ケータイ警報発令中!

今日は教職員研修。
で、主催が生徒指導部と人権教育部という、まわりから見たら水と油みたいな両者です。でも、実は水と油じゃなくて、コインの裏表なんですね。わたしの尊敬する先輩教員は「やさしさの中に厳しさを」「厳しさの中にやさしさを」と言われます。まぁ、言ってみれば、前者が人権教育部のスタイルで、後者が生徒指導部のスタイルということになるでしょうか。「生徒」を軸においた時にスタイルの違いはあるものの、スタンスの違いはおそらくはないんです。
で、今回のテーマは「ケータイ」。
細かいことはおいておきますが、なるほどなぁと心の底から思いました。おもしろかった。
講師の方のスタンスは、まさに「やさしさと厳しさの同居」なんですね。そういうスタンスで生徒とつきあうことで、携帯サイトでさまざまな誹謗中傷をされた生徒とつながっていく。そのことを通じて、学級集団・学年集団・担任集団がつながっていく。そういう居場所を生徒が獲得することで、携帯サイトでの誹謗中傷にまどわされない子ども*1へと変化していく。
「携帯サイト」って、結局は単なる「場所」でしかないわけです。それが、今の状況の中で「特殊な場所」に思えるだけ。基本はふだんわたしたちの前で起こっているさまざまなできごとへの対処とほとんど変わらないということなんですね。
でもこれってこわいですね。だって、ふだん起こっているさまざまなことに対処できていなければ、ネット関係の「技術」がいくらあってもなにもならないということにほかならないわけで…。

*1:まさにセルフエスティームの高い子ども

グラフの書き方

通常、グラフって、表を書いてプロットしていくのが導入なんですよね。でも、それができない生徒がけっこういます。おそらくは、中学校、いや小学校の時にやっているはずなんですけど、それができない。そういう生徒にとって、もしかしたら、「形」を与えておいて平行移動をするというやり方の方が飲み込みやすいんじゃないか、と。
てことで、昨日仕込んだのは「放物線」を書いた小さな紙です。
まずは最初にふたつに折ります。このとき、光で透かしながらちょうど左右が重なるように折るのがポイント。このことで、左右対称であることを実感させます。
で、元にもどした時「この折り目を「軸」というんだよ」と。さらに、「「軸」と「放物線」が交わったところが「頂点」だよ」と。で、「頂点」に「↓」をつけます。
で、放物線に沿ってハサミで切ります。
これで、「放物線定規」のできあがり。
あとは、「ひとつ点を取って。その点が頂点になるように放物線を書いてみよう」とやります。
そうそう、ひとつ注意。「「軸」は必ずまっすぐ立つんだよ」。
こいつは、筆巻きに放物線を書いておいて、ちょいと歪めてやればいいです。放物線の位置はズレますが、回転をしません。まさに、平行移動。
つまり、「形と場所がわかれば放物線定規をあてて書けるよね」ということです。
ということは、どうやって「形」を決めるのか。どうやって「場所」を探すのか。という話にすべてが帰結します。

これ、わたしとしては新しいやり方なんだけど、どうかな?定着するかな?まぁ、クラスで一番数学が苦手な子が、このやり方で「ニコリ」としてくれたら成功なんだと思います。

つ・つ・疲れた

なんか、朝からとりたい連絡はとれないし…。必要ない連絡は入ってくるし…。
まぁさ、「はじめる」ことは簡単なんだけど、「続ける」ことはとてつもなくしんどいことなんです。それはわかってはいるんだけど、覚悟もできているんだけど。でもやっぱり時として疲れるわけで…。
まぁいいや。あしたの研究授業のネタを仕込んでおきますか。

