朝、これから当面の予定を考えます。
まずは水曜日に使うプリントの束を作成。これはチームでつくります。
それから、金曜日までのレポートがひとつ。土曜日のことも考えなくちゃならないし、来週火曜日の朝にメールしなきゃならない大切な文章もあります。
とりあえず、必要となる時期が早いものからスタート。
ふむ。
今日はけっこう冴えてます。サクサクと進んでいきます。いい感じです。
ま、考えが途中で行き詰まって、少し寄り道するのは当たり前のことではありますが(笑)。
なんだかんだで6時頃までがんばったら燃料切れです。帰ってごはん食べよう。おなか減った(笑)。
年: 2014年
みんなどんな話をしてるんだろう…
「「伝える」という当事者」というのを、ふと「ダメダメ先輩」に伝えたところ…。先輩は
「伝えるって、難しいって考えられがちですよね」
とのたまわれて、あらためて
「そうかぁ…」
と気づいた次第でした。「伝える」って、そういう「場」を設定して(もらって)、それなりの言葉を選んで、そこではじめて「伝える」みたいなイメージがあるのかな。で、そういう「場」を与えてもらったり自分で設定したりしてる人は、そういうことに慣れてるけど、そういう機会がなければなかなか…。みたいなイメージがあるのかな。
でも、わたしが考える「伝える」はまったく違うイメージです。例えば、こないだのリビングライブラリが終わった昼休みに他のクラスの友だちとごはんを食べる。
「あんたのクラス、どんなはなしやったん?」
「うちのクラスはな、こんなんやってん。あんたのクラスは?」
みたいな会話のことを「伝える」と考えているんです。つまり、経験や出会いを自分一人のものにしない。シェアする。それを、日常の生活の場でおこなう。
それは、別に学校の中だけで存在しているわけじゃなくて、家であったり、友だちとの会話であったり、例えば就職してからの会話であったり。ありとあらゆるところで可能なわけです。
そんなことをやりとりしていたのですが、ふとダメダメ先輩が
「みんな、どんな話をしてるんだろう。なにを伝えてるんだろう」
という、これまた深遠な問いかけを返してこられました。
「例えば、子どもって家に帰って「今日こんなことがあったよ」って言うじゃないですか。でも、だんだんそれがなくなる。大人になって、みんなどんな会話をしてるんだろう」
なるほど…。
で、振り返って、職場で自分はどんな会話をしてるんだろう…。お、思い出せない^^;;。仕事の話。昨日飲みに行った話。んー、他愛もない話です。こんなことは「伝える」ではない。
昨日のテレビの話。そこで考えたこと。
あるいは昨日のカウンターの話。そこで聞いたヘイトスピーチの話。ビラを受け取ってくれた人の表情。終わって飲みながらしゃべった在日の友だちの話。
うん。伝えたいのはこっちです。
何が違うんだろう…。
「考え」を伝える?経験や出会いをそのまま伝えるのではなく、それを通して考えたことを伝える。あ!それか…。
そう言えば、こないだのリビングライブラリの講師さんのレジュメの中に「考えるのをやめないこと」っていう一文があったな。
あれなのかな…。
映画「SAYAMA」
今日は、おべんきょ仲間がやっている自主上映会で「SAYAMA」が上映されるとか。てことで、行くことにしました。
2時半開始ということで、昼ごはんを食べ終えて大急ぎで行ったのですが、3時半からとのこと。まぁ、やることはないわけではないので、雑事をしながら時間つぶし。
で、3時半から見はじめました。
狭山事件というか、狭山差別裁判というべきか。
当然のことながら知ってはいるし、もっと言うなら授業でとりあげたこともあるし。さらにいうなら、1991年かな。狭山現調に行ったこともあるし。
てことで、基礎知識的なことは、まぁいまさらなわけです。ただ、狭山のことをそれほど日常的に意識し続けているわけではありません。なので、あらためて見る中で「あぁ!そうだよなぁ」ということが多々ありました。
