カウンターにまつわるつれづれ

はじめに

先日突然「東京大行進の参加記を書いてほしい」という連絡がありました。すごく困りましました。というのは、「大行進」そのものは単に歩いただけでした。いや、もちろんそれだけではありませんでした。そこでいろんな人と出会ったこと。あるいは打ち上げ会場ですごく盛りあがったこと。いろんなことはありました。でも、そこでなぜ人と出会えたのか。なぜ盛りあがれたのか。それは、4月から半年間、たった数回でしかないのですがカウンターに行った経験が前提となります。なので、そのことを書こうと思います。

カウンターとの出会い

わたしはどうやら「一般論」でものを考えるのが苦手なようです。常に頭のどこかに「リアルさ」をおきながら、ものごとを考えるようです。
わたしにとっての「在日」とは、例えば京都の在日青年Lさんです。Lさんとは、はじめて出会った日からなかよしになりました。Lさんと一緒に呑むお酒は笑いが絶えないとても楽しいひとときです。あるいは「在日」と言えば、ウトロの人々です。焼肉大会でオモニたちとビールを売りながら、「売上金はここに置こ」「いや、あっちがいい」「あーだ!」「こーだ!」とやりあって。でも一段落ついて「まぁ、食べ」とか言われて肉を食べていると「これで包み」とか言いながら、オモニが家から持ってきたサンチュで肉を包みながらビールを呑んで。気がつくとチャンゴ叩いて、ハルモニがノレをやりはじめて、みんなでオッケチュ厶。そのうち「えーかげん終わるぞ!」と怒られて、片づけやって…。みたいなものなんです。なので、「在日」というひとつの言葉の中には、必ず固有名詞が入ります。あるいは、できるだけ入れたいから、そういう場所にのこのこ出かけて行って、そういう人と出会って、しゃべって、呑むわけです。そういうわたしにとって、「一般論」でものごとを考え、しゃべる人にはどうしてもどこか違和感を感じるのです。
でも、違和感を通り越してショックだったのが、3月31日の鶴橋であった「行動する保守」による嫌韓集会とデモでした。実はわたしは直接youtubeなどの映像を見ていません。それでもツイッター上で流れてくるさまざまなつぶやきを読むにつけ、自分の中に怒りや恐怖や、さまざまな思いがあふれてきました。同時に、ウトロの人々やLさんの顔が次々に浮かびました。「いや、ウトロのオモニに死なれたら困るし」「Lさんに帰られたら困るし。というより『帰れ』って、どこに帰るねん」。そうは思ったものの、自分に何ができるだろうと思いました。2009年に京都朝鮮第1初級学校への襲撃事件があった時も、その後にあった抗議集会には参加したものの、なんらかの支援活動をしたわけではありませんでした。そんな自分に「語る資格などない」と思っていました。しかし、この違和感をどうすればいいのかということを、ずっと考えていました。
4月に入ってからも新大久保や大阪でひどいヘイトスピーチが垂れ流されていました。一方、その現場に「カウンター」という形で具体的に行動をしている人たちがいることも知りました。そして、4月20日に京都で差別街宣があり、カウンターを呼びかける声があることを知りました。ここで行かなければきっと後悔すると思い、カウンターに行くことにしました。
当日、集合場所に行くと、知りあいは誰もいません。カウンターをしている人は、今までわたしが出会ってきた京都の運動界の人たちとは違う人のようです。やがてやってきた「呼びかけ人」のなかに、ひとりだけ知りあいがいました。とにかくその人から情報を得ながら、自分がカウンターの中で何をできるのかを考えました。当日のカウンター行動は烏丸御池と四条河原町の二カ所でありました。わたしはビラまきをし、「Stand again racism」のフラッグを掲げ、時には大声を上げました。

それにしても、空虚でした。「彼ら」はやたら「朝鮮人」と言っていましたが、中身がないのです。「朝鮮人」のかわりに、例えば「京都府民」を入れても、それこそ「在特会」を入れても成立するヘイトスピーチです。そのことが、わたしに空虚さを突きつけます。一方、留学生や外国人観光客がわたしたちに関心を持ってくれたみたいでした。カウンターは、単に「対『行動する保守』」というだけではなく、「わたしたちを見る人々」にそれなりのアピールをしていたことを感じました。その充実感と、でもカウンター行動そのものの虚しさへの疲れと、いろんなことが交錯する一日でした。
カウンターの後、反省会という名前の呑み会があるのは、いままで経験してきた街頭行動とあまり変わるものではありませんでした。しかし、そこにいる人たちの「集まり方」はぜんぜん違います。全員が組織としての参加ではなく、個人としての参加です。カウンターの情報源は基本的にはtwitterです。なので、自己紹介は「twitterアカウントとアイコン」からスタートします。直に会うのははじめて同士の人もいます。もともと左翼の人もいれば保守の人もいます。しかし、みなさん「レイシズムを許さない」という一点で集まっているのです。いわば「最小公倍数的な集まり」という感じでしょうか。そこになんとも言えない居心地のよさを感じました。