ルーツとルート

今日の帰り、郵便物を届ける用事があったので、えらい規模のところに行ってきました。
まぁ、郵便物を届けるのが「ついで」なのか、郵便物を届ける「ついで」というか、そのあたりはよくわかりませんが…。
で、今年からそこで働くことになったこちゅかる子さんとしばし話。
こちゅかる子さんとわたし、全然違うところはもちろん多々あるんだけど、「キリスト教1世」の親を持った「2世」という共通点から出てくるさまざまなものの考え方の類似性もまた、多々あります。
おそらくは、「1世」って、まったくそういう素地のないところから、自らの意思でキリスト教になる。当然、まわりとの軋轢もたくさんあるだろうし、その中で「ゆずらない一線」というものもたくさんあるんだと思います。しかし、「2世」って、そういう「こだわり」の中にどっぷりと浸かりこんでいます。
例えば、わたしの家では長い間「盆・暮れ・正月」という概念はありませんでした。あるのは、「クリスマス」と「イースター」。まぁ、イースターといっても、教会で色セロファンで包まれた卵をもらうだけなんですけどね(笑)。ついでにいうと、クリスマスも別に何がどうということはないです。まぁプレゼントはもらいましたけど、その程度かなぁ。あ、教会の人たちがクリスマスイブの日にキャロリングできてくれました。まぁそんなものです。方や、盆…。なにもない。暮れ…。ほんとうになにもない。正月…。澄まし雑煮は食べたかな。お年玉はもらったな。そんな感じ。そうそう、年賀状も来なかったわけじゃないけど、それよりもたくさん来たのはクリスマスカード。それをあちこちに飾っていました。
もっとも、「あまりにも季節感がないのもどうよ」と思ったらしく、正月のおせち料理は後に出てきたような気もします。
それ以外に、親戚づきあいもあまりなかったですね。その典型的な例が、わたしは父方の祖母の葬式に出なかったという。
父 親「お前、仕事あるだろう
わたし「いや、別に休めるよ」
父 親「まぁ、来なくていいよ。母親は、あくまでもわたしの母親であってそれだけのことだから」
わたし「わかった」
「血縁」よりも、自らつくりあげた*1「人と人のつながり」を大切にしていたのかなぁと思います。そして、「死んだあと」のことを考えるのではなく「いま・ここ」でなにができるのかを大切にするのも、うちの価値観なのかなぁ。だから、法事とかには全然関心がない。
そうやって生活をしていると、近所の子どもたちやクラスの子どもたちの価値観との間にそうとうなズレができはじめます。
「なんでうちは違うのかな?」「でもこれでいいのかな?」
なんか、やっぱり揺れていたなぁ。
やがて大きくなると、親の存在っていうのがわかってきます。そこへの反発も当然出てきます。例えば、それは教会学校の教師としてのわたしの態度や、青年会活動へのわたしの態度として典型的にあらわれてきました。「批判的に教会にかかわる」という、のがその当時のわたし(たち)のスタンスでした。その中で、「教会」と「キリスト教」が分離をしていった。そこでおもしろかったのが、わたしの場合は「教会=キリスト教」から「わたし」が分離したのではなかったというところかな。結局、教会に行かないままに、「キリスト者」として生きることになし崩し的に(笑)なっていったんですよね。
ま、そのまま「現在に至る」という感じですか。
で、わたしが「わたし」であるということは、「キリスト者」「クリスチャン」という一言、あるいは、「クリスチャンホームに育った」という一言、すなわち「ルーツ」ではあらわしきれないわけです。どちらかというと、そこを出発点としながら、自分がどう「右往左往」してきたかという「ルート」にこそ意味がある。

まぁ、これはこちゅかる子さんが話して下さったことへのレスポンスになるのかな。そんなことをダラダラと話をしていたら、あっという間に8時を過ぎてしまいましたよ。

にしても、これって結局は「叙述的自己表現」なんだよなぁ…。

*1:あるいは与えられた?

他愛ない会話

朝起きると…。ダメです。どないしよう…。
なんしか、コーヒーを淹れる準備はしたもののダウン。パートナーに「頼むわ…」と力無くお願いをして、横になりました。飲み過ぎの翌日は、いつも反省します。
それでも、7時頃にはなんとか復活。なんとか出勤。
1時間目。「月曜日の朝はしんどいなぁ」とぼやきながら授業。
2時間目。会議に出席。どうなるかと思ったけど、無事終了。ホッとした。
3時間目。「月曜日の朝はしんどいなぁ」とぼやきながら授業。
てか、授業の方が楽やんか…。
と、金曜日の遠足の話をしてきた生徒が一人。
「先生な、一緒に写真とったやん。普通に女の子に見えたで」
「そらそや、女の子やもん」
「でも、「子」とちゃうやろ」
「ええねん、気分は「子」やねん」
「そやな、クラス写真も「女の人」に見えるしな」
4時間目。ビデオの編集。うまくいかない…。
5時間目。ビデオの編集。うまくいかない…。
6時間目。ビデオの編集。お?いけるかな?
放課後。ダルダルです。

それにしても、他愛ない会話が癒してくれますわ(笑)。

2次会

交流会が終わったら、世話人世話人で、子どもたちは子どもたちで2次会。
近くの中華料理屋の2階で、世話人と地元の人々でガンガン飲みます。なんか、「いつきさん、スカートはいて学校行ったらいいと思う!」と熱く語る教員がいたりして、「うん、うん」と言っていた気がしますが、よくおぼえていない(笑)。
9時過ぎに「そろそろお開き」ということで、わたしは帰ったんだけど、まだ行った人もいましたよ。元気やなぁ…。
帰りの電車では地べたで寝ていました。←除外診断(笑)

