で、JCILの事務所へ

なぜかはじめてなのにJCILの事務所に行って打ち上げに参加しました。
そうか、こういう世界があったんだと思いました。
それにしても、初めての参加なのに、なんとなく話ができるのは、もちろんわたしの蓄積もあるんでしょうけど、それよりもなによりも、JCILの人たちの柔軟な感性に依っているなぁという気がしました。
あんまりにも楽しすぎたので、気がついたら11時です。
しもた、パートナーに
「晩ご飯、外」
って言うの、忘れてた。すんげぇこわい…。

「国際障害者年」連続シンポジウム 「当事者」って何だろう!

上記シンポジウムに参加しました。
なんしかひたすらタイピングし続けました。それにしてもめちゃくちゃおもしろかった。まぁ暇な人は読んでみてください。ただし、かなり長文です。
ちなみに、グリルドチーズ願望さんまとめてくださってもいます。

ではスタート!

「国際障害者年」連続シンポジウム 「当事者」って何だろう! なう
2011-03-19 10:43:56

矢吹さんが話してる。以下、かなり適当なメモ。障碍者という言葉はいつからできたか。敗戦後、傷病者に対するもの。それまでは、個別の呼び方だった。
2011-03-19 10:46:00

「当事者」という言葉ができてから主人公になった。「自立支援法」ができてから、お客さんになった。「あなたが決めるんですよ」でも決められるのか。ほんとうは決められない。震災の情況では当事者主体なんてぶっ飛んでいる。じゃぁ当事者主体ってなんだ。震災の場所では、みんな「被災当事者」
2011-03-19 10:47:44

すると、当事者同士のぶつかりあいが出てくる。
2011-03-19 10:48:10

「当事者主権」というと、お互いの主権がぶつかりあう。
2011-03-19 10:48:57

「当事者」というと、なんかえらくなったような気がしてくる。合理的配慮の中に、わがままも入ってくる。「これを聞け。オレは当事者だぞ」という人も出てくる。そういう勘違いをしている人がいるような気がしてならない。すると、「当事者主体」っていうのはなんなんだ。
2011-03-19 10:50:43

自分たちが何かを言う。子ども扱い(ものを壊しても「障碍者からしゃーない」)の中でごまかされてきた。ほんとうに自己決定・自立があったのか。一方では主権を唱えるが、一方では甘えてしまうところがたくさんある。これでほんとうに自立生活と言えるのか。という疑問があった。
2011-03-19 10:52:10

後ろを振り返ると、自分たちよりももっと大変な人たちがたくさんいたはずなのに、私たちがその人たちのことを考えて動いてきたのか。「私たち当事者は」の「私たち」の中に、たとえばALSの人や難病の人のことも受けとめてきたのか。
2011-03-19 10:54:08

かつては「超一級の障碍者」だった自分が、後から来た「もっとたいへんな人」から「俺たちのことを考えてきたのか」と言われたとき、どうなるのか。でも、それを言っては身もふたもない。そこで、さまざまなしんどさを持った人が、どういうものをつくっていくのか。
2011-03-19 10:57:05

あぁ…。タイピングがついて行かない。おもしろさが表現しきれない。
2011-03-19 10:57:49

バスの似るたびに半額でもめるような形じゃなくて、自分たちも満額払えるような社会をどうつくっていくか。
2011-03-19 10:59:40

あ、封筒の中にペーパーが入っていた。めっちゃわかりやすい!
2011-03-19 11:02:11

当事者意識をぶつけ合ったら、もっともっとぶつかりあいができ、権利意識が高まり、暴動が起こるのか。権利意識が低ければ暴動が起こらず平和なのか。よくわからないけど、みなさんの考えを聞きたい。
2011-03-19 11:04:13

続いて熊谷晋一郎さんの基調講演。はたしてつぶやき続けられるのか(笑)?
2011-03-19 11:04:59

全体の流れ。興味のあるところだけ起きておいてください(笑)。1、長い自己紹介。脳性マヒはリハビリで治ると言われていた時代のこと。自立支援運動の中でいかに救われたか。
2011-03-19 11:08:48

