雨…。
でも、仕込みはしなくちゃなりません。ちょっと早めに京都駅近くのお肉屋さんへ。カスを仕入れるためです。のれんは閉まってあるものの、お店の方はおられます。よかった…。「カスありますか?」と聞くと「あるのはあるで」とのこと。「でも高いで」
なんでも、6年前の倍になったとか。しかもなかなか手に入らない。ここの店は更池で仕入れているみたいですが、先代からのつきあいがあるからなんとかなっているとのことです。結局、100gが800円のカスを1500円分仕入れて京都駅へ。
駅で参加者の方と落ちあって、会場へ。
電気をつけたりなんだかんだとやっていると、Kちゅかるさん登場。一緒に行った人とお二人に留守番を頼んで買い物へ。
今日のメニューは、「鯛めし」「カスと大根のたいたん」「水菜とカスのたいたん」「炊きあわせ」「棒々鶏」あたりで攻めようか、と。それにしても、なんの脈絡もないのが気になりますが…。
なんだか気分がローテンションなもので、とてもじゃないけど「黙々と」つくる気にもなれません。てことで、ヘルプを頼んでいたY子ちゃんがここで登場。助かった〜。
あとはふたりで*1切ったりはったりしながらぐいぐい調理を進めていきます。やっぱ、目と目で次何をするかが伝わる相手だと楽だわ。
10時頃に*2パワーが切れて、あとはダラダラごはんを食べながらくだを巻いて、気がついたら布団を引きずり出してくるまっていました。
にしても、誰ともまともにしゃべってない気がする。やばいなぁ…。
月: 2008年5月
留守番
今日は夕方までパートナーがおでかけ。なので、わたしは留守番です。
それにしても、この間マジでバタバタバタバタしています。まるでなにかに追いまくられている感じ。そういう時は、たいていテンションが下がっていきます。ご多分に漏れず、なんとなく今日もテンションが下がり気味。
そこをなんとか上昇させて、昼ごはんは久しぶりのお好みです。
最近小麦粉も高くなってきたので、「生地」をちょっと少なめに。これが大正解でした。少なめの生地にたっぷりのキャベツ。ちょうど、キャベツを焼く「つなぎ」くらいの気持ちにしたら、焼き上がりがフワフワになりました。下の子どもがめずらしく全部食べきりました。まぁ、本人は「お腹がすいていたから*1」とか言っていましたが…。
で、午後。
ごろりとイスに寝転がると、となりになぜか「被差別の食卓」があります。なんとなく手にとると、結局最後まで読んでしまいました。まぁ、お好みのあと読むにはふさわしいですよね。
にしても、だんだんテンションが下がっていく…。
*1:寝坊して朝ご飯を食べなかった
結果
「平手打ち」をめぐって
あたしゃ昔はよく生徒をガツンとやっていたけど、ある時生徒からそれが権力関係に依存していることを突きつけられて、きっぱりやめました。この時の平手打ちは、「それでもなお」ということだったし、あの子とわたしの間では権力関係は避けられないものの、OKでだったんだと思っています。
ちなみに、いまも手は出さんなぁ。グリグリはたまにやるけど(笑)。
92年度卒業生の思い出・その3
「92年度卒業生」さんから、その後メールをもらいました。
すごくうれしかったです。と同時に、ほんとうにいろんなことを思い出しました。ありがとね!