それからもうひとつ。石川さんと早智子さんが普通に生活をしている場所に行き、その日常も含め映像にしている。あ、もちろん、カメラが入った時点で「日常」ではなくなるのですが、それも含めて「日々の暮らし」が映されている。これは二重の意味で衝撃的でした。ひとつは「石川さんにも日常がある」という当たり前のこと。そしてもうひとつが「その日常の中にあまりにも再審請求闘争が深く入り込んでいる」ということです。
もちろん、頭では理解できます。が、それを映像として目の前に出された時、やはりそれは衝撃的なわけです。
この映画を「映画」として見た時、実はよくわからないところがないわけではないです。まぁ、わたしは映画ファンではないのでよくわからないのですが、「狭山差別裁判」あるいは「石川一雄さん/早智子さん」という強いテーマ性をもったものが題材であるだけに、すごくつくりにくいんじゃないかなと思いました。それだけに「ストーリー」があるのかないのかわからない。それに起因する「散漫さ」というものを感じなかったわけではありません。
が、それを越えて、解放運動の弱体化とともに存在そのものが忘れられてしまうのではないかということが危惧されるいま、やはりこの映画が「そんないま」つくられた意味はすごくあるなというふうに思いました。
卒業生たちとかと
今日はOP会です。ま、毎年恒例なんですけどね。これ、某所で一晩やっているので、みんなてきとうに都合のついた時間にやってきて、都合がつかなくなる時間に帰るという、かなりフリーダムではありながら、まさにいつものパターンの呑み会です。
さて、今年はどれくらい来るかなぁ。
で、フタを開けたら、10人以上の参加。けっこう集まってくれました。中には、ほんとに昔の卒業生も来てくれたりして、近況報告聞くだけでもかなり長くなるという。
もっとも、「某所」は車でしか来られないところなので、ここで飲もうとしたら、泊まりか誰かの車に便乗しかありません。なので、飲む人間はほとんどいないという。でも、なんか、けっこう盛り上がって、結局わたしはそのまま爆睡。
ま、疲れてたしなぁ(違)
一日終えて…
昨日はほとんど生徒と話ができなかったので、今日は会う生徒会う生徒、みんなに
「昨日の話、だれやった?どうやった?」
と聞いてまわりました。
いろんな感想があったけど…。必ずしも期待通りの感想ではないわけです。少し失望したような、でも、それはそれでいいような。みんなが型にはまった期待通りの感想なんか持ったら、逆にアブナイです。
と、向こうからこの子がやって来ました。なので、さっそく感想を聞くと…。
「昨日、戦争の人の話を聞いたんだけど、人を助けるのって難しいなと思いました」
とのこと。
うん、感想は何でもいいのさ。でもね…。その子のクラスで話をしたのは「イラク戦争帰還兵の講演を通訳している人」なんですよね。
「実はね、あの人を呼んだのはね。何らかの当事者の人の話を聞いた人は、その人から聞いた話を「伝える」っていう当事者になるんだよ。そのことを知ってほしかったんだ。あなたはイラク帰還兵の話を伝えてもらった。だから、あなたも聞いた話を伝える「当事者」になったんだよ」
こう話した瞬間、その子の目がほんの少し大きくなりました。
「聴くことの力」「語ることの力」
今日は昼前に、うちのガッコでは初の試み「リビングライブラリ」がありました。
リビングライブラリを終えて、あらためて「リビングライブラリってなんだろう」ってことを何度も何度も考えました。かつて「本」をやった立場とはまた違う「司書」の立場から考えることはたくさんありました。
そのきっかけは、ある教員のひとことでした。
「あの人は苦労をしていない」
この言葉への強烈な違和感が、自分の中にずっとあります。その違和感を言葉にするのにものすごく時間がかかります。でも、あえてひとことで言うなら
「被差別の立場にあるものは苦労しなくちゃならないのか」「被差別の立場にあるものが語れるのは苦労だけなのか」
でした。
