのですが…。