この日記を見ていただいている方、けっこう放送担当(放送部顧問)をしておられる方、多いんですね。他にも、オーディオマニアの方もおられるみたいですし。
いや、スピーカーの数を増やしたいというのは、前々から事務長に言っているのですが、なかなか予算がつかないみたいで、実現できません。
ウチの学校、創立当初は古墳の上にできた学校で、まわりに人なんて住んでいませんでした。私が赴任した頃も、学校の前に数軒あったくらいでした。ところが、ここ数年ものすごい勢いで宅地造成がされて、学校のまわりにどんどん家ができはじめました。すると、「こっち方向には家がないな」ということで設置されていたスピーカーの方向に、どんどん家が建ってくるわけです。すると、「放送、五月蠅い」「チャイム、五月蠅い」ということになるわけですね。そんなん、学校のまわりに住んだらうるさいのなんてわかりきった話なのに。しかも、あとから学校ができたんじゃなくて、先にあったんだからねぇ。でも、まぁ「住民感情」というのは、そうゆうもんなんでしょうね。
年: 2005年
体育祭の前日
で、あしたは体育祭。6時間目は「予行」ということで、集合の練習とか「◯◯*1体操」の練習とかがありました。かつては、「入場行進」の練習なんかもあったのですが、ここ数年は入場行進自体をやめたので、これはなくなりました*2。
もちろんわたしは放送担当。これがしんどいんですね。なにせ、古い学校です。グラウンドについているトランペットスピーカーなんざ、創立当初からあるものです。しかも、グラウンドについているわけですから、太陽の光と風雨にさらされ続けているわけです。ガタが来ない方がおかしいです。なので、ここ数年鳴っているところを見たことがありません(笑)。
てことで、非常用のスピーカーの設置とかなんかも必要になったりして、そうなると音量調整のためにグラウンドを歩きまわる必要が出てくるわけで、まぁ、ちょうどいい散歩という感じですか。
さて、あしたは朝が早いし、早く帰ろう。
やはり、材料が少なすぎる
「のど仏を削りたい」という気持ちと、「それでいいんだろうか」という気持ちの間を揺れていて、しかもそこに「リスク」を考えなくちゃならない。かな〜り考え込んでいたのですが、結局次の一歩を決めました。
まずは、もう少し材料を集めようということです。
この間「けて〜い」と書いた時は、「やりたいやりたいやりたい!」という気持ちだったので、「とにかく早く」ということだったけど、いまはもう少し落ちついているので、「やらない」ことや、やるとしても「いつやるか」ということも含めて医者からいろいろ話を聞こうと思っています。まぁ、そのあたりについては、ここに書いておきました。
しゅじゅちゅ…。
この間、それなりに結論を出したにもかかわらず、やっぱり気持ちは揺らいでいます。やりたいものはやりたい…。そこに間違いはないです。ふぅむ…。
体調最悪…
寒くなってきました。特に朝は…。6時過ぎに起きているし、しかも京都市北部なもんで、かなり寒いです。しかも、昨日の今日。あきません…。よほど1時間年休を取ろうかと思ったのですが、とりあえず学校に行くことにはしました。
パートナーからは「あんた、お酒弱くなったって言ってるのに呑んだん?」と聞かれたんで、「うん、呑まされた」と言い訳をしました。すると「ほな、口を無理矢理開けさせられて流し込まれたんか?」「いや、そんなことはないけど…」。まぁ、最終的には呑んだのはわたしです。たしかに。でも、注がれたら…。まぁ、自業自得です。ハイ。
で、天王寺へ
夕方から、どういうわけか天王寺での飲み会に参加という予定。でも、新今宮について少し時間があったので、せっかくなので新世界あたりをぶらついてみることにしました。雨上がりの通天閣はなかなかの景色でした。その前に続く新世界、そして裏通りに入ったジャンジャン横町。大阪ミナミを満喫しました。もちろん、タチ立ち呑みで日本酒+ドテ焼きもチェック。そうか、こういう味なのか…。
その後、天王寺へ。実は、解放大学の受講生の方々の飲み会で、受講生にからみにいったのですが、甘かったです。すでに約1時間呑んだ後で、テンションがとんでもなく高い。着いたらいきなり「いつき〜!」と叫ばれて、逆にからまれてしまいました(笑)。でも、そんなテンションの中でも講座の話なんかはけっこう真剣にされます。いろんな感想なんかを聞きながら、かな〜り勉強になりました。とはいえ、企業の方のテンションの高さはすごいですね…。
8時過ぎに終了した後、2次会のカラオケ。途中「阪神が優勝したら半額」という店を見つけたのですが、まだ優勝してないので半額になりませんでした。あたりまえやけど。たぶん、来週「半額やろ〜!」とか言いながら行かはるんやろうなぁ。
