怒涛の4連発・2発目は京都名物?

昼過ぎ、伊丹の消しゴムハンコ職人のIっぽくんからメール。
「いま、京都です」
久しぶりやなぁ。会いたいなぁ。
「髪の毛カットしたら時間ができるし会いましょか」
御池で合流して新風館へ…。
「いつきさん、いつもこんなところで呑んではるんですか?」
「え…。いや、ふだんは…」
あ!そや!
「おたふく行こか(笑)」
おたふくはいつもの感じです。Kっくんもいるし、K林さんも来るし。お客さんから
「いつきちゃんな、これ、食べ」
みたいなこと言われて、至福の瞬間。
Iっぽくん、なんか、こういう空気に浸りたかったみたいです。
新風館に入ったときはどうしようかと思いましたよ」
いや、ちょっとした気の迷いでして^^;;。
てことで、6時に終了。

いい店、知ってるなぁ…

で、千里中央に移動して懇親会。
はじめは固めでしたが、呑むほどに酔うほどに心が柔らかくなってくるのは当たり前です。
そのうちお国自慢がはじまったりして。つっても、鶴橋と天王寺と西成の自慢合戦ですけどね(笑)。
でも…。うーん。いいなぁ…(^^)。
で、2次会へ。なんでも肉屋さんがやってる立ち呑み屋さんだとか。安い!うまい!
で、いろいろお国自慢をされるので、つい
「日本一うまいスジ肉が」
と対抗意識を燃やすわたしは、やはり京都自慢なのか?
てなことやってると、気がつくと11時。
うーん^^;;。

[お座敷[高座]これも芸風

今日は夕方からO阪大学の未来共生イノベーターとかいうコースのお座敷です。で、
「「新ネタ」で…」
というご希望だったので、パソコンかついで行きました。

ちなみに、今日の午前は「採点祭り」って決めてたので、ひたすら採点です。出発10分前に採点終了。10分…。よし!転記→パソコン入力までやっちまえ!
てことで、無事憂いを残すことなく金曜日が終わったってことで…o(^^)o。

で、待ち合わせ場所に着くとFぁよんがお出迎え。ダラダラとしゃべりながら教室へ。
まずは軽く自己紹介&「数学の思い出」をしゃべってもらって、お座敷スタートです。
新ネタも回数を重ねてきたので、少しずつこなれてきました。ただ、同時にスライドが多くなって長くなる傾向にあるんですよね。最近は一時間半くらいかかるようになってきて、これ、ほっとくともっと長くなります。ヤバイです。
さてさて、今日はどうなることやらと思っていたのですが、幸いにしてほぼ時間通り終了。
途中ウケもとれたし、よかったよかった^^;;。

あ、あとで
「あの早口は芸風なんで、あれはあれべありですね*1
「なんか、現代落語みたいな感じですね*2
という過分なお褒めの言葉がもらえ、かなりうれしかったですo(^^)o。

*1:はじまる前に「無理に早口で時間内におさめる必要はない」って言ってた「対話」を重視するH間さん

*2:なんでも芝居やってるらしい学生さん

で、夕方からおべんきょ。
今日の内容は「認知行動療法」。最後はパニック障害の治療法までやっちゃうっていう、とても実践的な内容でした。

そもそも、ある出来事があって、それに対して感情がわきおこるわけなんですが、そこはストレートにつながっているわけではないというところが今日のスタートです。
なぜなら、ある悪い出来事があったとしても、「落ちやすい人」と「落ちにくい人」がいるからです。そこで、出来事と感情の間に「信念(belief)」があるとしたのが「エリスさん*1」みたいです。
とても簡単に言うと、エリスさんは、「落ち方向」に行く原因を「信念」が不合理な方に行くところに求めて、その「不合理な信念」に対して「論駁」することで「合理的な信念」に気づかせようとしたとか。なかなかハードです(笑)。

