不思議なこと

夜、新聞を見ていたら「教育再生実行会議」なるものについての記事があったのですが…。
メンバーみたら「プロ」がいない。いや、わたしがここで言うプロは教育学の研究者のことなんですがね。
なぜ素人に論議をまかせるのか、なぜ研究の成果に学ぼうとしないのか、わたしにはよくわからない。まぁ、研究の成果に学ぼうとしないことが教育の再生につながるとお考えなんだろうけとわど、そうして「再生」された教育って…。なぁ…。

眠気が覚める

とにかく眠い。なのに、なぜか今日はイレギュラーな「おべんきょの日」。なんで明日の代わりに今日があるそうな。わけわからん(T_T)。
とにかく、この間、文字を読みつづけ、考え続けてきたので、かなり頭と目が疲れています。ガチで今日のおべんきょ時間は寝るかも^^;;。
と思ってはじまったのですが…。
寝ませんでした(笑)。
てか、おもしろい!
何がおもしろいかというと…。
今日のペーパーは「エスノメソドロジーを用いた授業分析」なんですが、読み進めながら、みんなで言っていたのが
「これ、エスノメソドロジー?」
なんですよね。
いや、トランスプリクトもあるし、なんか「ぽい」んだけど、語られていることは、かなり通りいっぺんの分析なんです。
「これならエスノ使わなくてもええやん」
がみんなの意見。
でも、ふと考えました。これ、4か月前のわたし(たち)であれば、たぶんこんなことは考えずに「エスノメソドロジー萌え〜」とか言ってたんでしょうね。というこのは、この4か月間で、少しは前へ進んだのかな。
そう思うと、なんとなくうれしいひとときでした。
おかげさまで、目がぱっちり(笑)。
いやぁ、楽しかった!

今年も今日が来た

「先の戦争」と言えば「応仁の乱」という話は有名ですが*1、わたしにとっては「先の地震」と言えば、やはり「阪神淡路大震災」です。
いや、
「何言ってるねん!東日本大震災やろ!」
という向きもおられるでしょうが、あくまでも「わたしにとって」でして。たぶん阪神淡路大震災をある程度の切実さを持って経験していない人にとって
「じゃ、その前の地震は?」
って聞かれたら、あれからもいろんな地震があったから、いろいろ出てくるだろうと思うのです。なんと言うか、みんなが一色に塗り固められなくてもいいかと。
てな話はいいとして…。
今年も語ることにしました。
というのは、この間聞いた講演中に、「災害を語れるのは災害を経験した人」というくだりがあったけらなんですよね。で、3種類の経験者がいる。ひとつは「被災者」。でも、被災しないに越したことはないし、被災といっても程度の差もあるし、なによりなんだかんだ言って少ない。で、もうひとつは「ボランティア経験者」。被災はしていないけど、現地に行くことによってわかることがたくさんある。でも、誰もが行けるわけではない。で、三つ目が「災害について語られたことを聞いた人」。「これであれば、誰でもできる」と言われたのですが、実は誰でもできるわけではない。誰かが語ってくれないと、三つ目の人にはなれない。とするならば、ひとつめふたつめの人は、三つ目の人のために語らなきゃならんだろうと思うわけです。
てことで、いつもの話をしたわけですが…。
「そうそう」と思ってつけ加えたこと。

なんかね、みんな「がんばろう日本」って言うんだけど、一体誰が何をがんばるのかわからない。ちなみに、「絆」とかいうのもあるけど、わたしは「絆」って言葉はきらいなんだ。
阪神淡路大震災の時は、たしかに「がんばろう」って言ってたけど、あれは「がんばろう神戸」だった。誰のために声を発しているのかわかったし、誰ががんばるのか、それは神戸の人も「がんばろう」と思っただろうし、神戸の人ではないわたしも「がんばろう」と思えた。
でも、「がんばろう日本」には、そういうリアルさがない。
では、リアルさがない中で、誰が何のために「がんばろう日本」と言っているのか。
わたしはそこになんとなく「他の意図」を感じてならない。簡単に言えば、震災を利用して、あるいはそこまではいかないかもしれないけど、きっかけとして、なにか他の意図を持って「がんばろう」と言っているような気がしてならないんだ。

なんというか…。
たぶん、言葉は大きく広げずに、対象を絞ることでリアルさを持ち、意図が明確になる気がします。そして、それが誠実さにつながるのかもしれないとも。
自戒の念を込めて…。

*1:ほんまかいな^^;;。