去年の今頃、なにを考え、なにをしてたかなぁと、ふと考えました。
一日一日がとても長くて、次の日が来ないと思うほどしんどかったなぁ。でも、気がつくと、もう一年前なんだ…。
で、今も鮮明に覚えているし、まだ傷もあります。でも、その傷があるからこそ今の自分があるし、そんなこんなのすべてを大切だと思えます。てか、傷ばかりじゃなくて、もっと大切なもの/ことをもらったもんね。
季節は流れ、ゆき、またここに来る。
季節よめぐれ。
月: 2013年6月
とりあえず走り切ったか?
「向こうにあった山」はみっつ。
で、朝、そのうちのひとつの進捗具合を聞かれて、
「今からやる」
と言ったら
「今日がタイムリミット」
って言われて、あえなく玉砕(T_T)。あきらめました。人間、あきらめが大事です(笑)。
で、残りのふたつを片づけて、もう、抜け殻になりました。
もう「向こうに山」はないよね、ないよね。
あ、ありました(T_T)。
でも、今日は考えない(笑)。
山の向こうに山はある
子どもたちは数学の問題を目の前に提示された時、どうそれを見て、どう考えるのだろう…。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時
「うわ、なにこれ」
とひるんで、そこで終わるのだろうか…。
そう考えた時、わたし(たち)との間にある圧倒的な「違い」に気づきます。というより、その「違い」を明確化し、言葉に翻訳しなおして伝えることが、教員の仕事かなと、最近ますます考えるようになりました。
例えば、3次式の因数分解の問題を見た時、わたし(たち)なら、まず先頭を見て3次式であることを確認して
「ふむ」
と思う。そして、定数項を見て約数を考えて代入する。その時、先頭にあるax^3なんてものはなんの関心も引きません。
つまり「ややこしそうに見えること」には関心を持たず、簡単なことを繰り返すことでややこしいことをこなしていく。
これ、もしかしたら山を登ることに似ているのかもしれません。
はるかな遠方にあるいただきを見た瞬間、
「無理や…」
と立ちすくむのが山をしていない人だとしたら、そこに至るルートを目でおい、とっかかり口を見て、そこに集中する。そして、一歩一歩歩いていくのが山をやってる人かな。わたしは山をやらないからわからないけど…^^;;。
つまり、難しいことを難しいと考えるのではなく、簡単なことの集積であると考える。
なんてことを思いながら仕事をしていたのですが
「終わったぁo(^^)o」
と思った向うに、まだまだ仕事があるのを思い出してげんなりした一日でした。
山頂だと思ったら、まだ向こうに山があったって感じ(T_T)。
テキストを身体化する
今日のおべんきょのテーマは「素読」ってやつでした。
とにかく声に出して覚える。完璧に覚える。意味なんてどうでもいいから覚える。そういう学習方法だそうです。
で、なぜそんなことをするのか。
おそらくは江戸期の儒学者にとって、漢文は外国語であると同時に「思考のための言語」「論議のための言語」であった。そういう言語を後天的に習得するためには、とにかく声に出して、リズムとともに覚え、身体化させる。そうしないと「言語」とはならない。なので、近世の儒学者はそういう方法で身につけていったようです。
で、現在も「素読」はあるんですけど、随分と意味が変質しているんじゃないかっていうあたりが、今日の論議の内容でした。
でも、今の素読も、おそらくは同じような意味はあると思うんですよね。というのは、意味はわからずとも、「そのリズム」で、とにかく読むことによって「その世界」が伝わってくる。例えば「平家物語」と「枕草子」。文字を追い声に出すことで「その時代・文化的背景」さらには「その世界」が目の前に広がる。
ただ問題は「よいリズム」で素読ができない。伝える側も「よいリズム」を知らない。そこに問題がある気がしました。
で、さらに論議は「いま、教員として何を伝えようとしているのか」ってところに行きました。
で、わたしの答は「世界の見方」でした。
おそらくわたしにとっての数学は、「わたし自身」なんでしょうね。そういう「数学が身体化された人間」が見ている世界の見え方を伝えるのがわたしの仕事かなぁと思っているんです。
もしかしたら、子どもたちにとって「いつきちゃん、なんでそんなふうに思うの?」ってなることはよくあるんじゃないかと思うのです。もちろん、トランスであることや、さまざまな人との出会い、あるいは育ち方など、要因は複雑に絡みあっているでしょうけど、少なくとも数学教員としては、「数学」という側面からそのわたしの世界観を伝えることで、「世界の見方の一方法」を伝えているのかなと、ふと思いました。