ピクニック

朝起きて外を見ると…。晴れ!
なんか気持ちがいいです。で、ここ数日悩んでいたことに終止符を打ちました。「今日はピクニックだ」
てことで、新大阪に向かいます。今日は、「トランスジェンダー生徒交流会」の「春の例会」です。
途中、お弁当にする材料を買い込んで、お弁当づくりから。
ナムル・ひじき・根菜の炊きあわせ・棒々鶏・鶏の照り焼き・小松菜のたいたん(卵とじ)・おにぎりをみんなでワイワイ言いながらつくります。できあがったところで、会場の向かい側にある「日之出公園」へ。ブルーシートを敷いてピクニックの開始です。
道行く人が「おぉ〜」みたいな感じで見ていきます。思わず「どうぞ!一緒に食べません?」と誘いかけてしまいます。
子どもたちはお弁当をつつきながら、「今後の交流会のあり方について」真剣に話をしはじめます。で、わたしは…。真剣に飲んだくれはじめます(笑)。まぁ、交流会なんてぇのは、そんな感じでちょうどいいんだと思います。
で、子どもたちの話しあいも一段落ついたところで、片づけ開始。
それにしても、日焼け対策しなかったのはまずいよなぁ…。

さらにそのあとは

7時過ぎに「混んできたからええ加減にでろ」と店の人に言われたので、4人は解散。そのまま、Gさんの運転で組合の女性部の呑み会に参加。「現実世界」の中の、それでも居心地のいい時間を過ごさせてもらえて、これまた楽しかった。
帰りは数学の話を小学校の教員をやっていた人と話ながらブラブラ帰ります。気がつくと、近くに天一がある。小腹も減ったから、今出川天一でちょっと食べていきましょう[1]6月1日から値上げだよ(;_;)。

footnotes

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1 6月1日から値上げだよ(;_;

礼拝のあとは

id:Yu-uさんとかFさんとかGさんと一緒に、近くで呑み。
う〜ん。かみあうようなかみあわないような。おそらく、住んでいる世界の違いをお互いが認識しつつも、こなしきれないままに、なんとか「相似形」を探そうとしていたんだけど、それがしきれなかったみたいな。
でも、ほんとうに久しぶりに「あの世界」にどっぷりつかりこんだ時間を過ごせて、若返りました(笑)。また行きましょうね!

追悼礼拝

某所に案内文(笑)考察(批判文)が載っている追悼礼拝に「遺族」として行ってきました。
まぁもちろんいろいろあるんだけど…。
基本的には、葬儀式は「身内だけで」というスタンスを打ち出していたので*1、そうではない「場」をつくる必要があったんですよね。それを、今日やった、ということなんです。
で、「遺族」としての私のスタンスは、基本的には「感謝」です。ほんとうに。
ひとつには、母親がいろんな人々と会う機会が得られたこと。やっぱ、そういう「場」は必要なんだと思うのです。
もうひとつは、今回の「礼拝」のおかげで、いろんな人が実家に来る必要がなくなるということ(笑)。なにせ、「身内だけ」とやると、「「ごあいさつ」に行かなくちゃ」という人が出てくる。それもけっこうな数になるかも。なので、その人たちの「ガス抜き」の場所をつくる必要があったということです*2
で、最後のひとつは「発言の機会が与えられた」ということです。
ある意味、母親の話は強烈なものを持っていたんじゃないかと思います。

もしも僕が窮地に立った時、君は助けてくれるか?

というのが、父親のプロポーズ前の言葉だったとか。その時母親は「はい」と答えたそうな。で、「その「窮地」が「今」である」というメッセージは、やはり残されたもののうちの1人のわたしにとっては強烈でした。
もちろん、「あくまでも助ける側」として「女性」をとらえているという批判は成り立ちますし、それは極めて正しい批判点でもあると思います。大切なのは、そうした「限界点」を持ちながらも、それと向きあいながら生きることなんだと思います。
で、わたしの話は…。

