こんなことしてていいのかなぁ…。

朝起きると、いつもの玖伊屋の朝の風景です。「トッキュウジャー」とか「プリキュア」の音が流れてきます。ま、そんな音で目が覚めるのも一興ですね。
で、のそのそ起き上がって朝ごはんづくりです。昨日の鳥の丸焼きのあとのガラでスープはとってあります。なので、ご飯を炊きましょう。時間を考えると、鍋炊きですね。「鍋炊飯推進委員さん」の方法に従って炊くと、焦げることもなくちゃんと炊けました。ほんとに簡単なんですよね。10・7・7・10と覚えればOKみたいです。
で、朝ごはんを食べて、マッサージをしてもらったりして、さてさて、あとかたづけです。
昼ごろに片づけも終了して、おたふくに移動です。で、いつものように焼酎のお湯割りと月見とろろで玖伊屋あけの午後を楽しんで、二次会はラス・マルガリータです。なんか、今日はQueenナイトらしく、ひたすらQueenが流れています。そんな中、ブリティッシュロック談義をかわしながら、テキーラをくいくい呑むと、あっという間に10時です。
あかんあかん。帰りましょう…。

にしても、ほんとはこんなことをしてたらアカンのですけどね^^;;。

玖伊屋な夜

最近、さすがに5時半起きの毎日がしんどくなってます。なので、土日はあえての寝坊です。にしても、明るくなってから起きると気持ちいいです。
で、のそのそ起き出して、とりあえずパソコンに火を入れて。
あれやこれやと用事をしながら、文章を書きます。んー。頭の中に「考え」はあるし、メモ書きもしてるんですが、それを文章にするのはひとつステップが違うんですね。やはりそこで詰まってしまいます。でも、詰まりながらも文章化しないとダメです。一度文章にしてしまえば訂正すればいい。でも、文章にしなければ、それすらできない。なので、力技でゴリゴリと文章にします。
そんなことをしているうちに、夕方になってしまいました。
さて、出動です。
ちょいと人と会って、話をして。それから玖伊屋の開店準備です。今日のメニューは「ローストチキン」です。なので、ダッチオーブンに放り込んだ時点で、やることはなくなります(笑)。
ま、できあがるまでの「つなぎ」のために、ちょいと小さな料理をつくったりしているうちに、だんだんお客さんが来はじめました。ヤバイです。酒が足りない。てことで、初参加の人に買い出しに行ってもらったりしてしまいました。
が、そのうち、来る人くる人、みんなお酒を持ってきて下さいます。しかも、どれもこれもうまい!メッチャうれしいなぁo(^^)o
途中、つい説教なんかをしてしまって、それはそれで必要だったんだと思うんだけど、ちょっと「あたり」がきつかったかなぁとか。
そんなこんなの夜をしているうちに、眠たくなってダウンです。

今日はとにかくさくさくと仕事をしないとどうしようもない予感がします。てことで、7時半頃に出勤して、とにかく細かい作業をぜんぶすませてしまいました。で、午前中はカントクだの授業だの。
昼に職員室に帰ってきて、ちょいと「おべんきょ」です。
仁の物語」と「智の物語」をぶっ続けで見て、涙がチョチョ切れました。
で、おべんと。

午後からは第2のふるさとに出張。と、卒業生が出張先で働いていました。てことで、しばし雑談。んー、なつかしいなぁ。20年前にタイムスリップしたような感じです。しかし、20年前にタイムスリップということは、その卒業生を担任していた時のわたしの年齢は、その卒業生の今の年齢とほぼ同じ。なんかこわいな…。

で、夜はおべんきょです。
今日はさっきのビデオをつくられた幸重さんの講演です。テーマは「子どもの貧困」。わかりやすいワークシートを使って「貧困」について考えたり、そういう子どもたちの居場所づくりの話を聞いたり。
子どもの居場所づくりって、「根本的な解決」ではないかもしれません。でも、だからと言って、現実にその「居場所」を必要とする子がいるわけで、それはほうっておけない。まぁ、わたしがやっている「交流会」も似たようなものなのかもしれません。ちょっと違うか^^;;
にしても、一番ウケたのが、講演の後の雑談の時間帯の
「SSWの研修会で話をしたとき、「子どもの貧困ってそういうことだったんですね。わかりました」って言われて、「お前、仕事しろよ!」って思いましたよ」
ってエピソードでした(笑)。

家に帰ったら「本」が届いてました。
ふへへ…^^;;

わがままな一日

朝、おなかが痛くて目が覚めました。トイレに行くと、完全におなかをこわしていました。うーん、昨日の鍋のカキかなぁ。こないだも生牡蠣あたったからなぁ。
今日は試験監督が入ってないから、このおなか痛を理由に休もうかなと思ったけど、カントク表には書いてないけど実は授業があるのを思い出して断念しました。てか、完全に考え方が子どもです。
わたしの「おなかくだし」を聞いたパートナーは
「あんた!重症やん!」
とか言ってますが、パートナーはわたしの身体の雑なつくりを知らないのです(笑)。わたしの身体は「くだした部分」が出てしまったら、あとはなにごともなかったかのようになるのです。