今回「本」になってくださった一人ひとりは、たぶんそんなに大きな被差別体験はもっていません。でも、小さな被差別体験は持っている。そこに敏感であることが大切なんだと思うのです。「生きるか死ぬか」「ヤクザかカタギか」という波乱万丈もいいです。でも、そんなのばっかり聞いていたら、鈍感になります。被差別体験のインフレーションを起こしてしまいます。
ではなく、日常の中にこっそりとたたずんでいる差別に出会う感覚。やり過ごすことも可能だけど、やり過ごせない心の痛み。そんなところにある「小さな」差別にこそ着目したい。
そして、もうひとつ。
それは「可視化」なんだろうなって思ったんです。
遠くにある被差別者が遠くでしゃべるんじゃなくて、隣にいる人がふとつぶやく。それを聞く。「この人にもこんなストーリーがあったんだ」ってことに気づく。
たぶん、最初にあげたひとことを言った教員はステレオタイプ化された「語り」を期待していた。でも、それはなかった。だから「イマイチだった」んじゃないかと思います。
では、わたしはどんな聞き方をするのか。
わたしは基本的に、何も期待していない。ただ、聞く。そしてその人の語りから考える。そして見つける。
この人は何に引っかかっているんだろう。その引っかかりにどうやって気づいたんだろう。いま、その引っかかりとどう向き合っているんだろう。なにかアクションを起こしてるのか。起こしてないのか。起こすならなぜ?起こさないならなぜ?
学ぶことは山のようにあります。それを学ぼうと思うなら、あらかじめの「期待」は邪魔です。もしもあるなら「何が起こるだろう」という期待だけです。
そういう聞き方をしている。
リビングライブラリって、たぶん、そういう聞き方をするものなんだろうなって思いました。
これは、例えば、生徒の相談に乗るときの姿勢と共通しているかもしれません。
ある生徒が相談に来る。
たぶん、多くの教員は「その生徒が知らないことを言ってアドバイスする」んじゃないかと思います。でも、わたしは、「その生徒の中にある答えをその生徒自身が見つける手伝いをする」ものじゃないかと思っています。本人は「それ」が答えとは思っていない。だから、わたしは聞く。その子から言葉を引き出す。そして、「そうだったんだ!」って、わたしが気づく。その気づいたわたしの姿を通して、その子は「これだったんだ」って気づく。
このことは、リビングライブラリが「本」にとっても大切な場であることを示唆しています。「聴く人」に向けて「語る」。「語ること」を通して整理する。そして、「聴く人」を通して気づく。そういう相互作用の場であるということです。
リビングライブラリという場にかかわるもの。それは「本」であれ「読者」であれ。そこに必要なのは、おそらくは「誰からも学びうる」という姿勢なんじゃないかなぁ。
いいことふたつ
- うれしいひとこと
放課後、ある生徒が用事でやってきました。ついでなんで
「明日、誰の話を聞くか教えてもらった?」
明日の人権学習、3年生はリビングライブラリです。ま、実際には「クラス別ミニ講演会」という方が正確なんですが^^;;。
「うん。Aさん」
Aさんのタイトルは「僕に彼氏ができるまで」。
「へー、そうなんや」
「うん。なんか、聞きたいなぁってちょっと思ってた。楽しみかもしれない」
ニコッと笑いながら帰っていきました。
いままで子どもが「楽しみ」って言ってくれる企画をどれだけできてきたかなぁ。もちろん、魅力ある講師の人々に来てもらってきたし、終わってから「よかった」ってたくさんの生徒が言ってくれました。でも、それとは違う感じ。
大きな「よかった」ではなく、小さな「楽しみ」。そんな「小さな楽しみ」という言葉は、わたしに「小さな喜び」と「小さな勇気」を与えてくれます。
- 効果あり
夜は骨密度の測定。
考えてみると、まめ*1ですよね。半年に一回血液検査と骨密度検査をしてるわけです。まぁ、普通はそんなもん、いらないわけですが(笑)。
てことで、まずはデータ。
測定日 | 数値(g/cm2) | 同年代女性(%) | 若年女性(%) | 同年代男性(%) | 若年男性(%) |
---|---|---|---|---|---|
2011.4/1 | 36.6 | ||||
