パソコンの近況

ずっとしょっちゅう落ちまくっていたパソコン。MOをはずし、SCSIカードをはずしたのですが、全然効果なし。しゃーないので、8月はじめに寺町に行ってマザーボード交換の段取りをつけました。
ところが、今使っているマザーボードはsocket A。今日日のマザーボードと根本的に違うようです。何より違うのが、供給されている電源のようです。てことは、電源まで交換か?〆て…。お金がない…。
それでも「買おう!」と決心をしながら、久々にバイク屋によって近況報告。ついでにパソコンの話になりました。バイク屋おやっさん曰く「いまは買い時じゃない」。そら、生鮮家電だからいつだって買い時じゃないとは思いますが…。「ちゃうねん。いまは規格がころころ変わっている時だから、今買ったマザーボードは生存期間が短いで」。そういうことでしたか。
でも、動かないものはしゃーないです。通販で、今と同じマザーボードを探そうと思いながら、家に帰りました。
で、最後にもう一度試してみようと…。

  1. まずは、マザーボードから一度電源コネクタをぬく。
  2. 次に、ATAのコネクタもぬく。
  3. 「フッ」と息を吹きかけて(笑)、ふたたびさす。

で、スイッチオン!
普通に動きました。あとは、まったく落ちていません。
はたして、息を吹きかけたのがよかったのか、はたまた「このままじゃおシャカにされてしまう」と思ったマザーボードが気合いを見せたのか…。なんしか、よかったよかった。

恥ずかしいものつくっちまった…

本棚を見ていると、卒業アルバムがずらり。考えてみると、自分の人生の半分をこの職場で過ごしているわけですから、自分の人生の半分分の写真が、少なくとも1枚は一冊一冊の中にあるわけです。てことは、自分の変化の時系列があるはず…。
てことで、わたしのアルバムをつくってしまいました。あまりにもはずかしいので、直リンはしません。ここから行って下さいね。

なので、雑務

夏休みがはじまって、昨日までに学校で仕事ができた日が3日という、過去に経験のない出ずっぱりの日々も、とりあえず終わりました。で、3日しか学校で仕事をしなかったということは、残りの20日以上の雑務がたまっているということです。いったい何から手をつけたらいいんだろう…。
幸い、長期休業中は雑務が少ない期間なので、数日あったらなんとかなるかという程度でした。
まずは、30日にある人権教育研修会のレジュメの印刷。
先日講師の方がレジュメを送ってこられたのですが、それを見てびっくり。A3じゃん!しかも縮小コピーしたらウチの学校の教職員、読めなくなる人続出(笑)くらいの大きさの文字じゃん!う〜んとしばらくうなったあと、A4で11枚の印刷→紙取り→ホッチングに突入しました。まぁ、やればやったで2時間程度で終わる仕事なんですけどね。
午後からは、某グループの名簿の整理。これがまたややこしいです。参加履歴も考えなくちゃならないし、住所変更もある。思わず「ええかげんにせい!」といって投げたくなったのですが、投げても明るい明日は来ません。てか、投げると事態はよけい悪化するので、大人になりました(笑)。

とりあえず、一段落ついて外を見たら夕暮れ時です。時計を見ると6時半頃。陽が落ちるのも早くなりました。もうすぐ秋なんだなぁ…。

学校公開

眠い目をこすりながらも6時起き。いつものようにお弁当をつめて、7時過ぎには出発。なにせ、今日は学校公開です。この手の行事、とうぜん放送が必要です。なので、行かなくちゃならないです。
ここ数年、「生徒に選ばれる学校に」ということで、どこの学校もオープンキャンパスをしています。しかし、なんだかなぁと思うのですが。今日日京都の学校も塾にランクづけをされていて、そのランクに従って入試を受けてきます。まぁ、そういうふうになってまだ数年ですから、イレギュラーなことも多々ありますが、それでも、そうそう大きくはずれるわけではないです。
でも、今年の学校公開は少しよかったかもしれないです。いままでは、本当に教員が延々と話をするだけという、なんの芸もない内容だったのですが、今年はクラブ員が自分のクラブのアピールをするなど、少しは生徒が前に出る内容でした。実はこういうのが大切なんじゃないかなと思うのですが…。
で、半日そういうことをやっておしまい。あとは、たまりにたまった雑務を前にして、呆然としてのこりの半日が終わりました(笑)。

