最近、謀議続きです(笑)。まぁ、今回の謀議の内容は、そのうち明らかになるし、それよりもなによりも、「明るい謀議*1」なんで、まぁいいか、と。
で、いろいろ話をしたんだけど、なんとなく自分の問題意識が少しすっきりしたかなぁ、と。
わたしは前から「特例法の本丸は非婚要件」と思っていて、そこに「共闘の可能性」があると考えていたんですよね。その延長なんだけど、「トランス」という作業が仮に(笑)「性別のありよう」を揺るがすものだとすると、それを「ペアリング」という側面から揺るがすものが「同性愛」なのかなぁ、と。逆に、「同性愛」が「ペアリング」を揺るがすものであれば、「トランス」も「性別のありよう」を揺るがすことを通して、「ペアリング」を揺るがす可能性を持つんじゃないかなぁ、と。
まぁ、こんなこと「今頃気づいたの?」と言われそうだけど、自分で気づくことが大切なんだろうなと思うわけですよ。
結局、互いに自分の内にある「優位性」と「劣位性*2」みたいなものを出しあわないといけないなぁ、と。少なくとも、わたしは「男性」として生まれ、育てられたことによって、「いま」があるわけです。それがよかったか悪かったかということを抜きにして、それは認めざるをえない。で、「わたし」の「いま」を考えた時、きっとこの社会の中で「男性を優位とする」ところに乗っかって生きてくることができたわけで、だから「いまのわたし」がある。だから、それを認めなくちゃならないし、その資源を使っていかなきゃならないんだと思うのです。
大切なのは、じゃぁ、「優位性だけ?」というと、そうじゃないというところ。そして「劣位性だけ?」というと、これまたそうじゃないというところ。そういうことをひとつひとつ検証しながら、互いに差し出しあう中で、「共闘の可能性*3」が出てくるということ。
まぁ、こんなこと「今頃気づいたの?」と言われそうだけど、自分で気づくことが大切なんだろうなと思うわけですよ。
いろんな当事者の講演を聞きながら、「涙が出てくる瞬間」って、何度も経験しています。でも、いつもどこか自分の中に「冷めた」ところがあることに気づいていたんです。「これってなんだろう」「自分って、すごく冷たい人間かな」とずっと思っていました。でも、そのことがあったからこそ、わたしは「ウケ」を常に意識しながらしゃべるようになりました。
これ、「関西人だから」と処理されがちなんだけど、もしかしたら違うのかも。もしかしたら、それって「共感」のあり方なのかもしれないと思ったんです。
そう考えた時、「涙」による共感は「他者への共感」なんじゃないかなぁ。簡単に言うと「あぁ、かわいそうな人がいる」みたいな。それに対して「笑い」による共感は「自分への共感」なんじゃないかなぁ。簡単に言うと「あぁ、あるあるある!」みたいな。
ま、ただそれだけのことなんですけどね。でも、わたしは「高座」をするとき、「わたしのことを理解してほしいなんてこれっぽっちも思っていない」んです。じゃなくて、「心の相似形」を探るための「ネタ」を提供しているつもりなんです。で、「あるあるある!」となった時、その人がその人自身を見つめる手がかりが出てくる。その作業と、わたしがやってきた/いる作業は同じなんですよね。そういう共感を探りたい。