今日は昨日の反省に立って、問題箇所をほぼ全面書き直し。ふむ。羅列ではなく、キーワードを抽出しながらつなぎあわせ、しかも共通点をあぶり出して、持ち上げて叩く。なんか、ギョウザの皮をつくってる感じです(笑)。
半日コネコネしたけど、どうもイマイチしっくりなめらかにこないです。なんか、ギョウザの皮をつくってる感じです(笑)。
夕方、タイムアップ。やむを得ず、「寝かせ」にはいります。なんか、ギョウザの皮をつくってる感じです(笑)。
とりあえず、おべんきょ場所に行って、しばしセンセの話を聞いて、家に帰って、とにかくビール(笑)。
さてと。寝かせたネタをふたたびこねますか。なんか、ギョウザの皮をつくってる感じです(笑)。
と…。
寝ちゃいました。そりゃ、ふとんに横になってパソコン開いたら寝ますわな。
12時頃、ふと目が覚めて、仕方ないので「明日の朝にやろう」と決意。寝る準備をして、目を閉じ…。
来ました。コロボックルさんが運んできてくれました。にしても、「よりによって今か」と。このまま寝るか、パソコン開けるか。明日の朝までキーワードを覚えてる自信は…。ないです。てことは、パソコン開ける以外ないですね。
カチャカチャカチャ。あ、つながったo(^^)o。
年: 2014年
行き先を見失わないこと
わたしはもちろん文筆家ではありません。でも、なんかしらんけど、文章を書かなきゃならないことがよくあって、なんだかんだと書いてきました。
でも、今は、これまで書いてきた文章とはまったく異なるタイプの文章を書いています。長いです。しかも、行き先はまっすぐ。あるいは…。いままでは人をびっくりさせて笑わせる文章。でも、今書いているのは人を納得させて安心させる文章。そんなの書いたことないです。
するとどうなるか。
スキーと一緒です^^;;。
初心者は足元を見る。上級者は前を見る。インストラクターは後ろも見る(笑)。
いま、わたしは文章を書きながら、下ばかり見ています。だって、なにがあるかわからないし、「これでいいの?」って、いつも不安だから。で、足元見て進んでいって、二週間に一回の「おべんきょタイム」に
「ここまで来ました」
って言って、センセとあたりを見まわしたら、センセから
「あんた、どこ行きたかったん?」
って呆れられる。で、わたしも
「あれ?どこでしたっけ」
「こっちとちゃうん?」
「あ、そっちでしたっけ?」
みたいな会話が続きます。
これはいかんなと。こんな会話を楽しめる間はいいんですが、もう、そんな時期ではありません。でも、初心者であることに変わりがない。
じゃどうするか。
とにかく、たまには顔をあげよう。ほんの少し立ち止まってもいいから、たまには行き先を見よう。その時気づいたことを形に残そう。
行き先を見失わないこと。
一夜あけた朝
それでも朝はやってきます。不思議なほど気持ちよく晴れ渡った朝です。
いつものようにやかんを火にかけて、台所の窓を開けます。外から夏の朝特有の冷たい風が入ってきます。その瞬間、
「あ、もしかして、自分、にほん好きかも」
と思ってしまいました。そして、次に出てきたフレーズが
「にほんをかえせ」
でした。
その「にほん」は…。
例えば、昨日出張で行った、わたしにとっての第二のふるさとのたんぼの風景かもしれない。あるいは、みんなが急がされているこの時代、スローフードの。おにぎりを売ってるお店かもしれない。いつも変わらず人が集まるお好み焼き屋かもしれない。みんなが安さを求める中、無農薬野菜をつくっている人かもしれません。
よくわからないけど、そんなこんなが自分にとっての「にほん」であり、案外そんなくだらなかったりつまらなかったり情けなかったりするものが好きなのかもしれないと思いました。
でも、あれ?「かえせ」ってフレーズ、どこかで聞いたよなぁ…。あぁ、あれだ!
ちちをかえせ ははをかえせ.
