古今出版事情とメディア革命

夜はおべんきょです。自分が相対化されるとても大切な時間です。
今日の話はメディア革命が教育にもたらした変化についてです。
もちろん、「現在」が、まさにメディア革命の時期であることは言うまでもないのですが、実は近世、それも元禄前後もまたメディア革命の時期であったと。で、それは「写本」の時代から「木版」の時代という変化であったと。
ということで、メディア革命がどのような変化をもたらしたかということを、みんなで読んでいる文献では近世について書いてあるわけですが、あえて「現在」の視点で考えてみようという論議が、今日のおべんきょだった気がします。

で、いろんな人の考えを聞き、考え、発言したこと。

  • 聞くこと、話すこと、読むこと、書くこと。連続しているようで、その習熟って、実は不連続なのかな。
  • メディア革命の時代の教育機関の果たす本質的な役割は情報管理なのかも
  • 現在のメディアって、ソースとしてのメディアとツールとしてのメディアがグチャグチャになっているのかな。あ、Lisp(笑)!
  • 「伝える」って、もしかしたら伝えたい内容すべては伝わらなくて、結局は「何かを削る」ってことなのかな(サンプリング定理?)。
  • 扱えるデータ量が増えれば増えるほど削っていることにマヒしてくる。なんとなく、すべて伝わっている気になってしまう(カセットテープは音が悪いから情報を削っていることを実感するけど、mp3って、なまじ音がいいから削っていることに無自覚みたいな)。
  • 結局、「そこで人と人とが会って伝える」ことが、一番正確に近い形で伝えることになるのかな。

そんな「現在」の感覚を持って、メディア革命の起こった近世の状況を想像し、そこで益軒の果たした役割って何だったのかということが、たぶん次のテーマになりそうです。きっと、当時の最先端を走った人々に、驚きと尊敬の念を持ちながら過ごす日々になるかな。
と同時に、「現在」に優位があるとすれば、おべんきょに疲れた身体と頭を、ビールが癒してくれることかなとか思ったり^^;;。

クールダウンの先

7時半に寝たおかげで、朝はそんなに悪い体調ではありません。まぁ、少し睡いくらいですか。いつもの朝がやって来ました。

にしても、テンションの高さがほんの少し残りながらも、緩やかに日常に向かいつつあります。こんな時、いろいろ考えてしまいます。いや、ずっと考え、違和感を持ち続けてきたことを反芻してしまうというほうが正確でしょうか。

一昨日〜昨日もそうですが、一体何がどうなってるんだろうということです。

わたしは、京都の南部にある小さな町で働く、単なる一高校教員です。なのに、通常教員をしていたのでは決して出会うことがないであろう人たちと、なぜか会ってしまう。一緒に飲んで、いっぱい話をしてしまう。人によっては
「会えてよかった」
と、過分な声をかけてもらえる。
「あなたの近くの学校にいる教員と、わたしはさほど変わらない」
と、いつも思っています。なぜなら、それぞれの人は、それぞれのライフヒストリーの主人公として生きていて、もしかしたらそのライフヒストリーはとても退屈なものです。そして、そこにさほどの差はないと、わたしは考えているからです。例え波瀾万丈に見えるライフヒストリーであっても、平凡な日常はある。そのことを見逃してはならないと思っています。
でも、外から見るとき、つい、ある区切られた「波瀾万丈」に、気をとられてしまう。そして、そういう評価をまわりからされてしまう。一番こわいのは、その評価に自分がからめとられることです。そのことによって、自分のすべてを「波瀾万丈」と勘違いしてしまい、平凡な日常を軽視してしまう。
そして、そのクレバスはいつも足元にあります。

とても大きな「しでかし」をしてしまい、そしてそれがたくさんの友だちの支えでこなせた時、そのクレバスは静かに蒼くその口を開いています。

今日はそんなことを意識し、また、意識しなきゃならない日です。

でも、こんなことを書いてくださる方がおられる。ついうれしくて、そのリンクをここに貼ってしまう。
うーん、ダメですね。