今日は地元の人権研究会の定例会議。なかでもメインは発達障害の子どもたちのサポーターをしている人の講演です。
いくつかの事例を示しながら、どのように対処をしてきたかという話を聞かせてもらいました。
考えてみると、「発達障害とは」みたいな話を聞く時代から、ケーススタディの時代に移行したんですね。
その中で、発達障害である(であろう)ことを告知するかどうかという議論が少しあって、かなり興味深かったかなと。
ケースワーカーの方は、高校段階だと告知をした方がいいという考え方をされまさていました。
「病名という意味ではドクターが診察をしてすることですが」
という留保をされていましたが…。
つまり、「自分の特性を理解したほうが、いろんなことに対処する方法が習得しやすい」ということなんですね。
わたしは深くうなずいてしまいました。
でもこれ、ケースとしては同一には考えられないだろうけど、部落や在日のことも同じかなと思ったりもします。
この手の話って「世間」から入ってくる情報は基本的には「マイナス」のバイアスがかかることが多いかなと。となると、大きくなってから自分が「それ」と知ると、自己否定感からのスタートになるんじゃないかと。
もちろん「タイミング」ってのはあるんでしょうけど、タイミングは逃すと二度とやってこない。じゃあ逃す前にやった方がリスクは低いんじゃないかと思ったりするのですが…。
少なくとも、自分が「それ」とわかっている人はつきあいやすいなぁ。
お久しぶりです。
発達障害当事者として興味深い日記、読ませていただきました。
告知のタイミングって本当に難しいと思います。自分は社会人になって診断を受けてADHDとアスペルガー併発という発達障害が分かりましたけど、高校時代にそれを言われて、果たして受け入れることができたかどうか・・・。本当にそれぞれのケース次第です。
ただ、いつきさんが書かれているように「特性を理解したほうが、いろんなことに対処する方法が習得しやすい」ということは、現在進行形で体感しています。もっと早く分かるとよかったと。
自己のトランスジェンダーを考える時にも言えることかなと感じました。
たしかにたしかに
自己受容できる「とき」を見つけることが必要ですね。年齢を重ねることによって自己受容の幅が広がる側面もあるし、マイナスのバイアスをかけてしまう側面もある。たぶん公式はないんでしょうね。
それはトランスジェンダーも同じですね。
発達障害とトランスのダブルパンチの個性を持って生まれた自分にとって、もしその両方を未成年のときに告げられたら、マイナスのバイアスがかかって耐えられなかったかもしれません。
かといって、自分の個性って一体何?とずっと悩んでいた記憶をたどれば、もっと早く気づけると良かったとも思います。
「公式」は存在せず、人それぞれなんでしょうね。
それと、いつきさんの映画サイト、拝見しました。
九州でも上映されると良いなと期待しております。(^^)