課題の持つ排他性

ある課題を追っかけた時、とても排他的になるんじゃないかと、ふと思いました。その課題が大切であればあるほど、深刻であればあるほど、排他的になる。
例えば、「A」という課題について話をしている時に、「B」という課題に抵触した発言が出る。その時「その発言、B的にどうよ」てなことが言えるかどうか。「A」がさほど深刻ではない、あるいは、深刻であったとしても、「そのことだけ」ではない場であれば、きっと言えるだろうなと思うのです。ところが、「A」という課題に特化した場であればあるほど、「A」が「深刻であると認知」されていれらいるほど、それは言いにくくなる。「いや、いま、そーゆー話とちゃうし」と。
わたしはそういう場に対して、すごくアウェイ感を感じてしまう。これはしかたないです。わたしがいまだ乗り越えきれていないトラウマと言ってもいいかもしれません。
でも、そのトラウマを持ってよかった。なぜなら、自分はそうではありたくないと思えるからです。
かつて、とあるところでお座敷を頼まれ、開会のあいさつを聞いていたのですが、その中で「○○問題をはじめとし、日本にはさまざまな人権問題が…」なんていうフレーズが出てきました。そんな時、「へい(笑)。「はじめ」じゃない「二の次」の課題でございます(笑)」と言えることって、しあわせだなぁと思います。
「二の次」だからこそわかること、できることがある。わたしはわたしの課題を考える時、語る時、「排他的」にはなりたくない。「いつきさん、それどーよ」「あ、ほんまや。わたしって、まだまたまやなぁ」という、いつもの会話ができるダメ人間でいつづけたいなぁ。

中立なぁ…。

今日は「在日外国人教育セミナー」。テーマは「京都・滋賀の朝鮮学校の現在」。とてもタイムリーなので、いろんな人が来られるかなぁと。でも、考えてみたら、たぶん「いろんな人」も限られた人数の中で取捨選択しながらあちこちに行っておられるので、たぶん吹けば飛ぶような「わたしたち」の集まりには来られないでしょうね。
てことで、ゆるーい警戒感を持ちながらセミナー開始。
ちなみに、「集会をやる」ってことは、わたしにとってどういうことかというと…。

  1. 会場をどこにするか考える
  2. 必要に応じて根まわししたり、申し込みに行ったりする
  3. 名簿用紙をつくる
  4. 最初に行って会場をあける
  5. 必要に応じて案内用の張り紙をしたり、視聴覚機器のセットをする
  6. はじまったら電気のつけ消しとか視聴覚機器の操作をする
  7. 終ったらゴミのチェックをして片づけして部屋を閉めてカギの返却

なんですよね。これ、セミナーなのか交流会なのか玖伊屋なのかわかりませんよね。つまり、中味じゃないってことです。どんな集まりであっても、やることは同じです。でも、そういう感覚を持たない人が多いんですよね…。ま、いいや。

セミナーの中身は…。
支援者の方の話は、いろんな「情報」がつまっていて勉強になりました。あと、朝鮮高級学校の先生の話がおもしろかったですね。スライドを使いながらの話でしたが、生徒たちがとてもいい顔をしています。てことは、楽しいんでしょうね。それから、一生懸命なんでしょうね。とても大切なことだと思います。京都の公立高校であんな顔ができる学校がどれだけあるかなと思うと…。まぁ心許ないですね。

教育の中立性ってなんだろうと、あらためて思います。カリキュラムによって、あるいは思想信条によって補助金を出すか出さないか決めるって、極めて中立的でないなぁと、ふと感じました。つまり、「中立」をどのレベルで考えるかってことです。「中立」に対して一定の審査をするということは、「審査基準」があるわけで、その「審査基準がある」ということそのものが中立ではないということだよなぁということなんです。
いや、「なんでも通しはあかんやろ」という意見はあるとは思うのですが、そういう話ではない。「中立ではない」ということに意識的である必要があるということです。「バイアスをかけて排除してる」ということを意識することが必要であるということです。自分を「正しい」と思わないということです。
単にそれだけのこと。
そんなことを、あの子どもたちの顔を見ながら、ふと感じた。まぁ、それが感じられたという意味で、参加してよかったかな。