「本名を呼び名のる」という教育運動がある。よく「本名宣言をさせる」と誤解されるが、それは違う。「呼ぶ」が、なぜ先にあるのか。それは、「本名」とは、呼ぶ側、ここでは日本人の側の問題であるということ。「呼べない」自分とは?そういう社会をつくっている自分とは?そこからスタートする。
というのは、とある一連の「やりとり」(論争とか論議とかって言葉を使えるのかどうか^^;;)に刺激されてつぶやいた内容です。
で、更にこの前提として「本名って何?」っていう論議がありまして。
この論議、たぶん、いまだ結論が出ないまま、それでも論議を抱えながら、それぞれがそれぞれの「本名」「民族名」「名のりたい名前」を「表明」しながら生活をしています。そしてそれが「表明」できないとするなら、あるいは「表明という思考から疎外されている」とするなら、それは「表明を害する」「表明から疎外する」社会に問題の所在があると考える立場をわたしはとっています。
この考えは、もちろん「本名を呼び名のる」運動から教わったものだし、ここ数年の「障害の社会モデル」から教わったものです。
翻って、トランスにとっての名前は?
いまだ自分の中で結論はついていません。でも、わたしが主体的にかかわるコミュニティでは「呼ばれたい名前」「名のりたい名前」を教えてもらうことにしています。これが「本名を呼び名のる」とどうリンクするのか。リンクしないのか。リンクさせる必要はないのか。いまだ結論はついていません。
でも、名前にまつわることは、それなりにめんどうであるということ。でも、そのめんどうさこそが大切であることを、「パラムの会」は示しました。
そういう蓄積の上に、いまのわたしはいます。
また、日をあらためて、ゆっくりとどこかに書きたいけど、急ぎの大きい仕事があるからなぁ(;_;)。