2、2次障碍の問題。障碍者が長生きしないと言われてきたけど、2次障碍や老いが無視できなくなってきた。
2011-03-19 11:09:53

3、手足論。介助者は障碍者の言っていることだけをするべき。でも、一部、自己決定が即自由につながるわけではないのではないのではないか?深く考えると、手足論は自己決定につながらないのではないのか。心と体は別という2元論の限界を考えてみたい。
2011-03-19 11:11:23

4、発達障害自閉症の話。「見えにくい障碍」は、しばしばわがままと言われてきた。その障碍が、これほどまでに社会に受け入れられてきたということは、社会の構造の変化があるのではないか。今は不気味なほどに当事者主権という言葉が、権力側からも言われるようになってきた。
2011-03-19 11:13:02

これは、自己責任とセットになってきた。かつては社会が責任をとらなくてはならない建前だった。つまり、社会は責任をとれませんと言っている。と同時に、自己決定ができない人が新たな障碍とされやすくなってきたのではないか。
2011-03-19 11:14:41

で、スタート。
2011-03-19 11:14:56

早期発見/早期療育には「水増し」がされる。
2011-03-19 11:20:14

最初集中力が途切れていた。
2011-03-19 11:27:05

脳性マヒは97%直ると言われていたころ。家族から、介助を受けるなら(?)健常者になってからにしなさいと言われていた。なので、家族は「すべて自分たちがやってあげる」そのために、世界と自分の間にゼリーのような家族が存在していた。
2011-03-19 11:29:16

自分への信頼を損なう「健常者」幻想。社会への信頼を失う「厳しい社会」幻想。自分への信頼を失う。
2011-03-19 11:30:17

身の回りのことをすべて家族がやってくれていると、自分が何ができるかわからない。自分の輪郭がぼやけている。
2011-03-19 11:30:55

トイレとの闘いの中で、トイレとのチューニングがなされる。トイレの情報(スペック)がわかると同時に、自分の体の情報がわかりはじめる。社会と自分の体が直接交渉をはじめる。社会の情報と自分の体の情報がわかる。社会と身体の隙間で交渉がはじまる。
2011-03-19 11:33:20

社会や身体の情報がわかる。不安が減ってくる。隙間を埋めるようにして、自分の体とトイレがすりあわされる。落としどころを見つける。そこが着地点だけど、着地点ができるとイメージがぼやける。ここがたいせつ。
2011-03-19 11:34:33

どこまでが外の世界でどこまでが自分の体か。ex電動車いす。ex介助者とうまく連携がとれているとき。自分の指令とフィードバックが思い通りになっている時が「肉体」である。
2011-03-19 11:35:53

かつては「電動車いすにのったらおしまい。最後の乗り物」と言われてきた。でも、自分の身体を手にすることはリハビリへの意欲を高める。
2011-03-19 11:38:00

介助者とうまくいっているかどうかは、世界の見方がそろっているかどうかということ。
2011-03-19 11:39:00

介助者の世界の見方が変わると同時に、介助者の世界とそろったとき、障碍者も介護者の見方に動く。見方が混じり合う。
2011-03-19 11:40:15

何と身体を同一するかによって、世界の見方が変わってくる。
2011-03-19 11:41:25

一人で採血できる道具をつくる→引かれる→バージョンアップ→さらにひかれる。挫折
2011-03-19 11:44:00

とても忙しい病院に行った。「猫の手どころか障害者の手も借りたい」→笑い。お手本通りにやることが目的ではなく、ミッションをこなすことが目的。
2011-03-19 11:45:16

ミッションごとに人を集めてチームをつくる。互いのスペックをスタッフが共有する。「こういう事態にはこういう組み合わせ」が共有。互いのスペックを探り合うことが大切になる。お互いの体を融合しあって探る。
2011-03-19 11:46:29

