やっぱりここからかな

たぶん、今日はいろんな新聞もあちこちのblogも「震災」の話で持ちきりなんだろうなぁ。なので、わたしも(笑)。
今日は1時間目、1年生の授業。「語ろう」と決めたわたしとしては、今日も語ります。

今日から11年前、君たちはたぶん5才?6才?あの日のことをあまり覚えていないと思うけど…*1
あのときわたしが住んでいた家は、すごく古い家で土間があったんやわ。で、明け方にパートナーが土間を誰かが飛び跳ねる音を聞いたそうな。で、「だれか来たのかな」と思った次の瞬間、ドドーンというものすごい縦揺れと、その次にものすごい横揺れが来た。当時私たちは本箱のある部屋で、上の子ども*2と3人で川の字で寝ていました。パートナーはとっさに子どもに覆い被さった。わたしはとっさにストーブがつきっぱなしだったのを見て、すぐに消しました。なにせ、上に洗濯物が干してあったからね。
すごく長い揺れのあと、だんだんと揺れが収まっていった。でも、とてもじゃないけど寝る気が起こらないので、テレビで地震情報を見ることにしました。アナウンサーは「街は平穏です」と言っていました。やがて、一度余震が来ました。かなりびびったけど、すぐに収まりました。やがてアナウンサーは「街に一筋の煙が見えます」と言いました。まぁ、地震には火事がつきものなので、「ふぅん」くらいにしか思っていませんでした。まさかその一筋の煙があの大惨事のはじまりだとは、その時は思いませんでした。
やがて出勤。行く道すがらのラジオで、だんだんと被害が広がり始めていることが伝えられました。そして、授業から職員室に帰ってくるたびに、死者の数がどんどん増えていきました。
17日の次の日曜日、わたしは某青少年育成団体*3からの誘いで西宮にボランティアに行くことにしました。西宮の街を歩くと、あちこちに電柱や隣の家にもたれかかった家がありました。中には、逆さまになっている家もあったし、火事の跡もありました。そんな中、平然と立っている高層マンションの姿は、なんとも言えない風景でした。わたしはその日、赤十字の毛布をかついであちこちの避難所に持っていきました。その団体では、三宮でもボランティアをしている人がいました。なんでも、京都に「線香を差し入れてほしい」という要請があったそうです。死者を弔うためだと思っていたのですが、違いました。遺体安置所にどんどん運ばれてくる遺体が火葬場に持って行ききれず腐敗をしはじめたので、その臭い消しだということでした。
西宮の町中を黒塗りで赤色回転灯をつけた車列がしずしずと動いています。頭上にはヘリコプターがひっきりなしに飛んでいます。ヘリコプターは、震災のあった場所に行くときは救援物資を罪、帰りには近隣の街に遺体を運んでいるとのことでした。それほどまでに、被害は大きかった。
やがて、震災の被害が特定の場所に固まっていることが明らかになりました。消防車が現場に着いたけど、消火栓までホースが届かず、目の前で燃えさかる炎をどうすることもできなかった話。近くまでいったけど、消防車が入れなかった話。その場所は、部落であり、在日朝鮮人の集住地域であり、在日外国人の集住地域であったことがわかりました。また、断層の上に立っていた家も、「しんどい人たち」のものであったことも伝えられてきました。
たしかに、天災は平等にやってきた。でも、災害は差別的だったということがわかりました。

もしかしたら、君たちはこれからも1月17日についてあちこちで話を聞くかもしれない。でも、災害は差別的だったということまで聞くかどうか…。でも、そのことをどうか覚えておいてほしいと思います。

じゃぁ、確認テストね。5分後に開始します。

*1:「オレ寝ててぜんぜん覚えてへんかったんや」という私語あり(笑)

*2:下の子どもは産まれていない

*3:キリスト教系ね(笑)

やっぱりここからかな” に1件のコメントがあります

  1. 当時西宮にいらしてくださっていたんですね。ありがとうございます。(_ _) 本当に感謝の言葉もありません。私の友人も元気でしたが、家は全壊でした。多くの方々に助けて頂いた西宮。私にとって、あのご恩は一生忘れられない事。本当にありがとうございます。

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