てなことで、今日も帰りは京阪の最終でした。身体がもたん…。
阪南市ヒューマンライツセミナー2005
1時間目の授業をサクッとやって、電車に飛び乗って阪南市へ。
はじめて人権啓発課の課長さんと話をしたのですが、豪快な人でした。まぁ、「やぐら*1の街ですから。そう言えば、すでに町中は祭一色という感じでした。
会場に来られたのは100人弱。ただ、ほとんどの方は役所関係のようです。それでも、ひとつの課から数人来られているらしいので、「今日の昼から仕事まわってんのかなぁ?」といらない心配をしたりしていました。
話の方は…。やはり、大阪・泉州のレベルは高いです。「あかんですね、滑ってますね」というところしか笑いがとれません(涙)。でも、かつて姐さんからいただいた「いつきさん、あなたね、あなたの話を聞いて涙を流す人が出てきたらおしまいと思いなさいよ」との言葉を胸に、ひたすらがんばりました。途中、部落や在日の子どもの姿を話している時に、ふと空気がかわり、そこからうなずいてくださる方が増えたのは「さすがだなぁ」と思いました。
話が終わった後、喫茶店で話。「いや、レベルが高かったです」といったら、笑っておられました。ここのヒューマンライツセミナー、いろいろな人を今までに呼んでおられるみたいです。で、そのラインナップを聞くと、「こらぁ、えらいところでしゃべってたんやなぁ」と納得しました。まだまだ修行が足りません(笑)。
てなまじめな話のあとで恐縮ですが…
朝、ちょっと窮屈なブラしかなかったんです。なにが窮屈かというと、アンダーがあわないんですね。すると、カップの位置があわない。内側すぎるんです(涙)。でも、しゃーないのでつけました。それしかないし…。で、そこでふと思いついて、ちょっと外側の肉を寄せ見てみました。すると、あら不思議。谷間ができた。そっかぁ、これがそのシステムかぁ。
たいへん勉強になりました。
で、学校に行くと、生徒が自分の胸を指さして「今日は、ちょっとおっきいね」と、目で合図をしてくれました。わはは。
躊躇?
山をやる人たちの間に、「登る勇気」と「引き返す勇気」みたいな言葉があるそうな。目の前にピークがあって、そのピークをめざすために、ありとあらゆる困難を乗り越えてきた。でも、天候が悪化してきた。その時、どうするか。みたいな話です。
まぁ、比叡山くらいだったら、サルにかまれる程度ですむのかもしれないけど、それがヒマラヤあたりになってくると、その判断が命と関係してくる。
で、この間「のど仏」の手術について、(樹)さんをはじめ、何人かの方から貴重なアドバイスをもらいました。あるいは、「のど仏」に限らずSRSも含めてアドバイスをして下さった方々もおられました。
その人たちの言葉が、今日、次々と思い出されました。
まずは早急に考えなくちゃならないのが「のど毛」の手術です。
考えなくちゃならないのが、そのリスクと効果、そしてその結果が自分にもたらす満足度です。
- リスク
おそらくほとんどが成功しているだろうけど、数少ない「想定内の失敗」がある。その代償は「声」。いずれにしろ豊富な症例数の中で検討をしたか。
- 効果
パスしやすくなる(笑)。というか、自分のボディイメージの中の大切なようそのうちのひとつである「のどの線」が実現される。
- 満足度
「声」を失って「のどの線」が得られた時、自分はどう感じるだろうか?わたしにとってはいまのままで「声」に対する満足度はそれなりに高い*1。となると、どうなるだろうか…。
ふむ。
こういうことを考えながら、ふと気づいたこと。はたして自分はこうしたことをじっくりと見つめてきただろうか。もしかして「焦り」はなかっただろうか。おそらく、いままで比較的順調に「ホルモン」や「改名」といった作業は進んできました。そしていま、目の前にSRSすらぶら下がっています。そんな「おいしい(笑)」状態の中で、でも、もしかしたら「ベルトコンベア」に自ら乗っていなかっただろうかと考えました。そして、そもそも自分のスタンスがぶれていないのだろうかとも。「のど仏」の手術はしたい。もちろんSRSだってしたい。でも、「したい」ことと「する」ことはちがう。そのことと、自分の生き方を照らし合わして、充分な検討をしてきただろうか。「ちんこねぇさん」「まんこにぃさん」はありというのが、基本的なスタンスのはずでした。SRSしてお風呂に入るのではなく*2、一緒に入ってくれる友達をつくっていく(笑)というのが、自分のスタンスのはずでした。その原点を見失っていなかったか。
こんなことを考えながら、「はやる自分」「あせる自分」を押さえて、少し立ち止まってみようかという気になりました。いままでは「まわりが反対する」ことで「立ち止まって振り返る」余裕がつくられてきました。いま、「すべてが許される」時、その余裕を自分自身がつくりだす必要があります。