採血の話、おもしれ〜。試行錯誤する余白を職場に残す。世界のイメージをそろえることが重要。
2011-03-19 11:48:16

リスクが事故を起こすのではない。システムが完成に近づくほど、人はシステムに動かされ、全体がわからなくなってくる。失敗や試行錯誤の予約を残しておくこと。ミスは学習効果が高い。現場に余白を残して試行錯誤することが、とても重要。多様性を持ったスタッフが試行錯誤できる余白があるか。
2011-03-19 11:50:20

システムを立ち上げてきた人はえらい!システムができてきてから出てきた人は全体が見渡せない。だから、システムを壊し続けること。
2011-03-19 11:51:33

2次障碍の話しに以降。「俺たちはガンバリズムがあるから、つい無理してしまう。がんばるなよ」と言われてきた。
2011-03-19 11:53:23

2次障碍が来た。「脳性マヒ」は非進行性と言われていたけど、これは「脳性マヒが早く死ぬ」ことが前提だった。最近進行をしていくことがわかってきた。
2011-03-19 11:55:09

2次障碍の何が問題か。「できていたことができなくなる」と「痛い」。このふたつは、実はわけられない。
2011-03-19 11:55:48

脳性マヒ者の中にある医療不信
2011-03-19 11:57:34

身体イメージの自己運動。慢性疼痛は痛みの記憶である。脳は夢を見ている。自分を客観的に見られなくなる時、自分の中に閉じこもっていく時って、夢に近かったなぁ…。とのこと
2011-03-19 12:02:54

この記憶としての痛みが、なぜ「痛むのか」。なぜある種の記憶は痛まないのに、別の記憶はいつまでも痛むのか。なぜ2次障碍の痛みの記憶だけが痛むのか。フラッシュバックの記憶と似ている。
2011-03-19 12:03:50

どう沈静化させるか。ボディイメージを更新する。社会とやりとりをすることで輪郭を獲得した。同じことをやる。体は前と異なる。認識とのずれ。動くことで更新する。そのためには「動き始めても大丈夫」。そして
2011-03-19 12:06:41

「それを信じて動き出す」。「信じて」っていうのが大事。
2011-03-19 12:07:03

確かに知識と、「大丈夫」という医療を信じること。そうか。最初の不信感とつながるのか(いつき注)
2011-03-19 12:07:42

医者に期待しなくてもいいけど、医学を当事者の手に奪還したい。知識としての医学は我が物としてもいいのではないか。医学を進展させるために自分の物語を紡いでもいいのではないのか。
2011-03-19 12:09:44

自立運動における自己決定の原則。先回り行為の批判。手足論。しかし、手足になることは身体化。基本は手足になるべきだと思っているが。手足になることと自己決定になることは別。
2011-03-19 12:11:38

「手足論になること」と「自己決定の原則」の間にある矛盾。
2011-03-19 12:12:18

自己決定はきりがない。どこからが自己決定し、どこからは自己決定しないかを決める。健常者の身体は「よきに計らって」歩いている。それをコーディネートしている。
2011-03-19 12:14:16

完全な自己決定をすると、自閉症化する身体。
2011-03-19 12:15:07

自閉症の場合、事細かなフィードバックがあり、それを意識化することで話せるので、何を話すまでは意識が行かない。
2011-03-19 12:15:49

自己決定は手動乖離。身体化が自動回路。その区分けを共有化することが自由を与える。
2011-03-19 12:17:49

手足は自発的に動いてくれるもの。しかし、要所要所では自己決定に従ってくれないと困る。しかし、健常者は社会のハードが健常者向けにつくられているのでそれを享受していることに無自覚。障害者の場合はそういうものがないので、自動的に動けない。なので、いちいち闘いや自己決定をしないといけない
2011-03-19 12:19:27

マジョリティは社会制度が身体を自動的に動かしてくれるようにできているので、その分意識を自己決定領域に持っていく余裕がある。
2011-03-19 12:20:58

マイノリティは、すべてを意識で自己決定しなくならなければならないか(あたふたモード)か、すべてを自動化させる(ぐるぐるモード)の両端にいく
2011-03-19 12:21:49

多数者は「すいすいモード」が基本で、「ぐるぐるモード」と「あたふたモード」を行ったり来たりする。でも、マイノリティは「すいすいモード」がない。
2011-03-19 12:22:38