全国在日外国人教育研究集会神奈川大会・第2日目

今日は一日分科会の日です。でも、わたしは本売り。てか、実は分科会に出るのが、年々めんどくさくなっているんですよね。
かつては、分科会に参加して「あーだ」「こーだ」と言って、帰りの電車でも「あーだ」「こーだ」と言っていたのですが、最近は、なぜか血が騒がないんですよね(笑)。で、本を売ったり、知りあいが通ったら話をしたり*1するほうが性にあっている気がします。
ところで、本を売っていると「土地柄」というのがよくわかります。
関西では、集会中、常に人の往来があるし、あちこちで話をしている姿が見られます。ところが、関西以外では、休憩時間しか人が通らない。それ以外の時はものすごくヒマです。これは、分科会だけじゃなくて、全体会でも同様です。
おそらく、一般的には、集会とは「集会に参加する」ために行くのですが、関西でやると「集会に集まっている人に会いに行く」という感覚を持つ人がたくさん参加するのではないかという気がします。そういえば、この3月のG研の時なんか、ロビーにほとんど人がいなくて、わたしを含め数人のみがダラダラとしゃべっていたっけ(笑)。
そんなこんなで、無事一日が終わり、本も片づけて、後は帰るだけ。もともとの計画では、本を積んで車で帰ることになっていたのですが、幸いお友だちが本を載せて帰ってくれるということで、新幹線で帰れることになりました。あ〜、助かった…。
とにかく、これで宿泊をともなう移動はようやくおしまいです。

*1:というか、知りあいを待ち伏せして本を押しつける(笑)。

カムアウトのもうひとつの観点

自分の考えをまとめたり発展させるために、人と話をすることが有効なことが、わたしの場合はチョコチョコあります。
昨日の生徒交流会のことを話している最中に、ふと考えたことがありました。それは、「日本人からのカムアウト」ということです。
従来、どうしても当事者*1に対して、そうではない生徒*2は差別問題にかかわる時「随伴者的存在」あるいは、「支える人」というふうにしかとらえられてきませんでした*3。そうした、「マス」としてしかとらえられない「非当事者」というとらえかたはおかしいだろうと、先行研究などに触れながらずっと考えてきました。そのことに、昨日の「日本人交流会」がひとつのヒントを与えてくれたような気がしました。
つまり、「君のことを知っている」というカムアウトは「あり」だろう、ということです。いや、「なにをいまさら」という話なんですけど、これも「君との関係を変えていきたい」ということに他ならない態度表明なわけです。まさに、全朝教が「本名を呼び名のる」としてきた、それそのものです。そうなんだよなぁ…。まさに、原点だ!

*1:部落や在日外国人の生徒

*2:日本におけるWASP(笑)すなわち、「日本人」「男性」「部落外」ついでに「階層としてプチブルまたはブルジョア」かな?

*3:このあたりは、すでに先行研究があります。ね?こちゅかる子さん(笑)

夜は交流会

一応公式の「全国交流会」はあるのですが、体力が持たないので、お友だちがやる私的な小さい交流会に参加。机を囲んでのんびり楽しむ交流会が持てました。
そこに、沖縄で社会学を専攻している人も参加してくれました。
2時間ほど騒いだあと、数人でラーメン屋へ。しかし、おいしいけど食べられへんって。まぁ、元気な人たちだわ。
10時過ぎにホテルに帰ると、1回の飲み屋でみなさん呑んでおられたみたいです。一度部屋に帰って荷物をおいてからと思って、部屋にもどってベッドに座ったとたん、スイッチが切れました。

実は、全国在日外国人教育研究集会・神奈川大会・第1日目

交流会の2日目は、今年は全国在日外国人教育研究集会の1日目、全体会と重なっています。お昼頃に話しあいとかを終了して、全体会の会場へ移動。その後、全体会で2日間の論議の発表を生徒たちが行いました。ステージの上に、約100人の在日外国人(含む、日本人)の生徒たちが、一晩語り尽くして本当に疲れながらも、充実した2日間を過ごしたことを感じさせる姿が並ぶ風景は、やはり感動的ですね。わたしたち教員も、この瞬間を見るために1年間かけて準備をしていると言っても過言じゃない気がします。
生徒たちのステージのあとは、地元報告です。チャンゴありブレイクダンスありラップありのパワフルなステージです*1が、疲れ切っているために、ロビーで交流会の参加者達とダラダラ冗談を言って過ごしました。地元のみなさん、ごめんなさい。って、誰も読んでないか…。

*1:たぶん、参加者はついていけてない気がする(笑)

状況から再構築する感性

昨日の夜、教員のミーティングで出た話を実行委員の生徒たちに伝えたのですが、どうやらうまく伝わっていなかったようです。というか、やはり司会はむずかしい。
当然一人一人の持つ「しんどさ」には違いがあります。あるいは、そのしんどさを「しんどい」と感じるかどうかについても違いがあります。このふたつの「違い」が、自分の経験を時として「取るに足りない経験」「語るに値しない経験」としてしまうことがあります。その結果「なにかあった?」と司会がたずねても、誰もなにも答えないということが起こってしまいます。
自分の置かれた状況や経験から、「なにが理不尽であるのか」ということを感じとるには、やはり「感性」が必要なんだと思いました。その感性を磨くためには、自分と自分のまわりのことを分析できる力が必要です。でも、「理不尽な状況」から自分自身を防衛するために、そういう力がマスクされてしまう。その力をとりもどすことが必要かなぁと思いました。