あきらめではなく

来週から中間試験です。一週間くらい前になると、ボチボチ試験範囲も終わりはじめて、復習の時間へと移行していきます。
先週試験範囲を終えて、今日から復習に入るクラスがひとつ。あした終わるクラスがひとつ。たぶん明後日終わるクラスがひとつ。
問題は、この「復習」の時間をどう使うかなんですよね。
ここで遊んでしまうヤツがいるんですが、たいていそういうヤツは試験はボロボロです。まぁ、何度も繰り返してるので、マヒしてるんでしょうね。で、「どうせできない」ってあきらめる。
そうそう。この間、こんなことを生徒に言いました。

君たちと大学生。あるいは大学生と大学院生の違いはなんだと思う?
勉強ができるかどうかじゃないよ。大学院生よりはるかに勉強ができる大学生はいるよ。大学生よりはるかに勉強ができる高校生はいるよ。違いはそこじゃない。違うのはね。
「わからない」と思った時にどうするかなんだ。
勉強ができない高校生や大学生は「わからない」と思った時にあきらめるんだ。でも、勉強ができないけど大学院まで行く人は、「わからない」と思った時「考える」んだ。そのほんの少しの違いなんだよ。

わかるかなぁ…^^;;。

メッチャうれしい!

で、いつものようにおたふくに行くと
「ちゃんとおいてあるで」
とのお言葉。出されたのはこれです。

これ、「四若神輿会のお守り」と手ぬぐいです。
「四若神輿会」は、祇園祭の神輿のひとつ「四若」の神輿を担ぐ人たちの会です。で、そのお守りは、前の神輿をつぶした材木を切り出してつくったものです。なので、このお守りは「四若神輿会」の人たちだけのお守りです。それがもらえたって、そりゃもう。ホントのホントにうれしいです。なんか、足の先だけであっても仲間に入れてもらえたみたいな。
そう言えば、前にKっくんが
「神輿、かつぐけ」
って言ってました。すぐに
「ウソや」
って笑ってましたけどね。
ま、いろんな意味で担ぐのはアレだし、そもそも足手まといにしかならないからウソなのはわかってたけど、それでもあのひとこともうれしかったなぁ…。
てなわけで、当然、メッチャビールがおいしいわけです。焼酎もおいしいわけです。飲みすぎるわけです(笑)。
さて、でも今日は明るいうちに帰りましょう。

玖伊屋の朝

昨日の夜はちょっと荒れてしまって、かなり反省。でも、みんなびっくりしたでしょうねぇ。ほんと、もうしわけないです。でもまぁ、A新聞の記者さん、「楽しかった」って、玖伊屋から出勤されたし、まぁ、総体としてはよかったんでしょう。
さて、玖伊屋の朝は片づけです。
この間、冷蔵庫の中を整理したし、できるだけ冷蔵庫の中にはものを残さないようにしたいなと。てことは、当然「あまった食材は食べる」わけで、いろいろ食べきりました。まぁ、これも片づけの一種です(笑)。
てことで、いつものように昼ごろに閉店。

で、あけて玖伊屋

今日の玖伊屋は気合いが入ります。なにせ、「琉球紅型No RacismTシャツ」のワークショップが同時開催です。
いや、もちろん玖伊屋の主催じゃないわけですが、常連さんのK田さんが講師なんで、そりゃいいだろうと。
で、メニューはどうしようかと…。
そういえば最近してなかったなと思い、粉モンで攻めようかと。で、こないだもんじゃを食べておいしかったから、もんじゃでいこうかと、安易な発想で決めちゃいました。

7時、準備の開始時間です。ワークショップの準備は万端です。

すごいな…。
で、玖伊屋の方は…。誰も来ない。仕方ないので買い出しに行きました。
買い出しから帰ったら、ワークショップはすでにはじまっています。パラパラとお客さんもやってきて、わたしはひたすらキャベツ切り。
そうそう。今日はA新聞の記者さんも来られていて、いろいろ話をしながらのもんじゃ屋さんの店長です。台所と会場を行ったり来たりにつきあわせてしまいました。ま、しゃーないですか。

にしても、今日はお客さんが少ない。スタッフも少ない。
でもまぁいいか。まぁいろいろあったけど、こういうこぢんまりとした時もいいかな(^^)。

孤独の万有引力

クィアな会」という謎のグループがあります。ここ、不定期に「孤独の万有引力」という集まりをしていて、そこで「話をしろ」ということになりました。
それにしても「孤独の万有引力」!なんというかっこいいネーミング!同僚や生徒にこの名前を言うと、みんな「おぉ!」ってなってました。
で、ここ、またテーマが難しいんです。
「闘う理由のない日本において、どうやって違和感を表明し、どう表現し、どう仲間とつきあっていくのか」
んな難しいことをどう話せと(;_;)。
いろいろ考えて、結局自分史を語る以外ないなと。それも「オフィシャル」の、もうほんの少し内側にあるものを語る以外ないなと思いました。
自分史って、おそらくそれを言葉や文字にした瞬間に「オフィシャル」になってしまいます。逆に「オフィシャル」にすることによって言葉化や文字化ができるのかもしれません。
で、今回のチャレンジは、いままでさまざまな形で「オフィシャル」にしてきた、それは印刷物になったりお座敷で話してきたというだけではなく、例えばメールでやりとりした内容であったり、どこかのメモであったり、呑み会での会話であったり、あるいはブログで書いたりしてきたことも含むと思うのですが、そういうさまざまなものを拾い集めることで「オフィシャル」のほんの少し内側を出すことができるんじゃないかと思ったのです。
さてさて。はたしてそれが成功したのかどうかはわかりません。
でも、話しながら自分の中にある言葉をまさぐり、そしてパズルにピースをはめこむように内容を組み立てていくという作業は、しんどくもあり、でもとてもスリリングでもあります。返ってくる質問もわたしの内側に深く入り込んできます。まだ言葉化しきれていない言葉は、その質問に耐えきれないこともあります。でも、その姿をさらすこともまた表現といえるのかもしれません。そしてそれが許される空間は、とても優しい。
なんだかとても刺激的なひとときを過ごすことができたんじゃないかなと、みなさんの顔を見ながら、なんとなく思いました。