4番目突入。自己決定をすることが自由なのではなくて、ある程度自己決定をしなくてもいいところがあるほうが自由なんじゃないの。
2011-03-19 12:23:27

70年代。障害者と健常者の線引きがあった。これは、主として身体障害者だった。現在は、やや線引きが変わってきた。具体的には自己決定できる障害者は自立している/社会性がある。自己決定が苦手だったりゆっくりしていると、自立していない/社会性がない。
2011-03-19 12:24:51

新たな健常者基準ができはじめている。
2011-03-19 12:25:14

発達障害自閉症スペクトラムが10倍ぐらいにふくれあがっている。なぜ診断書を必要としている人がこれほどまでに増えているのか。その構造を見ないと、「相手」を見誤ってしまう。
2011-03-19 12:26:23

佳境だ!
2011-03-19 12:26:41

自己決定領域が広がることで自由を得てきた障害者に対し、自己決定が苦手な人が新たに出てきた。
2011-03-19 12:28:13

これらを「障碍ではない」と考えてはいけない。「インペアメントが社会性の障碍」と考えてはいけない。
2011-03-19 12:29:43

第1世代は過剰適応。「みんなたいへんだから一緒にがんばろう」→「できないわたしはだめ人間。まだ努力不足かな」
2011-03-19 12:30:47

第2世代、承認しあう仲間を見つける世代。自分の苦しみには名前があった。自分には仲間がいた。一部は共感し得るけど、一部は共感できない。仲間同士の軋轢になったりする。→ドキドキドキ(いつき注)(笑)
2011-03-19 12:32:56

第2世代。「ほんとに当事者なの?」「キャラ化しないといけない」「あなたは○○だからいいよね」「無理解な社会と戦うべきだ」→ドキドキドキ(笑)(いつき注)
2011-03-19 12:33:58

第2世代は「飛び地」としてもっておかなければならないけど、排他性や同調性でせっかくの居場所にいられなくなる。密室性と開放性の両立。
2011-03-19 12:34:53

「言いっ放し聞きっぱなし」「新しい仲間が一番えらい」「部分引用と編集」
2011-03-19 12:35:31

「依存症」のやり方が参考になる。→「ダルクだな」(いつき注)
2011-03-19 12:36:03

「言いっ放し聞きっぱなし」はコミュニケーションの放棄。空気の読みあいによって自分の実像とずれる。これを回避するためにどうするか。
2011-03-19 12:37:21

相手の反応を気にせずに言いっ放し聞きっぱなしをする。でも、仲間が聞いている。ぴったりの人の話から部分引用にしながら、徐々に自分の語りをつくっていく。それが等身大の自分を獲得していく。自分のことが語れるようになることが依存症からの回復。
2011-03-19 12:39:09

あ、終わってしまった。おもしろかったぁ!
2011-03-19 12:40:36

昼休み終了。午後のシンポ開始。ちなみに昼ご飯は @kochu_karu_koさんと一緒に麺をすすった
2011-03-19 13:46:22

岡本さん@京都新聞の話スタート。ALSの取材をしてきた。「街へ出よう」という言葉がきらきらしていた時代から変わってきた。いま、病院から放り出されはじめている。
2011-03-19 13:51:41

杉江さん@ALSのビデオ。ALSno
2011-03-19 13:53:49

ALSの国都とともに、医者から死の自己決定を迫られた。
2011-03-19 13:54:30

主治医「ヘルパーがいないのは杉江さんに問題がある」杉江さん、「僕は僕。ヘルパーは僕に必要以上に干渉しないで」
2011-03-19 14:00:33

寝るときの姿勢のシーン。ミリ単位の微調整。四肢機能全廃。しわ一つの苦痛。介助者「がんばってください」。杉江さん「逆方向にどんどん進んでいくのが怖い」
2011-03-19 14:03:32