で、もうひとり、「ベックさん」は、その「信念」の部分を「自動思考(自然にわきおこってくる心の中の声)」と、そういう「自動思考」の背後にある「スキーマ(考えの傾向)」にわけて考えて、両方あわせて「認知」ってしました。
で、認知療法はベックさんの考えの延長にあって、「認知」全体を変える方法を考えた。ま、最近は「スキーマ」はきついので「自動思考」を変える方向でやるみたいですけど。
で、その方法として紹介されたのが「カラム法」。
「出来事」「それに対する感情」「結果としての考え」「その考えとは別の考え」「別の考えによって感情はどうなったか」というのを表にして、具体的に「別の考え」があることを実感し、身につける方法みたいです。

で、こうした認知療法と、パブロフなんかがやった「古典的行動分析」がくっついて、「認知行動療法」が出てきた。
認知行動療法の基礎的なモデルは、ある「環境」にとりまかれた時、「認知」「行動」「感情」「身体」がたがいに関連して動くってことみたいです。
で、その一例として「パニック障害」がとりあげられました。

今日紹介された治療の場合、中心となるのは「段階的エクスポージャー」と「カラム法」です。つまり「不安を取り除き」「より合理的で現実的な考え方を身につける」ってことですか。
ただ、エクスポージャーって、簡単に言うなら「慣れ」です。パニック障害起こしてる人間を、パニック起こしそうなところに連れて行って慣れさすんですから、まぁたいへんっちゃあたいへんです。なので、その前段階として、ラポールだの、治療方針の説明だの、「怖さの一覧表」をつくるだの、いろんなことをします。

しかし、完全に心理屋さんの世界になってきましたよ^^;;。でも、知っておくのは悪くないですよね(^^)

*1:どこかで聞いたなとずっと思ってたんですけど、「舞姫」か(笑)。

綱渡り

たいてい朝の電車の中で、今日の一日をイメージします。
「あれやって、これやって、あーしてこーして、最後はビール」
みたいな…。
ま、前半は仕事のことです。で、
「ふむ、なんとかなるか」
と思って職場に行くんですけど、たいていイレギュラーなことか入ってきます。で、それも小さなことならいいんですが、「時間をとられる」ことだと、かなりきつい。
で、今日はそんな日でしたよ(T_T)。
ま、5時にはそれでもなんとかなってましたけどね(笑)。
あ、最初の読みが余裕があったのか(T_T)。

追い込み

どこでどう間違えたのかわかりませんが、いろんなことが完全にヤバイ状況です。一歩間違うと火を噴きます。
ここは冷静に…。
とにかく、この一週間を乗り越えたら、ひと山越えます。その山を越すためには…。
一日単位で考えるのやめましょう。一週間単位で、どのタイミングでどれをして、うーんうーん。
いかんいかん。
考え過ぎると混乱してすべてをしなくなるから、ここはシンプルに…。

にしても、こんなことやってて、イレギュラーに仕事が入ってきたら、たぶんひとたまりもないないな(T_T)。
え?あした研修会?ヤバっ(T_T)!

「さらり」

某所に書いているゲンコですが…。
とても難しいです。
公開されているものは、あくまでも「結果」でしかありません。その結果へと至る過程で、「ボツ」もあるわけです。
で、なぜボツなのか…。
たぶん「ざらつき感」がないんですよね。こなれた文章でさらりと書き流す。意味はわかるし雰囲気もわかるんだけど、何かが足りない。だまされた気がする。あと一歩知りたいのにそこをはぐらかされた気がする。
たぶんそんなことなんでしょうね。
でも、なかなかその「ざらつき感」を出すのは難しい。なぜなら「さらり」がわたしの芸風というか、そうやって生きてきたからなんですよね。
それは「伝える過程」で、もともとのものと変質せざるを得ないということなのか、「ドロリ」が嫌いなのか、はたまた、単純に「一番目の子どもにありがち(笑)」なことなのか…。
ま、今後も続く課題です。

