今日は大阪で呑み。で、いろいろ話しながら、ふと考えました。
「ありのままの自分で生きようと思った」
これ、まぁ、GIDギョーカイにおける常套句な気がします*1。あー、そう言えば
「本来の自分にもどる」
ってのもありました。某映画でも、某外科医が言ってました(笑)。
んー、なんでしょう。この違和感。
例えば、
「ありのままの自分で生きようとしてジェンダークリニックを受診した」
これ、成立するのかなぁ…。ジェンダークリニックって、ガイドライン上は「精神科領域の治療」であると同時に身体改造のゲートですよね。でも、まぁさきほどのようなことを言う人って、後者のために行くことが多いんじゃないかと。てことは
「ありのままの自分」=「身体改造」
てことになる。「身体改造した自分はありのままか?」って話です。
「ありのままの自分でいるために二重まぶたにする」
って話が出てきたら「それはありのままとちゃうやん」ってツッコミが入ると思うんだけどなぁ。
あ!そう言えば、
「男/女として生きようと思いジェンダークリニックに来た」
みたいな話もありがちでして。でも、これも変だなと。だって、さっきの話とくっつけると
「男/女として生きる」=「身体改造」
ってことになる?いや、「男/女として生きる」のって、別に病院に行かなくても、体を変えなくてもできるじゃん。
いや、もしかしたら「医療のお墨付きが必要/ほしい?」。んー。でも、性別って精神科医が「認める」もの?いや、あの人たちは、基本的に本人が言ってることを追認してるだけで、あの人たちが認めることは、本来ほとんど意味がないはずなんですよね。
まぁ、これらの言葉は、もしかしたら「はやりの常套句」なのかもしれません。だから、いろいろ深く考える必要なんかないのかもしれない。
でも、「はやりの常套句」を使うことは、すでに「ありのまま」からはずれている。あえて「はやりの常套句」とは逆のことを言う、あるいはあえてそれを使わないということが、実はとても大切なんじゃないかなぁ。
単に「じぶんがじぶんであるという実感が心の底から湧いてきた」とかそういう感情の問題を、そういう語句で表してるだけじゃないでしょうか。だから深く考えると実はとんでもないことを言ってることになる。
似たようなものとして私は、何か日本特有の食品を飲食したときに「日本人で良かった〜」とかの表現が気になります。それ日本人と関係なくて日本食文化の話だし、もし「日本食文化を味わうためには日本人であることが最も楽だしシアワセ」とかだったら現状の差別の全肯定になりますし。
う〜ん。
「自分が自分であるという実感」であれば、それをそう表現すればいいと思うんですよね。便利な常套句をあっさりと引用するって、結局はパッケージの選択をしているだけのような気がするんです。「ありのままAプラン」「ありのままBプラン」みたいな(笑)。
まぁそんなことを、ふと考えちゃいまして^^;;
たしかに、「深く考えないことは実はとんでもないことを言っている」ですね(^^)。