24時間人がいる。いろんな人がやってくる。

2011-03-19 14:05:35

介助の姿勢のシーン。杉江さん「何回も同じことを言わせるな」

2011-03-19 14:06:22

杉江さん「90%は苦痛。残りは絶望。1日1日を笑って生きる」

2011-03-19 14:08:38

それにしても、介助者の人、文字盤が読めるんだ。

2011-03-19 14:09:18

西田さん@看護師のビデオの補足とか。

2011-03-19 14:10:19

伝えたいことは?杉江さん「本当のことは他人ではわからない。人は一人一人進んできた道がある。できるだけ変えないように進みたい」

2011-03-19 14:15:27

ALSは家族介護。人工呼吸器などをつけない選択を迫られてしまう。

2011-03-19 14:17:19

情報を自分から調べるエネルギーがない。介助サービスが進行に追いつかない。その中で「もう、どうでもええわ」となる。

2011-03-19 14:20:54

どんな感じで機能が低下していくのか。「昨日できたことが今日できなくなることがあるけど、昨日できなかったことが今日できることもある。体に裏切られていく気がする」

2011-03-19 14:25:03

2年間は戦場だった。今落ち着いてきたのは…。進行が緩やかになってきた。1年目「自分の体のことは自分が一番わかっている。自分は自分のことで精一杯だ」。2年目、一日一日を現場の人がつないできた。

2011-03-19 14:29:45

他の人は知らないが、僕は便利さを求めない。   あとなんだっけ。タイピングについて行けなかった。でも刺激的だったんだけどなぁ…

2011-03-19 14:33:39

小泉さん@自立支援事務所の話。杉江さんを代弁できないが、わたしの立場で考えたことを話せばいいのかと思った。

2011-03-19 14:39:56

杉江さんは自分のことを「患者」と表現していた。障害者のわたしにはピンと来ない、なじまない言葉だった。患者には「治す」「治っていく」イメージがある。

2011-03-19 14:42:27

杉江さんに感じる感覚は、中途障碍の方に感じる感覚と似ていた。わたしは「差別」という言葉にすごいこだわりがある。差別をなくしたいと思ってきた。けっこういやな思いもしてきた。きっと中途障碍の方もいはるかな?いはりませんね。中途障碍の人には健常者の部分がある。

2011-03-19 14:46:37

この人も以前はわたしを差別していた可能性があるのかもと思っていた。

2011-03-19 14:47:50

障碍というのは、誰もなる。病気だったりけがだったり老いだったり。その中で分断されていてどうするのか。

2011-03-19 14:48:50

この3日間、自分と向き合う作業をしたけど、それはとってもしんどかった。たぶん杉江さんも自分と向き合う作業をしてきただろうと思う。体裁よいうわべの答えを出すことも可能だっただろうと思う。でも、なぜこういう答えだったのかを、みんなで考えていかなければならない

2011-03-19 14:50:53

さて、シンポジウム後半。野崎さん@大阪府立大学非常勤講師→立命館大学より「当事者性の可能性と限界」開始。

2011-03-19 15:05:40

倫理学が専門。倫理学は哲学の一分野。そこでは自由とか自己決定なんかが議論されてきた。…デカルトとかフッサールが出てきた。

2011-03-19 15:12:30

さて、本題。「当事者」という言葉と出会ったのは、障害者運動ではない。むしろ不登校経験者。ひきこもり。性暴力サバイバー。でふくらんでいった。

2011-03-19 15:15:15

不登校は、かつては「登校拒否」。これは直すべきと考えられていた。病的な診断をえるものという、第1世代。やがて、(親の世代だけど)これは病気ではない。子どもが自己決定をして「行かない」を選んでいるんだ。

2011-03-19 15:16:39

今は、病気に還元されるのも、自己決定に還元するのも、どうもうまくあらわせていないんじゃないか。じゃぁどうしたらいいのか。

2011-03-19 15:18:18

個人的な物語に回収されることを拒否する。

2011-03-19 15:18:52

障害者運動の中で「当事者」が使われるようになったのは80年代。牧口さんの「エレベーター設置運動」vs「青い芝の会」。このように、当事者も一枚岩ではない。

2011-03-19 15:21:16

「当事者とは誰か?」結論は持っていない。持っていないことが、逆にステータスなのではないか。

2011-03-19 15:22:34

ある人が「わたしも障害者の皆さんと同じく当事者性を帯びているから、障害者問題に自分自身の問題として取り組まなければならない」。これに対して介護を必要としている人から大ブーイングがあった。生きづらさを被る側とそうではない側に峻別がある。 あ〜、タイピングがついていけない…