夜、ある友だちから「のど仏の手術の日程、いつだっけ?」という電話がかかってきました。「いま、どうしようか考えている」と答えました。すると「躊躇する理由はなに?」と聞かれました。
たしかに「躊躇」に聞こえるかもしれない。でも、これは「躊躇」ではないと思います。おそらくは「選択」。どの道を進んでいくのかという選択。迷いが出てきた時にどうするかという選択。それを忘れていたなぁと思いました。
そして、なにより、こういうことを気づかせてくれたたくさんの人に感謝しなくちゃと思いました。「苦言」を呈するのはとてもイヤなことだと思います。でも、それをあえて言ってくれる人が、わたしのまわりに確実にいるということ。本当に幸せだと思いました。みなさん、ありがとうございます。
さて、しばらく考えて、次の一歩を踏み出すことにしようかな。
強制執行阻止緊急集会
京都府宇治市にウトロという在日朝鮮人集住地域があります。もともとは、戦時中の京都南飛行場の建設のために集められた朝鮮人の飯場でした。日本の敗戦(朝鮮の解放)のあと、ここで飛行場建設をしていた日本人達*1はそこからとっとと逃げていったのですが、さまざまな事情で本国に帰らなかった朝鮮人達は、そこで生活を続けました。
ところが、ウトロの土地は、その上にすむ人たちの意志とは関係なく、日産車体に譲り渡されていました。ここが、おそらくウトロ土地問題の原点となるところです。
その後、ウトロに人たちは、まわりの日本人からの差別とそれによる貧困の中で、それでもたくましくしたたかに生活をしてこられました*2。
ウトロの問題が「日本人の問題」として認識されるようになった最初の出来事は、おそらく「水道問題」だったのではないかと思います。1980年代後半、周囲では上水道がひかれるのが当たり前のご時世に、ウトロには水道管が入っていませんでした。そのため、宇治・久御山という工業地帯であるにもかかわらず、ウトロの人たちは井戸水で生活をしていました。もちろん、水質調査をしたら「飲料に適さない」と出てきます。「ウトロに水道を!」というウトロに人たちの声に呼応する形で、「ウトロ地区に水道敷設を要望する市民の会」というのができました。
と、ここまで書いて、こりゃぁ、長くなるなということで、あとは詳しくは、ウトロのサイトをご覧下さい。ウトロって何?とか年表なんかもあります。
で、わたしとウトロとのつきあいはかれこれ13年になりますか。チャンゴを教えてくれたのもウトロ、焼肉の楽しさを教えてくれたのもウトロ、朝鮮人の多様さを教えてくれたのもウトロ。まぁ、いろんなことを教えてもらってきました。
で、いまそのウトロがたいへんなことになっているわけです。
で、集会に行ってきた*3わけですが、いや、したたかですわ。「強制執行は中止になったけど、うれしい反面、実はちょっと残念」「強制執行になったらニュースになる」などという発言が町内会の実質トップからでてくるという…。まぁ、かつて300人の焼肉をする時に、まわりは「雨が降るか、かろうじて持つか」という天気にビビっていたにもかかわらず、この人「土方は天気には勝てん」と、一人悠然とタバコを吸っていたという人ですから。
しかし、転売につぐ転売。しかも、あとになればなるほど状況が悪化していくという…。
なんとも言えない、口惜しさというか無念さというか…、そういう思いがこみあげてきました。それでも、オモニやハルモニ達は元気だったし、日本全国どころか、韓国からも駆けつけてきた支援の輪の広がりが救いだったかなぁ。
決戦は11月に持ち越しということです。
ウトロお礼と報告
昨日25日は「強制執行阻止緊急集会」に多くのみなさまが
お集まりいただきありがとうございました。
今回の強制執行が中止となったことで、ウトロのハルモニに
少しではありますが、安堵の表情が見えたことがなによりでした。
とはいえ、11月以降はシビアな状況が続きます。
昨日にも増して多くのみなさまがウトロに注目し、ことあれば
ウトロに駆けつけていただける体制をとっていただきますよう
重ねてお願いいたします。
本日も早朝より町内会会長、副会長とKINの蠔芝遠さんが
東京の韓国大使館に出向きました。守る会とKINの2人の
メンバーは宇治市役所に現地調査を要求する韓国国会議員の
要望書を届ける予定です。
強制執行を避けるための最大限の努力を続けています。
今後とも支援の輪を一層広げていただきますようお願いいたし
ます。
最後に昨日の新聞報道記事NET版京都新聞のアドレスを
貼り付けます。(携帯の方はPCで見てください)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2005092600029&genre=C4&area=K20