こんなところもあるんだなぁ
今日は京都府中部にある農業系のガッコに出張でした。会議の前に校内を案内してもらったんですが…。
いいですね。
空気に自然の匂いがあります。
なんだろ…。
ここには、もしかしたら「自然とつながった学び」があるのかな。いや「学び」って、本来はもっともっと自然とつながり、自然のリズムやテンポの中で行うものなんじゃないかな。そんな気がしました。
もしも、高校教育に専念できる状況であれば、ここ、いいかもって思いました。でも、無理だよな^^;;。
憎悪は強盗
「一般名詞」に向けられた憎悪に、その一般名詞に含まれる人はどう対処するのか。例えばそれがわたしなら…。
方法はいくつかあるように思います。
まずは「一般名詞だから」と流す。つまり、「一般名詞への憎悪は、実は空虚であり、現実には誰にも向けられていない」と考える。
あるいは、「一般名詞に含まれる自分以外の人を思い浮かべ、それぞれの差異を考えて、あの一般名詞はあの集団を指している」と考える。
それから、「一般名詞は一般を指すのではなく、自分を指している」と考える。
最初のやり方は、でももしかしたら、「一般名詞」に回収させることで、主体としての自分を失うのかもしれないなと、ふと思います。
二番目のやり方は、「自分は違う」と考えるわけで、それって結局「なかま」を失うこと、そしてそれは「自分への名づけ」が歪んでしまうこと、つまり最初のと同じように主体としての自分を失うことにつながるのかなと、これまたふと思います。
じゃぁ、それをしない方法は…。それが三番目です。でも、きつい。あまりにもきつい。三番目は主体と引き換えになにを失うのか。それはユーモアであり、笑顔であり、柔らかさであり…。そんなこんなを持っているからこそ「自分のこと」と引き受けられるわけなんですが、それを奪われてしまう。いや、究極的には命を奪われてしまうこともある。
人から何かを奪うもののことを「強盗」というならば、憎悪=ヘイトは強盗である。
片づくのか?からスタートした一日
昨日は布団をすべてとられていて、しかたなしに、廊下に布団を敷いて寝ました。てか、いつものパターンなわけですが…。
で、6時頃に目が覚めて、二度寝。8時くらいから、とりあえず缶をプシュとして、焼きたてのパンをあてに呑みはじめます。これ、あとでダメになるのがわかっているのにやめられないんですよね^^;;。
で、しばらくゴロゴロして、とりあえず片づけ開始。ですが、なかなか進みません。まいったな…。そうか、今日はスタッフとか「スタッフみたいな人」が少ないんだ(T_T)。とたんにやる気を失います。でも、昨日の夜にかなりのところまで片づけてくれていたので、のつこつしながらも、さぼりさぼり片づけを進めて、とりあえず12時半頃に終了→閉店です。
で、おたふくへ。
なーんか、体調は悪いんですけど、お酒は入ります。でも、食べ物が入らない。最低ですね。
ま、会話ができるからいいか。
今日は「一対一でサポートする」と「グループの力を利用してサポートする」の違いなんかについて、いろいろ話。うーん。興味深かったですねぇ。
で、5時頃に終了かと思いきや
「王将だね!」
という声につられて、なぜか餃子を買い込んで鴨川の河原へ。こうなったらヤケです(笑)。Bんちゃんも呼び出して、延々と話。気がつくと9時過ぎまで呑んでましたよ。
家に帰ったら、歯磨き終えて、そのままバタンキューです。
さて、玖伊屋
「労働」の教材をつくっていたけど、なーんかI太郎が落ちまくるので、結局頓挫。ツールって正常に動いて当たり前で、それが実はいかにハードルが高い話なのかってことを妙に感じたりして…。
てのはおいといて…。
とにかく6時過ぎにタイムアップ。
で、東九条に向かいます。
到着したら、すでにスタッフとかスタッフみたいな人(笑)*1とかがいて、すでに動きはじめてます。が、わたしは動く気がまったくおきません。
でも、ボーっとしててもしかたがないので、K田さん謹製の塩麹でつくる浅漬けをつくって、焼肉用に肉を切って。今回の焼肉は東九条マダンで余ったタレで焼きますから、まずいはずはありません。
てなことで、今日はもっぱらサムギョプサルを焼いたり鶏肉を焼いたりと、焼き役です。まぁ、楽なんですよ^^;;。
で、久しぶりの人もいたり、初参加の人もいたり、なかなかまぜこぜ感満載の玖伊屋の夜でしたo(^^)o
で、わたしは調子に乗って3時くらいまで起きていましたが、あしたがこわいな…。
*1:でも、かなり助かりますm(__)m