2011-03-19 15:25:00

「当事者の声はなぜ大切にされるべきか」声を上げることが当事者の必要条件ではない。まさにそこに生きているから尊重されなければならない。このことと「言ったようにやらなければならない」という話とは別。

2011-03-19 15:26:12

「声を上げる」と言うことは当事者にとってはすごいハードルがあるということを再確認したい。声を上げたとしても聞いてもらえたという経験がないと思っているから声を上げないということがあるかもしれない。いろんな不安がある。

2011-03-19 15:27:17

声を上げることが賞賛されたり、もっとひどいことでは「当事者は声を上げなければならない」ということがいわれる。これは違うと思う。

2011-03-19 15:27:56

当事者性はある種の普遍性や正しさを持っている。当事者を社会によって無力化させられた人たちと考えることによって普遍的な概念が呈示できる。

2011-03-19 15:29:50

当事者性の持つ普遍性と連帯。危ういながらもそこに連帯のかすかの火がともされる。

2011-03-19 15:30:58

個人と社会の関係、個人と個人の関係は社会を変えるだけではうまくいかない。答えがない。

2011-03-19 15:33:05

あ〜、むずがゆい。もうひとつまとめてほしい…。自分の問題意識と微妙にかすってるんだけどなぁ…。

2011-03-19 15:34:27

で、壇上の意見交換。

2011-03-19 15:34:47

矢吹さん「なかなか眠たくて、難しい話。自分は提起しただけで帰ろうかな(笑)。自分の中でとっても疑問なんだけど。たとえば障害者で大学に行っている人に何を学んでいるのと聞くと「社会福祉」という。なぜわざわざ大学まで行って。あなたの体一つでいいでしょう」

2011-03-19 15:36:48

自分も障害者運動をやるために生まれたわけではない。いろいろあって、いろいろ仕向けられて、今こんなことをやっている。体が動かなかったとき、あんなことしようこんなことをしようと空想していた。でもやっぱり生まれてきた以上、黙って生きているのは楽しくない。

2011-03-19 15:38:12

いろんな人と関わることが楽しい。それができない人はどうしたらいいのか。

2011-03-19 15:39:22

「当事者の主体性」という言葉に流れ込んでいく中で、自分も「当事者」という言葉を使い始めた。かつては「当事者」という言葉を使わずに自分のことを語っていた。こんな子ども扱いされているのはおかしいと声を上げてきたのが障害者運動だった。

2011-03-19 15:41:01

でも、声を上げられない人を代弁してきたか。声を上げてきた人はよくしゃべるんだわ(笑)。すると置き去りにしてきた人がいるんじゃないか。

2011-03-19 15:42:01

今までのやり方は絶対間違ってないと思う。でも、それをどうやって膨らませていくか。

2011-03-19 15:44:32

熊谷さん。杉江さんが来ておられないのが残念。ビデオを見て感じたこと。一番に思ったのは、軽い重いでははかれない、障碍の変化。重い障害でも安定していれば「こんなもの」とイメージがつくれる。軽くても変化するとイメージがこわされる。

2011-03-19 15:47:06

日々の根本にある信頼感。予測ができる人は、それを空気のようにすっている。予測できない人のことを、これまでの障害者運動はすくいとれてこなかったのではないか。

2011-03-19 15:48:23

もうひとつは「痛み」のこと。慢性疼痛。自分のボディイメージが崩されたとき、それを「痛み」として感じる。幻視痛。進行が早ければ、アップデートがついていかない。存在自体が痛いということを抱え込む可能性がある。

2011-03-19 15:50:20

痛みはインパクトがある。時間を止める。悪夢。自己決定は、明日への予測と信頼があるからできる。それをゆるがすと怖くて動けなくなる。自分が決定できなくなると時間を止めてしまって過去に生きてしまう。

