今日は、人権学習の日。
2・3年生は、担任が話をして、1年生は具志アンデルソン飛雄馬さんの講演というパターン。
はたしてわたしがつくった教材は使えるんだろうか。まぁ、そうとう気にはなっていましたが、そこはそれ、やっぱり担任さんなわけで、それぞれに持ち味を出してやっておられたようです。
で、1年生の講演ですが…。相も変わらず具志さんの浪花節のような講演はいいですね。子どもたちがほんとうに引き込まれて聞いています。
ただ、ふと気になることがある。
具志さんに限らずなんですが、当事者の講演って「その人にしか語れないすごさ」というのをしみじみと感じさせられることが、よくあるんですよね。それはそれでいいんだけど、聴く側はそういうのにだんだん慣れてくるなじゃないかという気がするんですよね。特に、子どもたち。
当事者の迫力に比較すると、わたしたち教員の話のなんと迫力のないことか(笑)。すると、当事者の「迫力」に慣れてしまった子どもたちは、わたしたちの話にどれほどの重きをおいてくれるのかなぁと思ったりもするのです。
でもねぇ。
波瀾万丈な人生を送る人なんて、そうそういるわけじゃないと思うんですよね。あるいは、波瀾万丈な人生を送ったからといって、そういう人がみんな、「語れる」わけじゃないと思うんですよね。大切なのは、波瀾万丈であろうがそうでなかろうが、どこかに自分の変わり目みたいなものを感じ、その変わり目から自分の人生をていねいに見つめ直し、そこからなにかを学び、そしてそれを言葉化して伝えることができるかどうかなんじゃないかという気がするんです。
まぁ「波瀾万丈」は、そういう意味では単なるカンフル剤でしかないんじゃないかとも思うんですよね。
とはいえ、「波瀾万丈」に勝つのはなかなかむずかしいわ(笑)。