けっきょくうどんは食べられない・全同教2日目

朝、少々寝坊。と、三重の友だちから
「早く来い!」
とメールが来ました。てことで、急いで分科会会場へ。でも、聞きたいレポートにはちょい間に合いませんでした。ま、昼からの総括討論で話をしよう。
にしても、今日はなんかテンションが上がりません。別に寝不足なわけじゃないし、言いたいことはいっぱいあるし…。あー、論議に絡めないんだ…。
たしかに言いたいことはいっぱいあるんです。でも、多すぎてまとまらない。で、なぜ多すぎるのかというと、この一年間にいろんなことがあって、いろんなことを考えたってことなのかもしれません。しかもそれが全同教のメインストリームとははずれている。
例えば、「進路公開のとりくみ*1」の話がありました。で「親とつなぐ」ってのが大切だと。
いや、わかります。そうなんです。親を否定しつづけた子どもが、その親の背景を知り、自分自身の社会的立場を認識し、親の生き様を肯定するなかで、自らの進路を考え、それを発表することで意識化し、共有する。
わかるんです。
でもね。
例えば、うちの交流会のある卒業生。「わたしは将来ニューハーフになります」って言った時、それを教員や生徒は受けとめ切れるのか?「進路」って言う時、そこに「言える進路」と「言えない進路」があるんじゃないのか。そこに教員の価値づけは存在してないのか?
セクマイにとって、最初の敵は親だったりします。ま、最近は違うかもしれませんがね^^;;。すると、一度親を切るというステップを踏まないとつながらないこともあります。
なんか、そんなことを考えていると…。
95%の子どもには適用できる。そんなとりくみなんだけど、それを推し進めれば推し進めるほど、残りの5%の子どもが排除されていく。信念を持てば持つほど、排除は進む。だから、信念を持ちながら疑い続ける。強い言葉を発する時、強いとりくみをするときこそ、排除の可能性を考えビビりながらそれをする。
そんなことが必要なんじゃないのかなぁと思ったので、そんな話をしたのですが、果たして伝わったんだろうか…。
それが伝わらないとすれば、たぶんその理由は、マイノリティをマイノリティの場に固定しているってことなんじゃないかなぁ。

てことで、全同教大会終了。
考えてみると、今日の昼ごはんは「鳥のキモのお好み焼」でした。大会が終わってすぐに帰ったので、晩ごはんはコンビニの弁当。けっきょくうどんは食べられずじまい。
でも、香川の鶏はうまいってわかりました。

京都に着いて、カウンターの人たちと合流しようかと瞬間考えたけど、かなり身体が疲れていたので断念。
ま、しゃーないな(;_;)。

*1:ギョーカイ用語ですな(笑)。

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