としよりをかえせ
こどもをかえせわたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせにんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
なんか「にっぽんを取り戻す」とかいうフレーズがあって、どんな「にっぽん」かはわからないけど、「権力という暴力」を使って「奪おう」としていて、どうやらそれはとてもではないけど好きにはなれなくて、住みにくて、危険な「にっぽん」らしい今、ふたたび「にほん」をとりもどすこと。その闘いは、すでにはじまっているし、今日はその仕切り直しの日なのかなぁと、ふと思いました。
なんか、腹を立てて、怒りまくった次の朝が穏やかなのは、怒りが収まったからじゃなくて、その怒りが内在化し、自分の日常と融合したからなのかな…。
何回繰り返せば
仕事をしながら、ときおり「更新」しながら情況を見守ります。やがて、なにごともなかったかのように「合意した」の文字が。あまりにも茶番です。
当然のことながら、5時半に仕事を切り上げて四条河原町に向かいます。交差点に行くと、すでに100人を越す人々が集まっています。
デモの出発点に向かう道すがら、なんとも言えない「疲れ」に襲われます。なんなんだろう。この疲れは。
デモの出発待ちの時間、人が続々と集まってきます。やがてデモ出発。
道行く人の反応はさまざまです。
無視をする人。写真を撮る人。拍手する人。子どもに「あんたも入らんと」みたいなしぐさをしている人。
昨日もそうでしたけど、「無視をする人」の顔が一番つらいですね。無表情なんです。でも「そこにそれはない」とする「意思の表情」が伝わってくるんです。
なぜ無視をするんだろう。なぜ拒否ではなく無視なんだろう。実のところ、わたしにはわからない。そして、それがわからないかぎり、無視をする人はこちらを向かないであろうこともわかっている。でも、その無視をする人は、その「無視の意志」を持ったまま、例えばこの国が向かおうとしていく先に向かっていくんだろうか。
デモも終盤に入り、ドラム隊はいよいよ激しさを増します。
再び「怒り」がこみ上げてきます。その怒りは、たしか前にも…。あぁ、この日です。忘れもしない「教育基本法改悪の時」です。あの時と同じ思いを幾度繰り返してきたか。そしてこれからも幾度繰り返すのか。
でも、そこで、無表情にはなりたくありません。無視はしない。
艱難は忍耐を生み出し、
忍耐は錬達を生み出し、
錬達は希望を生み出すことを、
知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。
四条河原町マルイ前にて
みなさん。
わたしは学校の教員をしています。
わたしは今日、自分の義務を果たすためにきました。わたしは教育公務員です。公務員は憲法を遵守する義務があります。明日学校で子どもたちに「義務を果たしてきたよ」って言うために、ここに来ました。
もうひとつあります。
最近、自分の心がパサパサになってきた気がするんです。パサパサになった心だと、現実もパサパサにしか見えません。やつらはそんなパサパサな心が大好物なんです。そのパサパサな心に、なんやろ、いらんもんを入れるんです。だから、今日はそんな自分の心に水やりに来ました。
うちの学校の子らは勉強苦手なんです。でもそんな子どもから、今日「先生、おんなも戦争行かなあかんの?」って質問されました。わたしは「そやなぁ。男女共同参画の時代やしなぁ」って答えました。他の子から「先生、わたしら攻撃されるの?」って聞かれました。「そやなぁ。日本には基地がいっぱいあるからなぁ」って答えました。
そしたらその子「イヤやー。なんでこんなことになってしもたんやろ」って泣きそうな顔をしてました。
ブルーハーツの「青空」の中にありますよね。「こんなはずじゃなかっただろ、歴史が僕を問い詰める」。わたしは「こんなはずじゃなかった」って言いたくないんです。
頼みます。うちの子らを助けるために、「こんなはずじゃなかった」って言わずにすむために、力を貸してください。
四条河原町でマイクを持ったのは2度目です。1度目は、「ふるさと」のメロディで
「キムチおーいし、あの店ー♪」
と歌って、そこにいた人の失笑を買いました(笑)。
今日はあの時よりもましだったかなぁ。でも、この内容考えるのに1時間かかりましたよ。
明日、子どもらに報告やな(^^)。
詩の持つ力
暗澹たる気持ちだった今朝、ひとつの詩が流れてきました。
明日戦争がはじまる
宮尾節子まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなったインターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなったじゅんび
は
ばっちりだ戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる
思わず印刷して配ってしまいました^^;;。
心がパサパサになる前に、水やりを。
詩には人の心を生き返らせる力があるんだなぁ。
報道
夕方、なにげなくfacebookを見ていると、新宿南口で焼身自殺をはかった人がいるとの情報が流れてきました。
とうとうここまできちゃったのか。自分の命を賭して抗議しなくちゃならないところまで来ちゃったのか。胸が痛みました。
ことの是非ではない。とにかく心に痛みが走りました。
もうひとつ。報道されない。WHOにガイドラインがあるとか。そう言えば、前にもそんなことを聞いたことがありました。しかし、同じWHOのガイドラインがあるはずの海外のメディアでは報道されている。その差はいったいなんだ?
もしかしたらガイドラインの本質を見誤っていないか?だって、とうてい「こんな報道してええんか?」ってこともガイドラインがないゆえに報道している事例が散見されます。思考停止してないか?自分で考えているのか?あるいは、考えた結果、現政権への気配りで報道しなかった?
