タイトルのような、そんなたいそうなものじゃないんですけどね。でも、これ、「おんなたちの新年会」で出てきた話題の中のひとつなんです。
まぁ「高校教員」なんて仕事をしていると、もう、どこからどこまでが仕事で、どこからが「趣味」なのかがわからなくなります。例えば、生徒と放課後ダラダラと話をするのは、ある意味仕事ですが、ある意味「好きでやってる」ところがあります。在日外国人生徒交流会なんて、もっとそれがきつい。まぁ線引きをしようとすると、うちの生徒をつれていったら「引率・出張」なので仕事になりますが、つれていかなかったら出張じゃないので、仕事じゃないことになります。でも、それはあくまでも制度上の話であって、「気持ち」の問題としてはそういう線引きは、実はとてもむずかしい。
これが「大学教員」になるともっと厳しいみたいです。そりゃそうですわ。勤務時間が特にあるわけでもなく、研究と教育と趣味が渾然一体となっていますからねぇ。で、その中で「成果」をあげることを要求され、「実績」がないと予算がカットされる。ノルマとしても論文を書かなきゃならない。そんな話を聞いていると「しんどそうやなぁ」と思わざるを得ません。
で、わたしにとっての仕事の定義とは何かという話をしていたのですが、それは「エントリのつけかた」と、身もふたもない返しをしてしまいました。でも、あらためて自分のエントリのつけかたを考えた時、ほとんどが「趣味」だったりするわけです。
実は、「高校教員」として求められている「最低限の仕事」って、本当に少ないなぁと思います。授業と授業にまつわるさまざまな準備、そしてそれにまつわる評価。あと分掌の仕事。それ以外に教員として要求されている雑務。そんなものかな。在日外国人生徒交流会とかトランスジェンダー生徒交流会なんて、その中に入っているとは思えません。ましてや、某在日外国人教育関係の会議なんて、完全な「趣味」です。もっというならば、授業への工夫とか生徒との雑談とか、家庭訪問とか学級通信とか、なんだとかかんだとか、こういうのもある意味「趣味」です。「趣味」といって悪ければ「思いこみ」かな。
で、こう考えるとすごく楽なんですね。
ゼロベースはすごく低くて、そこに足していくのはすべて自分の選択。自分が「好きでやっている」と考える。
まぁ逆に考えないと、生きること=仕事になってしまいますからねぇ*1(笑)。
*1:引っ越す前はまさにそうだった
わたしの場合。
仕事=耐えながら、生活費をいただくこと。
趣味=楽しく、時間が過ぎ行くこと。
教育=仕事。研究=趣味。
なるほどなぁ。わかる気がします。
うちの父親も同じ感じでした。もっとも勉強嫌いなわたしには、当時は不思議な気がしたものですが…。
大学教授の世界について研究した大学教授の本から。
10パーセントの教授が90パーセントの論文を書き、90パーセントの教授が10パーセントの論文を書く。つまり、ほとんどの大学教授は研究などしていない。
研究を捨てない教授は、処女作が学界で高く評価されている。こういう教授は70歳を過ぎても研究に打ち込む。
研究を捨てる教授は、大学や学会での役職にこだわる。
まぁ研究を捨てていないはずなのに、大学や学会での役職がまわってくる人もいたりするわけで(笑)。
そういう人こそたいへんやろなぁと思いますよ。