てことで、出勤。
今日は雑務を必要最小限に抑えて、やらなきゃならないことの優先順位を引き上げてみました。途中、「明日入試がある」という生徒の最終チェックにしばらくつきあって、気持ちをリフレッシュ。で、ふたたび引き上げた優先順位のものをちょこちょこやって。あと一息というところで力尽きたので帰宅。

家に帰ると昨日の鍋の続きです。
おなかの具合は…。ほら、治ってます(笑)。

鍋の後は、続きをチョコチョコやって、とりあえず「料理終了」。
さて、コース料理の続きをつくろ…。果てた(笑)

若手教員に何を伝えるのか

いま、学校現場で深刻なことはいっぱいあるのですが、やはり教員の年齢層のアンバランスはかなり深刻かなと。なんしか、中堅層がまったくと言っていいほどいない。なので、わたしは常にペーペーなわけですo(^^)o
で、いまあちらこちらで「若手への継承」みたいなことを言われています。
が…。
なんか、やっぱりそれって「上から目線」的でイヤではあるんですよね。いや、若手教員、一生懸命やってるし、なにより「でき」がいい。わたしなんかよりよっぽど仕事します。ただ、じゃ、わたしの代わりができるかというと、それはたぶんムリなんですけどね(笑)。
で、伝えるべきところは「そこ」かなと。なぜ代わりができないのか。何が違うのか。
たぶん、とてもよく仕事をするんだけど、とても生徒となかよくなるんだけど、その方向性が少し違う。その「違い」をどう説明したらいいんだろうか。あるいは、説明ではなく伝えるにはどうしたらいいんだろうか。
そんなことを、ずっと考えています。

ま、今日もそんなことを意図した研修会でした。「人権研修」だけど、「人権」も「差別」も一回も出てこない講演。でも、伝わったと思います。少なくとも何人かには。それでいいんです。その何人かがヒントをもらい、試してみる。それが少しずつ広がっていけば、それは「自分で考えてやったこと」だから、きっと自然なものとして、身の丈にあったものとして、そこにあるはずです。

料理の腕

とりあえず、今日の午前中にペーパーを出さなきゃならないので、ひたすらキーボードをパチパチ。なんとか10時過ぎに出し終えてひと息。さて、雑務だ…。
午後から出張なので、そろそろ出ようかも思ったら、メールが一通。
「素材はもらったけど、料理するのはいつきさんでしょう」
い、いや、その通りです。実は、素材をとりあえずお皿の上に並べただけなんです。ちゃんと包丁入れてないし、盛りつけもしてません(;_;)。
バレバレです。てか、わかるわな…。
てことで、料理をやり直しです。
しかし、わたし、そっちの料理のしかた、あまり知らないんですよね。それを教えてほしかったんだけど…。
でも、たぶん
「自分なりに料理してみて」
ってことなんでしょうね。
よし、やろう!

てことで、こもりん

今日はいい天気です。
こんな日は、焼肉…。もとい、ふとんを干して、家にこもります。
とりあえず朝ごはんを食べて、10時過ぎにパソコンに点火。そこから、考え考えひたすら文章を打ちます。
昼ごはんはなんとなく「もんじゃもどき」。いや、昨日の夜、たまたまスルメを見つけたもので…^^;;。キャベツのみじん切りをつくりながら気持ちをリフレッシュ。
で、食べ終わったら、またまたパソコンの前へ。途中、上の子どもにおべんとのネタづくりの司令を出してリフレッシュしながら、ひたすらパソコンと向き合います。行き詰まると、ついfacebookとかtwitterを見てしまい、「いかんいかん」と…。
おふろに入って、晩ごはんを食べたら、またまたパソコンの前へ。
そんなふうに、13時間ばっかパソコンの前に座り続けて、とうとう煮詰まりました。
えい!もうやめ!
ふとんの中に潜り込んだら、またまた「ヒント」が浮かんでくる悲しさです。寝られないじゃん(;_;)。

こういう思いを「忸怩たる思い」と言うと誤用らしい

個人的な事情で、9月以来、しばらく地元以外での直接的な動きは抑制しようと決めました。なにせ、土日をそれに使うと、そうでなくてもいろいろ入っている土日にさらに入ってきて、ほんとに見動きがとれなくなります。
にもかかわらず、いま、「直接的な動き」が、あたかもピークであるかのように、情報はいっぱい入ってきます。突き動かされそうな身体を、とにかくとどめる。
でも、そう決めた。だから、今はそうする。
ちなみに、仲間たちはみんな「そりゃ、そっちが大切だわ」と、口を揃えて言ってくれてます。みんな優しいなぁ。その優しさに応える意味でも、がんばらなきゃな…。

