映画「SAYAMA」

今日は、おべんきょ仲間がやっている自主上映会で「SAYAMA」が上映されるとか。てことで、行くことにしました。
2時半開始ということで、昼ごはんを食べ終えて大急ぎで行ったのですが、3時半からとのこと。まぁ、やることはないわけではないので、雑事をしながら時間つぶし。
で、3時半から見はじめました。

狭山事件というか、狭山差別裁判というべきか。
当然のことながら知ってはいるし、もっと言うなら授業でとりあげたこともあるし。さらにいうなら、1991年かな。狭山現調に行ったこともあるし。
てことで、基礎知識的なことは、まぁいまさらなわけです。ただ、狭山のことをそれほど日常的に意識し続けているわけではありません。なので、あらためて見る中で「あぁ!そうだよなぁ」ということが多々ありました。
それからもうひとつ。石川さんと早智子さんが普通に生活をしている場所に行き、その日常も含め映像にしている。あ、もちろん、カメラが入った時点で「日常」ではなくなるのですが、それも含めて「日々の暮らし」が映されている。これは二重の意味で衝撃的でした。ひとつは「石川さんにも日常がある」という当たり前のこと。そしてもうひとつが「その日常の中にあまりにも再審請求闘争が深く入り込んでいる」ということです。
もちろん、頭では理解できます。が、それを映像として目の前に出された時、やはりそれは衝撃的なわけです。

この映画を「映画」として見た時、実はよくわからないところがないわけではないです。まぁ、わたしは映画ファンではないのでよくわからないのですが、「狭山差別裁判」あるいは「石川一雄さん/早智子さん」という強いテーマ性をもったものが題材であるだけに、すごくつくりにくいんじゃないかなと思いました。それだけに「ストーリー」があるのかないのかわからない。それに起因する「散漫さ」というものを感じなかったわけではありません。
が、それを越えて、解放運動の弱体化とともに存在そのものが忘れられてしまうのではないかということが危惧されるいま、やはりこの映画が「そんないま」つくられた意味はすごくあるなというふうに思いました。