そうそう。「孤独の万有引力」の意味は、孤独は孤独を寄せ集める。そして、より孤独を深めてしまう。そういう万有引力を持っている。その負のスパイラルからどう脱出できるのかって話だったんです。
あとから聞いて、それもまた「なるほど!」と…。

ある異変

朝、地下鉄に乗って、あちこち見に行って…。ん?見に行ける?あり?
そうか!京都〜四条だけネットつながってたけど、そっから北もつながるようになったんだ!メッチャラッキーo(^^)o!

悪魔が来たりて

今朝はとても睡眠が浅いです。ゆっくり寝られなかった。なぜだろう…。
あー、夢とうつつの間でいらんことをしてたんだ。

いや、なんか、夢の中ですごい文献が見つかったって興奮してたんです。中身は「教育力が低いとされる家庭における子どもの友だちが来た時のもてなし方についての1970年代と2010年代の比較検討」という、メチャクチャなんだかな話なんですけどね。まぁ、結論的には1970年代の文献が見つかって、現在と比較したら大差なかったということで興奮してたようです。いや、そんな文献、あるかないかしりませんけどね。で、もしもあったとしても、こんな話、たぶん三重県調査とかからNべ島さんあたりが書いてそうな内容です(笑)。

にしても、
「文献ハケーン!論文書ける!」
とか夢の中で興奮してるって、そりゃ熟睡できるわけないです(;_;)。
ぜったいこれ、脳みその錆がちょいと落ちて、「考え過ぎの悪魔」がやってきたんだわ。

錆落とし

今日からおべんきょの後半戦のスタートです。とは言え、今日はおべんきょ仲間の発表を聞くだけだったんですけどね。
問題は、メッチャ眠いということです。ごく少人数なので、寝るとバレるわけですが、寝られる自信がある程度には眠いです。
さてさて、どうなるか…。
おべんきょがはじまると、いきなり眠気が飛びました。おべんきょ効果はたいしたものです。で、発表聞きながらいろいろ考えて、質問したり意見を言ったり。
と、おべんきょ時間終了直前、突然猛烈な眠気が襲ってきましました。

おべんきょから離れていたこの2ヶ月間、脳みそは完全に錆びついていました。どうやら今日のおべんきょは、その錆落としだったみたいです。でも、脳みそが動き出して、いきなり元気になって、動きはじめて、すぐにガス欠になったのかな^^;;。
ま、いいです。楽しかったo(^^)o

器用さと不器用さ

はたしてわたしという人間は器用なんだろうか不器用なんだろうか。
たぶん「そら器用やろ」と言われてしまいそうなんですが、たぶん一概にはそうは言えないかも…。
たしかに器用なんですが、そして器用だからなんとかやってられるんですが、その「なんとか」ってなってしまうのは不器用だからなんじゃないかと。
例えば、AとBがあって、選択を迫られる。器用な人はどちらかを選択できる。もしかしたらその選択の根拠もきちんも説明できるかもしれない。あるいは、説明できないまでも、「選択した事実」そのものが態度表明でもあるし、それをまって説明とすることも可能です。
でも、選択はわたしにとってとても苦手なことなんです。選択しない方法はふたつあって、ふたつともとるか、ふたつとも捨てるか。でも、後者はたいていの場合「ふたつとも捨てる」ことの説明を必要とする。わたしはこれをする器用さがない。なので、「ふたつともとる」という選択肢しか残されていない。で、「なぜふたつともとるのか」という説明を求められたら、説明する器用さを持ちあわせていないので、沈黙と笑顔でごまかす(笑)。でもそれでは納得してもらえない。なので、「ふたつともとっても大丈夫」ということを現実にやりきるという「行為」で説明しようとする。
問題は、この「行為」をする器用さを持ちあわせていることです。なので、とりあえず納得してくれるんだけど、根本的な解決にはなっていない。単に解決を先送りにしているだけなんですよね。で、いずれ破綻する。
これ、たぶん不器用なんだと思うんですけどねぇ…。

教え子からのメール

わたし、基本的に冷たい人間というか、記憶力がないというか、そういう人なので、卒業生の記憶がほとんどない人間です。まぁ、卒業生と出会ったら、またそこで新たに関係をつくりなおせばいいかと思っているフシもあります。なので、卒業生からわたしに連絡をとってくることはほとんどありません。
そんなわたしのもとに、一通のメールがきました。
わたしにとっては、なぜかとても記憶に残る生徒でした。で、その卒業生もわたしのことが記憶に残っているそうな。
そのメールの中に、わたしがかつてその卒業生に伝えた言葉が書いてありました。
「美術と数学は遠いようで、実は1番近いところにあるんだよ」
あぁ、少し気恥ずかしいですね。数学の何たるかを未だに知らないわたしが、18年も前によくぞ言ったものだとは思います。
でも、数学が苦手で美術が得意だったその卒業生に、数学の魅力・数学の美しさを伝えたかったんです。そして、いまでもやっぱり
「美術と数学は遠いようで、実は1番近いところにあるんだよ」
って思ってます。