てな書き方が「さらり」なんですよね(T_T)。

連続と不連続

今日のテーマは、すごく簡単に言うなら、「江戸時代の眼差しで近代を見る」っていうことでした。
従来の教育学という教育史というか、そういうのって、「起源は明治」「欧米型の教育が入ってきた時を起点として考える」みたいなとらえ方でした。それに対して、今やっているメディア論は江戸時代の教育の再評価というか、近代の教育のありようは江戸時代からの連続性の中にあるという観点が通奏低音として流れています。
で、その時に大切な観点は「今」から江戸時代を見るのではなく、江戸時代の眼差しで江戸時代を見、さらには江戸時代の「次の時代」を見ることであるとしています。
なぜなら、「今、ここ」にいる人間にとっては、「未来」は「今」の眼差しでしか見ることができない。それに対して、近代の教育の起源を「明治」ととらえる観点は、「未来」から「今」を見る見方である。で、そうではなくて、江戸時代からの明治時代への移行をとらえようとするならば、明治時代(未来)を江戸時代(今)の眼差しでとらえないとわからないということなんですね。
で、そうやってとらえると、江戸時代からの連続性の中に近代の教育はあるし、近代の教育のありようを考えるためには江戸時代にさかのぼらないといけないということになります。
ただ、この本、常に「現代はメディア革命の時期で、教育のありようが根底から揺さぶられている時代なんだ」っていうのが出てくるんですけど、それはどうかなと。
まぁ、今日の論議はそのあたりを中心に進みました。というか、進めました(笑)。

なんというか。
常に「今」って激動期であり転換期な気がします。それは、10年前の「今」がかつてそうであり、10年後の「今」もきっとそうであろうという意味で、です。そして、激動期・転換期は、常に「ここが不連続点なんだ」という主張とつながります。
でも、わたしは「歴史は連続と不連続を併せ持ちながら進行していく」んじゃないかなと思うのです。そして、その連続と不連続の間には「きしみ」がある。そのきしみをもって「転換点」との主張がされる。でも、それはいつだってある。

こういう話に対して、「「不連続」という主張がなされる時、きっとそこには「そこを不連続」ととらえる「意図」がある。実は注目すべきことはそこなんじゃないか」という指摘がセンセからありました。
これ、すごく納得します。
「誰が、どのタイミングで、なにを不連続というか」ということへの問いかけこそが大切である。でも、ついついそれを忘れてしまう。

そうそう。
わたしがこういうものの考え方というかとらえ方というか、そういうことができるようになったのは、まぎれもなく「部落史の見直し」に触れたからなんですね。
例えば、敗戦前後の連続(行政や経済構造・政治構造)と不連続(一部の法律)。あるいは明治維新期の連続(民衆の意識)と不連続(支配体制や社会構造・経済構造)。その中で部落はどのような眼差しで見られてきたのか、あるいは地区改善への意欲はどうであったか。そんなことを考えるきっかけをもらいました。
まさに、歴史に触れることによって歴史のとらえ方が変わり、そのことがものの見方の変化へとつながったわけです。

もう一つの論点は「稽古と反復練習の違い」でした。
おそらく「反復練習」は練習課題の習得のためにやるのですが、意図は明確であり、練習する側も「意識化された課題をより早く正確に」するためにやる。
ところが「稽古」は、練習課題が明確なのかどうなのか。もちろん「内容」は明確なのですが、なぜやるのかというと「身につける」ため。じゃ、「身につける」って?おそらくそれは「身につける」としか言いようがない。あるいは「行為を身体化する」。「稽古」って、「なぜこれをするのか」を超えたところにある。
で、そういう方法って、あるんだけど、学校の中ではカリキュラム上にはあらわれない。つまり「表のカリキュラム」の不連続と「隠れたカリュラム」の連続があり、そういう意味では、近代以降の教育のありようは、その「きしみ」の中にあった/あると考えることができる。

で、その「きしみ」の中からもうひとつのテーマ、「学力観の転換」が出てきます。
不連続点には「価値観の転換」みたいなのがあって、教育をめぐる価値観の転換は、「学力観の転換」につながるように思います。
ただ、これ、「連続・不連続」の話と通じるわけですが、「誰がいつどのタイミングでなにを不連続というか」と密接にかかわっています。
そういう意味では、「今」、「学力観の転換」が叫ばれているのですが、果たして今は「不連続」なのか「連続」なのか。「不連続」であるならその中身はなんなのか。そして「不連続と連続が同居」しているなら、なにが連続しておりなにが不連続なのかを今一度見つめ直さないと、「誰か」の意図に乗せられてしまうことになってしまう。
そんなことでしたかねぇ。

おべんきょの前は疲れてたんですけど、おべんきょが終わったら、妙に元気になってましたとさ(笑)。