踏み込め!

最近、電車通勤に変えたおかげで、すっかりバイクに乗らなくなって、かわりに短時間ではあるけど自転車に乗るようになりました。
うちから最寄りの駅まではゆるい下り。行きは急ぐから本当に助かります。
で、帰りは…。疲れてはいるけど、ここをがんばって走ってみます。
頭の中には
「ペダルをクルクルまわすな。踏み込んで負荷を感じろ!負荷を感じなくなったら、負荷を感じられるところまでさらに踏み込め!」
という声がこだましています。
ヤバイかもな。

こんな世界があったよなぁ

夜はおべんきょ仲間や、その先輩たちの呑み

会。
わたしにとって、懐かしくもあり、はじめてでもある場所です。
なんか「あぁ、こんな世界があった」と、ふと思ってしまいました。
なんだろ…。
食べ物は、焼きそば三玉入りとか、山盛りのフライドポテトでいい。減ってるお腹が満たされればいい。「これ、おいしい」なんて話はいらない。パーティートークもいらない。何よりのごちそうは「真剣な対話」。
でも、あまりにも楽しみ過ぎたかもしれないな^^;。

驚きからのはじまり

今日のおべんきょは、結論から言ってしまうと、「驚き→疑問(問い)→哲学(学び)」という流れをどうつくるかみたいな。特に、「問い→学び」のところに断絶がある。
もちろん、ノウハウの伝達の場ではないので、それをどうするかについてはここにまかされるんですが、ひとつの提言は「what」ではなく「how」で問うてみたら?ってことでした。その真意は、「what」は「答え」を要求するけど、「how」はそうではないということでした。
んー。
日常の仕事にひきつけて考えると、たぶんそういうことを試行錯誤しながらもやってはいるつもり。でも、なかなかできていない。
子どもたちは、「問い」を欲しているのではなく「答え」を欲している。あるいは、「学び」とは「how」ではなく「how to」であると思っている。
わかりやすさから、少しずつ「わかりにくさ」に移行させていくことも大切なのかもしれない。もちろん、意図的に。

はずかしい^^;

夜、家族で「世界○天」を見ていました。で、突然出てきた「夫の真の姿は」みたいやつ。
もうね。来ちゃいましたよ。
「これな、たぶん相手がFTMな」
とか、とりあえず予想。
話が進むにつれて、どんどんかゆくなります。妻が夫のパソコンを起動しようとした時パスワードがかかっているシーンでは、パートナーに
「あんたのパソコンのパスワードは?」
って聞かれるし。んなもん、教えられるかい(笑)。
パソコンをとりあげられた時の夫のヤル気のない顔を見て、パートナーは
「あんな顔、あったわー」
と笑うし。知るかいな^^;。
で、いよいよ番組は佳境に入ります。夫のカミングアウト。そうですか、途中からわたりはじめましたが、MTFですか。もう、わたしはかゆさで転げまわっていました。
当然のことながら、妻は受け入れないわけで。そして、感動のシーンがきます。
「1年のち、いつもと変わらずコーヒーを淹れてくれる夫の姿を見た時、姿は変わったけれど、なにも変わりがないと思った妻は受け入れようと決心した」
みたいな。
ほんとにもう、どこかで聞いたフレーズだよ!
マジ、まいった^^;。

ある訃報にふれて

昨日の夜、大切な友だちから一本のメールが入っていたみたいです。それを読んだのは朝。「○○さんが亡くなった」とだけ書いてありました。はじめ誰かわからなかったのですが、フルネームを知って、ようやく誰なのかわかりました。おそらくわからなくて当たり前なほど、あまりにも若すぎる死でした。
その訃報を抱えたまま、通勤電車に揺られながら、職場への坂道を登りながら、いろんなことを考えました。
それにしても、なぜいま自分は生きているんでしょうねぇ。考えてみると、不思議です。今の世界を見渡すと、死なずにいる自信がない。ほんとうに、ごく身近に感じます。でも、わたしは生きている。なんでやろ…。
ふと思いました。
たぶん、わたしの場合は、仕事してるからだな。仕事が充実しているとか、そんなことではありません。仕事をしていることそのものです。だから、思索が中断される。それはわたしの場合は仕事だけど、なんでもいい。思索が中断された時、思索をしている時近くにあった死から、ふと遠ざかる。
逆に言うと、たとえ仕事をしていても、思索を中断しない力のがわたしにあったら、案外死は近くにあるのかもしれない。