てことで、前回の続き。
担任をはずされて、ふてくされて仕事をしなかったその翌年。なぜか担任に復帰。その代わり、当時の学年部長がはずされてしまいました。理由はたったひとつだったそうな。「卒業式で、◯◯◯は歌いません」宣言をしたそうな。そんなことではずされるって、ひどい話です。てか、わたしを担任団に放り込んだら同じ*1ですがな。
で、学級開きの日。
クラスのある子は、ガラリと教室のドアを開けた瞬間「こりゃだめだ〜」と叫んだそうな。まぁ言ってみれば、その学年の一番ガチャが集まったクラスだったそうです。いや、単純に数学の選択で集まってきただけなんですけどね。その「選択」の仕方が少々いろいろあったみたいです。
ちなみに隣のクラスも数学の選択だったんですけど、こちらの方は「進路に必要だから」。うちのクラスは「他の教科より数学の方が通る確率*2が高いから」だったみたいです。
そこからはもう、毎日が祭です(笑)。で、祭には祭で返すわけで。
わたしの方はといえば、家庭訪問の嵐です。といっても、たいした理由で行くわけではないです。いまでも覚えているのがこんなパターン。
「今日、ゴミ捨てSな」
「わかった」
で、ゴミ捨てに行かない。すると家庭訪問。
ピンポーン…。
「はーい」とお母さんの声。
「あの、担任の◯◯ですが」
「え!先生!うちの子、なにかしましたか!」
「いや、ゴミ捨て行かなかったんです」
「はぁ?そんなことで」
で、本人が出てきます。
「こら!今日ゴミ捨て行かへんやったやろ!今すぐ学校にもどってゴミ捨ててこい!」
「先生、かんにんしてぇな」
「ほな、明日朝一番やで。チェックするしな」
「わかったし。ごめん」
「ほなな」
一方、校区内に住んでいたので、たまには生徒を家に呼びつけます。
「こら!お前、なんでホームルームさぼんねん」
「先生、ごめん」
「お前な。オレがどういう思いでホームルームやってるか、わかってるやろ*3」
「わかってる」
「もうな、はがいいんや!」
と平手打ちをします。ところがはずされてしまいます。で、もう一発。
そこからは、ふたりとも涙でぐちゃぐちゃです。
「すまん。つい手ぇ出してしもた。すまんかった」
「ううん。ええの、先生(涙)」
「ええか、もうホームルームさぼるなよ(涙)」
次の日の朝、学校で顔をあわせたら恥ずかしいのなんのって。ふたりして学園ドラマやってましたから。
「き、きのうはどうも」
「どうも」
みたいな。
まぁそんなことをやりながら、夏休みに突入していきます。
(続く)
92年度卒業生の思い出・その2
なんしか難しい…
去年、突然「呼ぼうと思ってるねん」と言われた高座が今日ありました。もちろん、夜の部です(笑)。
にしても、今日はさすがに緊張します。というのは、ひとつは知っている人が聞きに来られる可能性が大ということ。もうひとつは、仕事帰りの人たちが来られる*1ということ。
前者の方は、それでもなんとかなるとして、後者の方々に笑っていただくためには、それ相応の力量が必要とされます。
で、結論的には…。
「ここはスケートリンクかい!」というほど滑りまくりました*2。
終わったあとで「よかったよ」「おもしろかったよ」と言ってくださる方もおられたのですが、やはり「手応え」というものが…。
まぁそれでも「にやり」「にこり」という人もおられたので、よしとしなくちゃなりませんよね。
なんしか、完敗ですわorz
92年度卒業生の思い出
おとといのコメントに触発されて、「あの頃」のことを少し…。
わたしがはじめて担任を持ったのが、「92年度卒業生」のみんなでした。
それまで新採から4年間、担任を持てなかったんですよね。まぁ、諸事情いろいろあったんだけど、念願かなってようやく持てた担任でした。こんな頃ね(笑)。
このときの担任団はすごかった。
それまでは、「校長様」の「お覚えのいいお方」のみを担任にしていたのに、突然「やけくそか?」とみんなで顔を見あわせるほど自由奔放な人ばかりで構成された学年団でした。まぁ、後から考えてみると、そんな人間にしか担任できない子どもたちだったという話もチラホラありますが(笑)。なにせそれまでは、まぁ「ええ子」が多かったんだけど、この学年、中学校時代に番をはってたとか、高校になってから暴走族とつきあっていきなりデビューしたとか、けっこう元気な子がいましたから。
でも、なんだかんだ言って、89年ですから。まだポケベルもなかった時代ですから。のどかなもんでした。
今でも覚えているのが、はじめての同和学習の時間。同和部から「各担任が自分の思いを2時間語れ。以上」という教案(笑)が出され、みんな「何を語るねん」ととまどいながらも、これから3年間の同和学習への思いをみんなで必死で語りあいました。
