今日は人権教育研究会の夏季研です。
午前はレポート。今回は新たにつくった「労働」についての教材の発表です。
正直、たいしたことのない内容ですが、おそらく京都の高校では誰もとりくんでいないんじゃないかな。なので、「問題提起」程度の位置づけです。
25分、事前の準備もなくダラダラと話して終了。それにしても、口のうまさは命とりです。それなりの内容に聞かせてしまう自分、質疑応答にも器用に答えてしまう自分が、たまにイヤなります^^;;。
午後からは西成高校の肥下ちゃんの講演です。
冒頭いきなりわたしの写真が出てきて爆笑です。
実は今回、普段話をしておられるであろう「反貧困学習」あるいは「反貧困の学校づくり」とは少し違う切り口で話してもらうよう頼みました。
たぶん「反貧困学習」についての話を京都でやったら、「あー、そんなことやってはるんやー」ってなってしまう。それは同時に「うちでは無理やなぁ」と同義なんですよね。
でもそれは当たり前で、生徒の状況も学校のシステムも、学校を取り巻く環境もまったく違います。だから、同じことができるはずがないんです。
で、今回、肥下ちゃんに話してもらいたかったのは
「なぜそんなことをしようと思ったの?」
ってことです。つまり、根っこ=√です。
これならば、個人的な「根っこ」の違いは当たり前。でも、肥下ちゃんの話しの中にある「根っこ」を聞きながら、自分の「根っこ」を考えることもできるし、そこから自分が何ができるかを考えることで、自分なりのとりくみを考えることができる。
必要なのはマニュアルではなく、作法である。
そんなことを考えたのです。
肥下ちゃん、見事にそんなわたしの思いに応えてくれました。バングラデシュで出会った識字の話からスタートして、教員になる前の話、教員になってからの話、「反貧困学習」「反貧困の学校づくり」に至るまでの一貫した思いを話してくれました。
「あの時の思い」を心の中に沈めて、淡々と考えとりくみ続けること。そこから新たなとりくみが出てくる。そしてそれは誰のためのとりくみなのか。なにを目指すとりくみなのか。それを考えた時「あの時の思い」が常にあるんでしょうね。