思考の継続と中断

まぁ、「思考」というほどのものではないですが、それでも少なくともわたしは、たいていの時間をなにか考えながら過ごしています。まぁ、その中身は、家に残ってるビールの本数とか、そこから逆算していつビールを買いに行かなくちゃならないかとかいった、きわめて日常的に重大な(笑)ことから、ガチで深く思考の中に潜り込まなきゃならないこともあるわけです。
で、いまわたしにとっての喫緊の課題としては、人権学習の資料づくりというのがありまして。
いや、本来はそんなもん担当する人が自分でやらなきゃならないと、わたしは思っています。少なくとも、わたしは自分が担任の時、人権学習に限らず、たいていの資料は自分でつくってきました。だって、その方が使いやすいもん(笑)。
でもまぁ、今はニーズがあるからやるわけですが…。

人権学習に限らず、資料づくりって、まず「何を伝えたいか」について、ボンヤリと考える時間が必要なんじゃないかなと思います。はたから見たら、単にサボっているようにしか見えません。で、自分でも頭の中がフル回転しているわけじゃない。やっていることは、その辺に浮いている雲か綿菓子を集めるような感じです。でも、それをしばらくしていると、やがて自分がなにを感じているかが少しずつ形になってくるのです。そこからやっと「どう伝えるか」のフェーズに移行します。わたしはそんな感じ。
で、一番時間がかかるけど、一番中断を嫌うのは、そのボンヤリと考える時間なんです。
ところで、ガッコというのは、とにかく「中断」の多いところです。まずは、50分刻みの授業。そして、あちこちから飛んでくる「声」。すべてがチャイムで厳密にタイムキープされていますが、やはり授業や掃除などの「時間」を記憶しています。すると、それそのものが、すでに思考を中断することにつながります。
人によっては、もしかしたらさほどのストレスではないかもしれませんが、この状態で「考える」というのは、わたしにとっては、かなりのストレスになります。

今日もそんな感じ。今日は出張日なので、授業のコマ数は少ないのですが、長い時間をかけて考えることができずに、かなり苦しみました。
それでも、まぁなんとか「雲」をまとめてひとつの形にして、資料はできました。できあがったものは、たいしたものではないかもしれませんけどね^^;。

うれしいハプニング

おべんきょのあと、「おべんきょ仲間」でウダウダしようとしていたら、
「今日は呑むの?」
と、センセイが顔を出されました。ちょっと疲れ気味だったわたしが、がぜん元気が出たのは言うまでもありません(笑)。
2時間ほどの時間ですが、晩ご飯を食べながらの時間は、わたしにとってのいい非日常ですねぇ。

うれしさがあふれてる?

たぶん、環境の変化がある時って、そしてそれが自分にとって「プラスである」とかんじる時、ものすごい高揚感があるんでしょうね。それこそ、
「自分は万能!」
くらいのものすらあるのかもしれません。
でも、それをあとから振り返った時、そこからボタンの掛け違えがすでにはじまっていたみたいな評価もまたあるのかもしれません。
いや、単に18世紀から19世紀にかけての話なんですが…。
でも、どうボタンをかけても、どこかで掛け違えはあるのかもしれない。あとの評価を気にしてボタンをかけることは、結局、ボタンをかけられなくなるようになることにつながるのかもしれませんねぇ。
まぁ、本論とは違う雑感でした。

満員電車

今日は出張→おべんきょの移動があります。時間はかなりタイト。できるかなぁ。
で、出張が終わったら、駅までダッシュ。でも、目の前で電車が出て行きました。まぁいいです。本命の電車はあれの次です。
で、本命の電車に乗ってひといき。と、突然
「急停車します」
とのアナウンス。
「いや、事前のアナウンスがあったら急停車ちゃうやろ(笑)」
と思ったのですが、たしかに急停車しました。なにやら先にある踏切で異常が発生しているみたいです。
結局、運転手さんが踏切を確認しに行って、運転開始。てことは、何分遅れだ?乗り換え可能か?
駅に着いたらダッシュ!間にあった!と思ったら、次に発車する電車でした。ありゃりゃ。これでおべんきょには間にあわん(;_;)。

にしても、遅れた電車だからどうかはわかりませんが、もう、大混雑。それはまぁ仕方ないとして、車内で大声でしゃべる人とか悪態つきまくる人とか、山のようにいます。もう、うるさくてうるさくて。本が読めん(;_;)。まいった…。

プチ総括

交流会終了後、いつも手伝ってくれているK淵さんと顔を見合わせます。
「どうしよ」
「どうしましょ」
「う〜ん」
「一杯だけ(笑)」
「そうしよか」
どちらがどちらかはまぁおいといて、わかばで軽く総括をして、本日の日程は終了。

家に帰ったら、下の子どもが修学旅行から帰ってきていました。土産話を聞きながら、みんなで晩ご飯。あ、わたしはさすがに軽くビールを呑んだだけですがね。

あー、疲れたけど充実してた!