2011-03-19 15:51:58

中途障碍と生まれながらの障碍の2次障碍の共通点。「どこまで変化するんだろう」という不安。

2011-03-19 15:53:16

従来は重いか軽いか考えてきたけど、変化で考える必要がある。でも、それを言語化できないから、わがままとうつる。

2011-03-19 15:54:11

西田さん。「痛み」がすごく参考になった。杉江さんと出会う前は自分の考えを形に表すことができていた。でも、支援がはじまって、わかろうとすると空まわりになる。うまく言葉が生まれない。たずねられると、かえってそれが責められた気になる。

2011-03-19 15:56:26

思いを確認するときに「論理的にせめないでほしい」と言われた。

2011-03-19 15:57:38

野崎さんへの熊谷さんのコメント。「個人の語り(医療モデル)と社会の語り(社会モデル)。個人と個人の関係を語る言葉がないのではないのか?」という問いに対して。

2011-03-19 15:59:52

「社会モデルって、個人と個人・個人と社会について何も言ってないのか?」「言っていると言えば言っている」

2011-03-19 16:00:27

障碍は個人と社会の間のなんらかのずれ。なので、個人化はできない。障碍を語ろうとすれば、自ずから人と人、人と社会の関係に言及してしまっている。どういうものを新たに考えなくちゃならないのか?イメージができない。

2011-03-19 16:01:31

「痛み」に引きつけると。「痛み」は従来は医学的なものと考えられてきたけど、同時に社会関係によって与えられる。医学モデルだけでは太刀打ちできないことは知られている。社会の中でどのように痛みを語っているか。どういう語り方なら許されるか。

2011-03-19 16:02:46

自ずからその関係に踏み込まないといけないんじゃないかなぁ

2011-03-19 16:03:24

フロアからの返し開始。

2011-03-19 16:03:49

共同作業所の代表。脳梗塞で倒れられた方。「痛い」ということがある。自分は骨形で痛みは知っているけど、それとは違うみたい。まわりはどうすればいいのか?

2011-03-19 16:05:45

熊谷。「できること」と「痛いこと」が密接に関係している。「原因のある痛み」=急性疼痛。治ればなくなる。「慢性疼痛」はかつては「わがまま」「サボり癖」とか言われてきていた。今はもう少し変わってきた。

2011-03-19 16:07:36

今慢性疼痛の人に向いていると言われているのは、ひとつは。予測が立たない状態に置かれていると、痛覚過敏になる。予測が立つ情況にする。自分が抜け出せたのは「大丈夫」と言われたことと、その担当医を信用できたこと。

2011-03-19 16:09:38

近くにいる人ができること。「無理するな」はあまり意味がない。安静にしすぎるとボディイメージが更新されないので、ますますだめの可能性がある。基本的には「知識」と「信頼」あるいは「安心」。それがあると、痛みがふと消えることがある。でも難しい。

2011-03-19 16:11:33

フロアから。「差別とは別に痛みを考えてもいいのでは」という提起について。

2011-03-19 16:20:34

差別と痛みは別とは考えてない。差別は痛みを与える。差別や疎外と体の痛みは切り離せない。そのこととは別に、障害の重さとゆらぎは関係をしているけど、いままで「ゆらぎ」を自立運動の中ではうまく扱えなかったのではないのではないか。

2011-03-19 16:22:35

いままでの自立運動を否定するのではなく、プラス、そのことを考えないとまずいんじゃないのか。いろんな人が入ってくるとシステムは壊れる。すると、牙を抜かれた私たちは考えなくてはならなくなる。システムを温存するだけではリスクが上がる。

2011-03-19 16:23:56

先輩たちは「牙を抜かれた」と私たちを言うけど、新しいわたしたちを排除してはいけない。継承したものを受け継ぐためには一回崩さないといけない。

2011-03-19 16:24:55

矢吹さん。熊谷さんや野崎さんがCP当事者だから許せるよなぁ。もしも当事者じゃなければ騒然となる。かつて自分たちは障害者運動の何でも屋だった。それこそ難しいことなんか考えている暇もなく、目の前の敵と闘うことしかできなかった。