ある担任は、得意のギターを持ち出して「手紙」を歌う。ある担任は、自分の見合いの時、親が興信所を使ったことを語る。わたしはというと、それまでの4年間たまりにたまった自分の思いを語ったような気がします。
そうそう。ウチの学校ではやっていなかった「全戸家庭訪問」もやりました。
ウチの学校では、夏休みは保護者を学校に呼んで三者面談をします。でも、それではおもしろくない。なので、どれだけ「迷惑や」と言われようと、みんなの家をまわりました。すると、いろんなことがわかってきます。家の中でのその子の立ち位置や、親との関係。家の中の雰囲気。そんなことはもちろん、その子が育ってきた背後にある「地域」なんかに触れることもすごく楽しかったし、必要な情報だったなぁと思います。ですから、夏を過ぎると、ある子どものことを考える時、家のたたずまいや家のまわりの風景、そんなものがトータルで頭の中に思い出されるようになりました。
一方、ある在日朝鮮人の子どもの「わたし一人でなくてよかった」という言葉と出会ったのもこの年でした。その言葉をきっかけに、在日朝鮮人の子どもたちが集まるクラブをつくりました。ムラの中で学習会を本格的にはじめたのもこの年でした。そして、その学習会に集まった子どもたちのうち3人ほどを「全国奨学生集会@水上温泉」に連れて行きました。一人は、わたしのクラスにいた「中学校時代に番をはっていた」ヤツ。なんでも、「木津川河川敷の決闘」という、ごく一部では有名なことを中学校時代にやっていたそうな。
家庭訪問にしろ、クラブにしろ、学習会にしろ、全奨にしろ、そういう場所で出会う子どもたちは、学校の普段の姿とは全然違います。そういう子どもたちの姿との出会いが、わたしを育ててくれたような気がします。
一方、わたしがスキーにのめり込んでしまったのもこの年。
たまたまいつも行っているスキースクールから「今年はスタッフで来い」と言われ、「タダでスキーができて、もっとうまくなれるな」とスケベ心を出したのが運の尽きでした。結局、シーズンの最後には資格もとることになってしまいます。まぁそこまでスキーに行くとどうなるか…。次の年、思いもよらないことが起こるのですが、それはまた…。
激しい日の翌日は
朝、とてもではないけど「爽快」とはいかない目覚め。でも、いい天気です。てことで、午前中は、ちょっとおでかけ。
帰りにビールを買って、「休日の昼のビール」を楽しむことにしましょう。
昼からはパートナーは下の子どもを連れておでかけ。家にいるのは上の子どもとわたしだけ。まぁお互いに好きなことをやっていればいいわけで、ダラダラと新聞を読んで、ダラダラと本を読んで、布団にもぐり込むと寝てしまいました。あぁ、昼寝…。なんという贅沢(笑)。
ここで体力を回復しないと、来週が持たないしな…。
私には「◯◯」がいた/いなかった
今日は、在日外国人教育関係の某セミナー&祝う会。
「「私には浅田先生がいた」をめぐって」というテーマの講演です。
ん〜…。すごくよかったです。
ただ、ものすごく考えさせられたことも、また確かです。
はたして、「わたしには◯◯先生がいた」と、わたしに言えるのだろうか。もちろん、わたしに大きな影響を与えてくれた先生は少なからずいました。でもやっぱり、高校時代、自分自身のことについて「わたしには◯◯先生がいた」ということが言える先生はいなかった。
それは裏返してみると、私が「私」という徴を持ってはいなかった、あるいはその徴をかたくなに出していなかったからでしょうね。そういう意味では、わたしは「◯◯先生」を拒否していたとも言えなくもないかもしれません。
でもその後、「わたしには◯◯さんがいた」と言えるたくさんの「◯◯さん」と、わたしは出会ってきました。その出会いこそが、わたしにとってものすごく大切なものなんですよね。
そういえば、康玲子さんもあとがきの中で「もしもその後たくさんの人と出会っていなかったら、「わたしには浅田先生しかいなかった」というタイトルになっていただろう」みたいなことが書いてありました。そうなんだろうなぁ…。
それと、わたしは子どもたちにとって「浅田先生」たり得ているかどうか。まぁ、本を読むと、まさに「あの頃の学校」における「あの頃の教員」と「あの頃の生徒」の話であって、とてもではないけど、今の話には置き換わらないです。それでも、時代を越えて共通することがあることもまた確かです。そういう意味で、わたしは、「今」の浅田先生たり得ているかどうか。厳しく問われるなぁ。でも、「浅田先生には康玲子がいた」のであって、そういう生徒ときちんと出会うことが、たぶんわたしをまた勇気づけ育ててくれるんだろうなぁ。
にしても、康さんって、文章うまいわ…。