京都の部落史連続講座(第4回)

今回のテーマは「伊東茂光と崇仁小の教員たち」というテーマ。前回に引き続いて、「個人」という観点から部落史というか、部落解放史をみつめてみようという試みです。今回の講師は八箇さんというかた。河合塾の教育文化研究所だったっけ。なんかそういうところで研究・実践をしておられるようです。ふぅむ、きちんとした予備校はやっぱり違うなぁと。ま、それはおいといて…。
崇仁小学校って、崇仁教育で有名ということです。で、もちろん戦前のことですから「融和教育」なんですけど、いわゆる「融和教育」という言葉から連想されるものとはまったく違うもののようです。つまり一般的には「融和」というものはその名からわかるように、「部落と非部落の垣根をなくして仲良くしましょう」という感じです。ところが、崇仁教育のめざしたしたものは「奥歯をギリギリとかみしめながら『糞ッ』」みたいな感じだったみたいです。他にも、ものすごく「鍛錬」をいう感じのことがあった。
一方、部落外の人々に部落の持つ文化*1をさらけだして、「お前ら、部落のことを知らないのに、部落を差別しているやろう」とアピールする。この典型が「すき焼きの会*2」で、簡単に言うとホルモンのすき焼きを学校を訪れてきた人たちに食べさせていたそうです。まぁ、他にもいろいろおもしろいことをやっていたそうな…。
では、なぜ崇仁小学校ではこのようなことができたのか。
これは、ムラの子の在籍率の問題と絡まっているんじゃないかと思うんです。在籍率の極めて高いところでは、部落問題を、「自らの被差別の問題」ととらえて教育活動をすることができる。これは大きなメリットですよね。ブレがない。でもね、在籍率が高ければ、ムラの子がマジョリティなわけで、そんな社会って実は虚構だと思うんですけどね。たしかに、ムラの子は元気になりますけど。
ところが、在籍率の低いところでは、「関係の問題」ととらえないと活動ができない。「関係の問題」ってブレだらけだし、きわめて難しい。でも、この方が現実的だとは思うんですよね。
振り返ってみると、現在でもムラの子の在籍率の高いところでとりくまれている実践って、「まぁあそこやし…」みたいな感じですわ。だから、高校での実践例ってとっても少ないです。
まぁ、それはおいときます。
でも、伊東茂光はひとりでこんなことができたんじゃないって八箇さんはおっしゃいます。伊東のまわりには、伊東の人柄を慕って、あるいは伊東のやろうとしていることを慕ってたくさんの人たちが来た。その人たちが「適材適所」に自らをおくことで、その力は何倍にもなったということなんです。伊東も、崇仁小学校の教員を信頼していたんでしょうね。ほとんどまかせていたそうな。
でも、そんな伊東の「思想」っていうのを読み解くのはとても難しいようです。戦争の問題や天皇をめぐる問題、さらには天皇の戦争責任の問題をめぐって、伊東の思想の評価はさまざまにわかれているそうです。なるほど、伊東茂光の交友範囲は水平社左派から軍部までものすごい広がりを持っています。こんなもん、そう簡単に評価はできませんわな。
でも、講演のあと、崇仁小学校出身の方からこんな発言がありました。「伊東先生の思想はそんなに難しくない。単に『清濁併せ飲む』なんです」。いや、これも一言で言うと語弊があるんじゃないかとは思うのですが、でも、これもまた大切な指摘かなぁと思いました。
わたしが受講した3回。とてもおもしろかったし、「いま」につながる話もたくさんあったなぁと。来年もやるらしいです。楽しみ…。
てなことで、『京都の部落史』近代1・2・3を買ってしまいました。

ところでさ、伊東にしろ前回の喜田にしろ、パートナーさんはすごくたいへんだったそうな…。そのあたりほりさげると、これまた「いま」生きている「わたし」とメチャクチャつながりそうなんですけど(爆)

*1:これはサラッとこういってしまうと語弊があるんだけど…

*2:なんでも正式名称は「金玉会」だったそうな

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