35年の重み

今日は某在日外国人教育関係の会議のあと、多文化共生フォーラム奈良の35周年のパーティーに参加しました。で、いろんな人のスピーチを聞きながら、あらためて35年という重みを感じました。
35年前…。1979年。わたしが大学に入る前ですね。そんなころから在日外国人の子どもたちの教育にまっこうからとりくんでおられたわけです。それは単に「教室の中で在日外国人理解の教育をする」などという話ではありません。ひとりの在日外国人の子どもにかかわるということは、その子の進路保障をするということです。で、その進路保障とは、単にその子の進路を保障するということではなく、社会の有り様を変えていくなかですべての在日外国人の子どもの進路を保障するということです。実は第一世代の方のうち何人かはすでに亡くなっておられます。あるいは定年退職を迎えた方もおられます。それでも、今もフォーラムは続いています。
この35年の間、いろんなグループができています。きっと「新しい活動」をされているんでしょう。それはそれで大切だとは思います。ただ、「新しい活動」が見ている課題はあるんだろうけど、フォーラムあるいは全外教が見ている課題が解決しているかというと、何も解決していない。いや、「なにも」ではないか…。解決の方向へ動かしてきてはいる。でも、逆行している部分もある。
35年もやってきた活動って、重いです。それはいろんな意味で重いのです。たぶん、新しく「自分がやりやすい活動」をつくったほうが楽かもしれない。でも、やっぱり、この歩みはとめたらあかんなぁ。そんなことを、焼酎を飲みながらぼんやりと考えていました。

効果のある学校

教育の階層間格差をどう埋めていくかという論議の先に、いま「効果のある学校」とか「力のある学校」ってのが、いろいろ論じられてます。今日のおべんきょのテーマはそのあたりの話でした。まぁ、「流れ」としては当然のこととして…。
これ、絶望的とも言える「コールマン報告」のあと、「ちょっと待ったぁ!」という感じで出てきたエドモンズらによる「エフェクティブ・スクール」からスタートしてます。しかし、エドモンズさんたち、よくぞやったなぁと思いますよね。たぶん、コールマン報告って、えげつないサンプル数なんじゃないかと。で、それを整理しなおして、「少数ながらも低い階層に置かれた子どもたちであっても高い学力を保障している学校がある」って見つけ出すんですから。そのモチベーションはどこから来たのかってのが知りたいです。んー。もしかしたら「アメリカンドリームの証明」いや、「パンドラの箱の中をのぞきこもうとした?」。ま、わかりません。
で、同じことは日本でもいえて、それを大阪で調査研究しているのが「力のある学校」ってやつですね。
これ、ある意味、同和教育の正当性であるとか妥当性であるとかを証明しようとしているとも言えるんじゃないかと思います。それだけに、貴重な論考なんだと思います。
ちなみに、このあたりの話は個人的には10年位前から注目をしていた、というか注目せざるを得なかった話でして。いまもすごく興味を持っているところです。
で、センセがバクっと言われたことを、さらにバクっと言うと「これまで学級経営であるとか授業力であるとかによって学力の向上を考えていたのを、学校経営の観点から考えようとするもの」ってことのようです。ところがこれ、教育社会学のギョーカイではいろいろな論議があるようです。
というのは、同和教育の流れで言うと「おぉー!」というパラダイムの変換なんですが、学校経営学をずっとやっていた人から見ると「プッ、今ごろ」みたいな話だそうです。ま、そりゃ、その道のプロですからね。ただ、これはこれで問題でして、学校経営学でされている論議には、「力のある学校」で論じられている「背景」がない。つまり、「こうすればうまくいく」というだけのことであって、そこにある学校間格差なんかは論じられていない。極論すれば、どこぞの文教区でも生活保護世帯が山のようにある学区でも同じ論じ方になる。とすると、「学校経営学」で論じられているリソースを持たない校区の場合、実現が困難になる。となると、学校間格差が拡大する。
つまり、両方の観点が必要ってことです。でも、その両者の架け橋となるものが、いまのところない。
ま、そんなあたりでしょうか。

で、ま、それはそれなんですが…。
たぶん、同和教育畑の人間は、あの「力のある学校」についての文章を読むと、これまた別の観点で「プッ」となってしまうところがあるんですね。もう少し言うなら、「みかんの汁で書かれているところ」がある。ほんとうはそれをオープンにしないといけない。
それは「「力のある学校」をつくるためには、そうとうなリソースの投入が必要である」ということです。もう少しはっきり言うなら、学校間格差を埋めようとするなら、人とモノと金をつぎ込むことが必要で、それを担保したうえでの学校経営であるということです。で、それ抜きには、単なる精神論と労働強化の問題にとどまってしまう。

おそらくは、「力のある学校」の論議をしている人たちの頭の中にはそれはあるはずです。でも、出してない。それはなぜか。
まぁ、たぶん「大人の事情」なんですかね(笑)。