2011-03-19 16:26:40

今はもっともっと総合的な障害者運動になればなぁと思うけど、当時は違った。年寄りのグチになるけど。障害者の重度軽度は自分たちが決めてきたことではない。医者と福祉事務所が勝手に決めてきたんだ。

2011-03-19 16:28:57

フロアから。情報化社会が進んできた中で、よくも悪くも情報がどんどん入ってくるようになってきた。希望を持てたり絶望感を持ったりすることが増えてくると思う。これからそういう子どもたちにどういうふうに接したらいいのか。

2011-03-19 16:31:51

矢吹さん。簡単な感想を言う。障害児が自分の未来に不安を感じるのではないか。たしかに筋ジスの人たちが感じるのは、でも昔からあった。「いつまで自分の命が保たれるのだろうか」と「いずれ人間は死ぬ」の間で、中間にいる大人たちが情報を料理をする必要があるんじゃないか。

2011-03-19 16:35:35

熊谷さん。見通しがたつべきだ。

2011-03-19 16:37:04

西田さん。杉江さん「見通しが立たないことが一番怖いことだ」。地盤が経験的なものから積み重ならない。

2011-03-19 16:38:31

熊谷さん。財源の問題もやってみたら。明らかに財源が先細り。これも先が見えないことの根っこになっている。

2011-03-19 16:39:31

最後に一言ずつ。

2011-03-19 16:39:45

野崎さん「あえて反論を。世界への信頼感が自己決定を担保。では、世界への信頼をかけることができるのか。自分としてはイメージを崩させるものを大切にしたい。言語化できないものの存在が世界への信頼感につながるのでは。

2011-03-19 16:42:07

実践的には不安を排除するわけだが、不安を排除することが信頼につながるのか。

2011-03-19 16:43:10

西田さん。とくにないです。

2011-03-19 16:43:24

熊谷さん。今の野崎さんへの反論。かつては「変化させる余白」が希望なんだという思想が流行した。頑丈な建物を壊さないと檻から出られないという時代にはそうだった。しかし、今起きていることを考えたときに、杉江さんに直面したときに、ロマンティックなことは言えない。

2011-03-19 16:44:51

破壊することに希望を持てる人は、安定を享受している。ポストモダンとかね(笑)。崩せることに希望を見いだせるのは、マイノリティであれマジョリティであれ安定を享受している人。そうではない人には破壊だけじゃなくて安定へのエネルギーが大切。

2011-03-19 16:46:17

これは、観念的な話じゃなくて、現実的な話として、今、どちらに針が振れているのか。余白を残すという意味では希望なんだけど、安定をつくっていくことも大切ではないのかなと思う。

2011-03-19 16:47:06

矢吹さん。閉会のあいさつを兼ねると思うけど。JCILの創始者からたたき込まれたのは「既成概念の変革」だった。わたしたちの生活は「日々変化していかにゃならん」と思いながら、なかなかそうはならない。そうなっているうちに、今日のシンポジストみたいな人がいることが

2011-03-19 16:48:54

そういうことにつながっているのかな。自分が生きる場を確保しつつ、何か人の役に立っていく存在だし、今自分が間違った存在じゃないということが、結局当事者ということなのかなぁ。

2011-03-19 16:50:38

あ〜、めちゃくちゃおもしろかったけど、タイピングがついていかなかった。やれやれ…。
2011-03-19 16:52:03

さて、考えたことは明日のブログで。

読書を邪魔するもの

今日はちょいとお勉強をしに行きたくなったので電車に乗りました。リュックの中には本*1とパソコンが入っています。
さて、本を読もうと広げたんですが、2ページほど読んだところで
「あ、昨日の日記を書かなくちゃ」
と思い立って、ふとパソコンを広げてしまいました。
結局これなんだな。だから本を読めないんだ。
あ、30日締め切りの原稿もあったOπ

*1:旧版『非抑圧者の教育学』(笑)