そしてもうひとつ。同時に「まとめ」にあった「無関心」なつぶやき。
感性の潤いは、気がつくとなくなる。パサパサに乾いた心は、現実をパサパサにしかとらえられなくなる。なぜ、感性がパサパサに乾いていくんだろう。
久しぶりに家にいた
なんか、朝、下の子どもが「ぎゃー」とか言っているので目が覚めましました。なんでも、ムカデが出たとか。最近よく出ます。そのムカデ騒動で、文化祭の練習に間に合わないとかで、学校まで送るはめになったりして。
まぁ、でも、のどかな朝です。
帰ってきたら、読まなきゃって思ってた本を読んでみたりしたのですが、もういろんな意味で「おお!」の連続でした。いや、買ってよかったです。古本だけど^^;;*1。
昼は久しぶりにお好み焼きをつくりました。さっくりつくるためにちょいと「生地」に工夫をこらしたのですが、もうひとつ。まだまだ奥深いお好みの道です。
で、ちょいと昼寝して、ブラジルvsチリのサッカーを見たりして。いや、これなら見たいと思いますね。なにより、いらん応援も入らんし、世界最高峰の試合を楽しめます。
てなことやってると、夜。
ま、こんな一日が、本来普通なんでしょうね^^;;。
*1:すんません、木村センセm(__)m
あれやこれや
今日の午前はうちの組合の定期大会です。なんか、毎年議長を頼まれていて、なんか今年も頼まれて…。イヤとは言えない正確なので、これまた引き受けるわけで(笑)。
でも、ふだん組合の「ために」何かができているわけでもないので、こんな時くらいはやらなきゃなと思うわけです。
で、会議の場所に行くと、今年はけっこうたくさん来ておられます。てか、来賓の人数多い(笑)。MさほさんとかH井さんとかが来てるのは地元だからわかるにしろ、F山さんが来たのはおどろきました。でもまぁ、あの人も地元か^^;;。
てのはおいといて。
今回、いろんな立場からいろんな問題提起がされてよかったです。それこそ、大規模小学校からの悲鳴のような意見とか、入試制度がどんどん変わる中で様変わりしていく高校からの意見とか。はたまた、「総合特別支援員」なる立場からの意見とか、大規模中学校からの意見とか。
そうそう。電子化されていく各種書類のすき間の問題とか。
この電子化の話。制度設計する人間の価値観が見事に反映されるんですね。いや、たぶんいろんなことを考えて複数の人間がやるんだろうけど、でも、そこから漏れ落ちるものがある。というか、「制度設計する人の中に入れてもらえないような人」の考えることは漏れ落ちる。でも、現実には「漏れ落ちたこと」は起こるわけで、そうすると少数の人間にとってメッチャ使いにくいものになってしまう。でも、少数だから「特例」とか言われてしまう。ちゃうねん。「特例」にすることは「排除」やねん。
ま、そんなことを考えたり。
なかなか有意義な討論でした。
でも、この論議の内容を「ある種の人々」が聞いたら「資質向上のために、研修を増やして」と、真逆のことを言うんだろうな(笑)。
で、終わってからは○ールを呑みながら交流会。でも、さっき悲鳴をあげてた人たちはいません。たぶん、仕事の現場にもどってるんでしょうね。土曜日の午後にですよ。
たぶん、これを聞いた「ある種の人々」は「自己責任」とか言って、「より効率よく仕事できるよう資質向上をはかるために研修を増やして」とか言うんだろうな(笑)。
で、交流会がすんだら、みんなは終わりだけど、わたしはそのまま同じ会場で「某在日外国人教育関係」の会議です。さすがに眠くて、途中寝ちゃったのはここだけの秘密にしたいけど、たぶんバレてるな(笑)。
会議のあとは、当然飲み会。んー、と思ったけど、とりあえずビール一杯だけ飲んで、そこを離脱。なんかどうしても肉が食べたかったので、肉を食べたい友だちと別の場所で肉を食べて、フラフラになって帰りました。
いや、中国のお酒は効きますわ^^;;。あれ、考えてみたら、メッチャ濃いミードみたいなもんだったなぁ…。
違和感
考えをまとめているときの「おべんきょ」はあきませんね。なんか、思考にノイズが混じります。なので、少し気は重かったのですが、行かなきゃならんものはならんので行ったわけですが…。
先週「ひさびさにおもろい!」と思ったおべんきょが「事例研究」でして、興ざめです。でもま、聞かせていただきましょう。
で、聞きはじめたのですが…。
なんだろう、この違和感。
いや、とても優秀な教員であることはわかるのです。でも、優秀すぎて、なんか違和感。
子どもを見る→分析する→方策を立てる→実行する→評価する→…。
みたいな。で、「一年間やりきりました。うまくいきました」。いや、学ぶべきことはたくさんあるんです。でも、直感的に「ここからは学びたくない」と思ってしまう違和感。
子どものありように名前をつけ、それを手がかりに分析し方策を立てる。自分の理想とする像があり、そこへいくためにさまざまな手立てをする。実際には違うのかもしれないけど、報告からはそういうふうに受けとめてしまうのはなぜなんでしょうかねぇ。
もしかしたら「あるべき像」みたいなものがあるという意味では、「四角」をめざすのか「雲」をめざすのかは、わたしには同じに見えているのかもしれません。では、わたしは?
たぶん、「ありたい像」はあるにしろ、現実にある「もの」からできるものは「それ」とは違うと考えているのかな。そして、できあがったものが「めざしてた像」とは違っても、「できたやん(^^)」って思っちゃう感覚。
うーん。
どうしようもないもやもやを抱えながらのいち日の終わりでした。