2012.5.11 | 120 | 112 | 98 | 95 | |
2012.11.22 | 0.737 | 97 | 95 | ||
2013.4.1 | 0.749 | 125 | 116 | ||
2013.11.11 | 0.718 | 120 | 115 | ||
2014.5.26 | 0.752 | 127 | 116 | ||
2014.11.4 | 0.760 | 128 | 118 |
「1%あがってますが、これは誤差の範囲と考えていいので、変化なしですね」
「はいはい」
「とにかく「骨密度を下げない」というのが当初の目的なので、効果が出ているということですね」
「はいはい」
「なので、続けましょう」
「はいはい」
という感じです。
てことは、火曜日のみ5時20分起きがまだまだ続くということですな(;_;)。
ま、でも、よかった(^^)。
*1:「まめ」の漢字は「忠実」だそうな
これで終わり
今日は特異日なので晴れのはず。
さてと、マダンの片づけです。
とにかく、すべて雨にやられてます。泥は昨日、簡単に洗っておいてもらったけど、テントとかはぐっしょり濡れてます。どころか、焼き肉の匂いが染みついてます。そしてなにより、バーベキューコンロです。炭と焦げたタレでグダグダです。
とにかく、使ったものをすべて出して、乾かすところからスタートです。
今日は陽射しがそれなりに強いので、乾燥が早いです。乾燥させている間に、いろいろ洗いもの。
で、最後にバーベキューコンロ。去年からスクレーパーを使うようになりましたが、すごく効率があがりました。しかし、バイクのために買ったものが、こんなところで役に立つんですよね^^;;。
てことで、2時間半ほど格闘して、片づけ終了。
これで今年の東九条マダンは終了。
さて、呑みに行くか(笑)。
いい店だわ
マダンのあとはクールダウンが必要です。
というか、朝からなにも飲んでない(;_;)。
てことで、荷物をおろして、電車に乗って、向かったのは「かぜのね」というカフェです。
ここ、前にスタッフの人とたまたま話を交わす機会があって、それから気になっていました。なんといっても、「なかパレ」のフライヤをおいてくださった店でもあります。
てことで行ったのですが、なかなかいいです。料理の味はやさしいし、しかもおいしい。さらに、お酒がいい!ビールはハートランドと地ビール。日本酒もいいのがそろってます。さらに、閉店時間が10時と早いのがいい(笑)。
てことで、閉店まで今日の反省を厳しくしながら、まったりダラダラと呑んでました。
さて、帰ろう…。
わたしのマダンはまだ終わっていない。
今年もやってきた
今日は毎年恒例の東九条マダンです。
はっきり言って、最近、やるのがしんどくなってきてはいるのです。でも、これをやらないと、交流会の活動ができなくなります。なので、やはりやらなきゃならないわけです。
それにしても、3日は特異日なんですが、3日をはずすとたいてい雨なんですよね。で、今年も雨らしいです。でも、マダンは決行です。
とりあえず8時に会場に入って、ひたすら準備。やがて毎年手伝ってくれるSさんか来てくれました。ほんとに助かります。
そうこうするうちに、卒業生から「向かってます」とか、現役生から「もうすぐ」とか連絡が入ってきます。よしよし。と、かつて担任したHがやってきました。久しぶりやなぁ…。
結局、マダンはこういうものなんですね。
マダンに来れば人に会える。まさに「マダン」です。だから、マダンをやる意味があるんだろうし、わたしも焼肉屋をやり続ける意味がある。
途中、えらい雨が降ってきて、ブログラムが中断。こんなのも珍しいです。やがてブログラムを再開したものの、スケジュールをぎっちり入れるものだから、隙間の時間がありません。ということは、お店をまわる人が少なくなる→肉が売れない(;_;)。
まぁ、それでも、1kg残して終了。もうけは少ないけど、ゼロではないはずです。
おそろしいほどの疲労と、でも何とも言えない充実感をもって、今年の東九条マダンも終了。