コミュニケーション力

とあるところで「コミュニケーション力」についての興味深い話が書いてありました。ちなみに書いたのは20歳くらいのIさん。けっこう興味深い話を出してくる人です。
別に「若い視点で」みたいなことではないんですよね。てか、そーゆーのは大嫌いなわたしです。じゃ、なにがいいかというと、このIさん、自分が考えて迷って考えて迷ってってことをストレートに出してくれるんです。で、その迷って考えている過程を追うのがおもしろい。そのおもしろさの中で、自分も迷い考えることができる。
で、コミュニケーション力にまつわる話を読んでいて、ふと考えました。
「コミュニケーション」って聞いた時、ついオフェンシブなコミュニケーション=「話す」方について考えてしまうんですけど、ディフェンシブなコミュニケーション=「聴く」って必要なんじゃないかなって思ったんですね。
なぜこんなことを考えたかというと。
「話す」側って、まぁすごく大雑把に言うなら「その場における決定権」を持っているわけです。問題は、その「権」は、はたして「権利」なのか「権力」なのかってことです。
例えば…。
とてもその場をうまく盛り上げる人(Aさん)がいるとします。みんな楽しそうに笑いながら話をしている。たぶん、その盛り上げることができる人はコミュニケーション力の高い人なのかな。まぁ、そう仮定しましょう。でもねぇ。誰か(Bさん)が話題を出した時、その場においてその話題を採択するかどうかはAさんだったりするんですよね。で、「採択しない」となると流したり、あるいはその話題を笑うことでその場を盛り上げる。
まぁ…。明石家さんまみたいな?
で、わたしはこういうのはコミュニケーション力とはあまり思えないんですよね。というか、権力の行使であるとすら思ってしまう。
じゃあ、どういうあたりの力がコミュニケーションのために必要かと考えた時、ディフェンシブなコミュニケーション=「聴く」。もう一歩すすめるなら「聴きあう」ことかなぁと。これはどういう感じかというと、自分が権力を持ちそうになった時、その場の中心からずれて、権力から逃げるという感じ。あるいは「発話権」をどうスムーズに移行させるかみたいなところに神経を注ぐ感じ。
たぶんこれが、「とあるところ」の「続く」につながるんじゃないかなって思ったりするわけです。

んー。なんだか、とりとめがないというか、まとまりがないというか、説得力がないというか…。
ま、簡単に言うと、コミュニケーション力の高いおじさまは苦手ってことなんですけどね(笑)。

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