父親は、ほんとうにこわい人でした。
起こっている表情をあらわすのに「目を三角にする」という言葉がありますが、まさにその言葉の通り、怒ると目が三角になる人でした。とにかく「こいつはやばい」と思う子どもの頃でした。
そんなわたしも、高校くらいになると、うちにやってくる学生のマネをして、論議をふっかけてみようと思うこともありました。父にこんなことを聞いたことがあります。
「歴史とは何か?」
すると、父はこう答えました。
「歴史とは、右往左往するものである」
なんだこりゃ?と思いました。
あるいは、こんなことも聞きました。
「尊敬する人物は誰だ?」
父はこう答えました。
「田中正造」
マニアックなヤツだと思いました。
やがて大学生になりました。
わたしは、とにかくほんとうに語学が苦手でした。父親に聞きました。
「60点で合格するのか、1年落としてもいいから80点で合格するのか、どちらがいい?」
父親は即座に言いました。
「どちらもダメ」
とりあえず、こんなヤツと同じ道を歩んだらとんでもないとおもったので、高校の数学の教員になりました。教員になって、わたしは自然と部落の子や在日の子とかかわることになりました。
これも、おそらくは両親の影響だったと思います。わたしの小さい頃の思い出の中に「両親に手を引かれて青空の下を歩いている」という風景があります。これ、どう考えても、京都の繁華街なんです。でも、繁華街にはアーケードがあって、青空はありません。たぶん、あれはベ平連のデモでした。そんな両親でしたから、わたしが自然とそういう方向に行ってもしかたがなかったんだと思います。
ただ、そういう活動をしていると、当然父親のことを知る人と会うこともあります。そんな人々から
「土肥昭夫のお子さんですね?」
と言われたことがあります。わたしは即座に訂正をしていました。
「いえ、わたしの父親が土肥昭夫です」
まぁ、目一杯張りあおうと思っていた時代でした。でも、校区のムラ中に移り住んで、子どもたちとゆっくりとかかわるようになって、だんだんと自分なりのことができてきたなぁと思いはじめたのが、いまから10年ほど前のことです。このころ、ようやく
「土肥昭夫のお子さんですね?」
と言われて、
「そうです」
と答えられるようになりました。
ちょうどその頃、「部落史の見直し」というのが知られるようになりました。
一般的には「近世政治起源説」から「中世に起源がある」というふうに移行していったととらえられがちです。でも、わたしはこのとらえ方は、表面的であると考えています。おそらくは、これは網野善彦さんたちがされた「日本史の見直し」の文脈の中でとらえる必要があるんだと思っています。すなわち、政治史として日本史をとらえるのではなく、ひとつひとつの部落の歴史を丹念に掘り起こし、そこから歴史を記述していくという、歴史のとらえ方の根本的な考え方の違いであると考えています。
そして、そこで出会ったことがふたつあります。
ひとつは、「なぜ今までの運動の中でも部落差別がなくならかったのか?」ということへの答え。もうひとつは、「部落差別をなくすとりくみは、どこかの運動体がやるというものだけではなく、さまざまな人々がそれぞれの時代の中でやってきたことである」ということ。それは、例えば中世の「又四郎」であるわけです。
そうした中で、教材化された内容の中に「ふたりの庄屋の話」というものがありました。
ひとりは、木下尚江の『懺悔』の中に出てくる非常に差別的な庄屋の姿でした。そして、もう一人が田中正造でした。「正造はえたを愛す」と題されたそのエピソードはこんなものでした。
「正造はえたと一緒に田畑を耕した。休む時には同じ瓶から水を飲んだ。夜になると、一緒にごはんを食べお酒を酌み交わした。そんな正造に向かって、まわりの人々は「やめておけ」と言った。でも、正造は「一緒に働いているんだから」とやめなかった。やがて、まわりの人々は正造も避けるようになった」
そして、このエピソードは
「正造、不便すること多かりき」
とむすばれます。
この話に触れた時、「やられた!」と思いました。そして、自分の生き方が決まったような気がしました。
父親が「尊敬する」と話した「田中正造」は、足尾鉱毒事件なんかで有名な「田中正造」ではなく、こうした日々の淡々とした暮らしの中で差別と闘う(向きあう)田中正造だったんだと、その時思いました。そして、父親がやってきた仕事は、そうした光を浴びることなく、日々の淡々とした暮らしの中で闘い続けてきた人々に光をあてることだったんだと、ようやくわかりました。
わたしは、大学を出る時、父とは「違う道」を選びました。ですから、わたしは「光をあてる側」ではなく、光はあたらずとも、日々の淡々とした暮らしの中で、地道に子どもたちとかかわっていきたいと思います。
ありがとうございました。

まぁ、途中「ん?」と思うところもありますがね…。特に最後のあたりが。わたしのことを知っている人たちは「うぷぷ」と笑っていましたけどね。

*1:実際にはそうではないことは、もちろんいいわけなんですが…

*2:もちろん、id:Yu-uさんとかのように気心の知れた人たちには「ぜひ来てほしい」わけで(笑)