今日は一日出張だのなんだの。
で、午後の出張にて…。
某研究会の議案書を事務局長が読み上げているのを何気なしに聞いていると「ヘイトスピーチ」という言葉が耳に飛び込んできました。瞬間「お!とりあげるのか!」と思って文面を読むと…。なーんかイマイチです。なんだろう。踏み込み方が浅い?ふだん、ツイッターで読んでいるカウンター仲間の肉声とはまったく違う、血肉となっていない感じ?
まぁそれはしかたないのですが、どうせ取り上げるなら、もう少し自分の身のまわりに寄せなくちゃ。
で、小学校のレポートを聞いて、もやもや。
「いじめ」に関する授業実践ですが、一時間の討論を通して「いじめはよくないと思った」とみんなが考えたそうな。いや、それはそうでしょう。みんな「いじめはよくない」と思っていますよ。問題は「いじめが起こったらどうするか」いや、「いじめが起こらないためにはどうするか」という問いかけへの具体的な行動をどう見つけるかでしょう。
ま、そんなことを考えて、
「「いじめはよくないと思った」はいいんですが、その次の一歩を踏み出すためにどうしたらいいかということについて、きっとお考えがあると思うのですが、そのあたり、どうお考えか教えていただければ」
と質問。ところが、答えは
「考えていません。あれは4年の時の実践で、6年になった今も男女なかよくやっているので、それでいいと思っています」
とのこと。一気に頭に血がのぼったのですが、ガマンガマン^^;;。
で、意見発表の時間が来たので、つい挙手。
いじめにとりくんだ小学校のレポートを読んだ時、「いじめはいけない」と答えた小学生を、中学や高校でどう育てていくのかということを考えました。
話は少しずれますが、数ヶ月前に神戸の朝鮮高級学校を襲撃する事件が起きました。どうやら暴徒は心神喪失だったらしいのですが、先生に対して「朝鮮人だな」と確認して暴行をふるったとのことでした。
あの事件を聞いた時、「朝鮮人に暴力を振るってもかまわない」という空気がわたしたちの社会にあるから、あの事件が起きたんだと思いました。では、わたしになにができるのか。
あの日を境に、わたしは「京都に差別はいらない」という缶バッチをリュックにつけるようになりました。「差別を許さない」という市民がいるとうこと。そういう市民の声が、この社会にあふれていれば、あの事件は起こらなかったかもしれないと思ったのです。
研究課題の中にヘイトスピーチがとりあげられていましたが、「異なる文化を持つ人等への」とあります。しかし、レイシストたちは、水平社博物館を襲い、朝鮮初級学校を襲い、デイケアセンターを襲っています。つまり、部落や子どもたちや老人、あるいはヘイトスピーチの現場では女性にヘイトが向けられています。つまり、マイノリティへの「いじめ」であると思うのです。
そして、まさに昨日の夜、高校生がツイッターでヘイトをつぶやき、多くの人が抗議するという出来事がありました。その高校生はLINEで連絡をとりあっていたといいます。もうひとつのレポート、コミュニケーションにかかわる課題でもあります。
ヘイトスピーチは遠くにある問題ではなく、わたしたちがかかわっている子どもたちの問題です。「いじめはいけない」と答えた子どもたちが、その後どう育っていくかという問題であると思います。
そのために、あの小学校のとりくみを、わたしたち中学校や高校の教員がどう引き継いでいくのかという問題なんだと思い、ひとこと発言をさせていただきました。
ありがとうございました。
まぁ、ヘイトスピーチを「いじめ」なんていうふうに表現するのは、かなりアカンやろと思うのですが、レポートにからめるための無茶です。
それにしても、たったこれだけのことを発言するために、どれほどの緊張があったことか。
なにしろ、質問も意見も誰も言わない中で、ひとり「かみついている」みたいな構図のわけです。まさに「KY」です。
でもいいんです。「AKY」であり「MKY」です。
ここで「空気」に抗うことも、ひとつのカウンターなんだと思うのです。
発言したあと、手の震えがとまりませんでした。そんな手の震えをとめてくれたのは、facebookの向こうにいる「カウンターなかま」でした。
カウンターに参加しはじめて1年ちょい。「許さない」と具体的に声をあげる人はまだまだ少数です。でも、地球上のどこかで発せられたヘイトの声が、実は身近なところにあることを感じ「許さない」と声をあげる、そんな「なかま」のつながりと力を感じました。