「仲良くしようぜパレード」へ

5月、今度は大阪でカウンターがありました。わたしは再度参加することにしました。長い長いヘイトスピーチに、わたしたちはひたすらつきあい続けました。カウンターの中に、涙目で立ち尽くしているAさんという女性がいました。Aさんはひたすら立ち続け、時折ヘイトスピーチの酷さに耐えかねたかのように大声をあげていました。「彼ら」のヘイトスピーチが終わるまで、約2時間それは続きました。
カウンターのしんどさは、すべてのイニシアティブは「彼ら」が持っているということです。日も時間も場所も「彼ら」が指定します。「彼ら」は予定通りの行動ですが、カウンター側は、行かなければ「放置」になります。「放置」が嫌なら行かざるを得ません。しかし、行ったからといって、話が通じる相手ではありません。そのむなしさをたった2回のカウンターでしかないのに、ひしひしと感じました。カウンターが終わると、身体がドッと疲れるのです。
3回目のカウンターの帰り、Lさんが、わたしに言いました。「楽しいことをしたいねん」。Lさんは、読書家で、機転が利いて、とてもユーモアにあふれた青年です。そのLさんが、カウンター活動をする中で、どんどん険しい顔になっていくことが、わたしはとても心配でした。「休まなきゃならない時は休まなきゃ」と言っても「うん」と言うだけで、やはり次のヘイトスピーチの現場にあらわれてカウンターを続けるLさんのことがとても心配でした。そのLさんが「やる」ということなら、なんであっても協力しなきゃと思いました。
やがて、7月14日に「仲良くしようぜパレード」が開催されるという情報が流れてきました。「『楽しいこと』って、これだったんだ」と思いました。そして、なんとしてでも成功させたいと思いました。通常レイシスト側のデモは30人前後。カウンター側は多くて50人です。逆の立場になった時、カウンター側は100人では負けてしまうと思いました。200人300人のパレードでなければならないと思いました。とにかく宣伝をしなきゃ。ちょうど、いつもウトロで出会うMさんが、「仲パレ」のサイトを立ち上げていました。そのデータを使ってビラをつくろうと思いました。Mさんに「データを使っていい?」とメールすると、すぐに「いつきのやることで僕の許可をとらないといけないことなんかないよ」という返事が返ってきました。ものすごくうれしかったです。その勝手につくったビラを、twitterでつぶやき、facebookに投稿し、ことあるごとにさまざまな場所でまきました。
当日、「仲良くしようぜパレード」には600人もの人が集まりました。その中にはたくさんの友だちがいました。在日外国人教育にかかわる人たちだけではなく、セクシュアルマイノリティ関係の友だちもたくさん参加していました。
歩きはじめると、沿道の人々は笑顔でわたしたちのパレードを迎えてくれました。もちろん「彼ら」はカウンターをしてはいましたが、その人数は予想していたよりもはるかに少ないものでした。普段は「彼ら」に対して「帰れコール」をしているわたしたちでしたが、その日は不思議なほど自然にピースサインを出していました。当日は猛暑の日でした。わたしはプクをたたき続けました。解散場所ではほとんど脱水状態で、身体が動きませんでした。でも、その「疲れ」はカウンターで味わう「消耗」とはまったく違う心地よいものでした。
夜、打ちあげに参加しました。あの涙目のAさんが、喜びを爆発させていました。Aさんだけではありません。いつもカウンターでつらそうな顔をしている人たちが、みんな笑っていたのが、すごく印象的でした。

「東京大行進」へ

「仲良くしようぜパレード」には関東でカウンターをしている人たちもたくさん参加していました。みんな「レイシズムを許さない」という一点で大阪まで来たのです。やがて、9月に東京で大行進をするという情報が流れてきました。わたしは「仲良くしようぜパレード」の運営ではありませんでしたが、「恩返し」として「東京大行進」は行かねなければならないと思いました。
前日は全外教の運営委員会がありました。会議終了後、夜行バスで東京に向かいました。新宿で友だちと合流して、昼ご飯を食べた後、集合場所の新宿中央公園に行きました。そこにはすでに軽く1000人を越える人々が集まっていました。関東のトランスジェンダーの友だちから「いま第3挺団にいます」と連絡が入ってきたり、レズビアンカップルの友だちと会って思わずハグしたり。ここでもたくさんのセクシュアルマイノリティの人が参加していました。それどころか、ドラァグクイーンのフロートまでありました。もちろん、関西からもたくさんの人が参加していました。
とにかく前を見ても後ろを見ても、大行進の列は延々と続きます。「差別をやめよう」と具体的に声をあげる人がこんなにいるんだと思いました。解散場所でも「おー、来てたんや!」「いつきさん、来ると思ってた(笑)」という会話を、たくさんの友だちとすることができました。

打ちあげでは「仲パレ」の時と同様、みんな笑顔がはじけていました。大行進の模様がとりあげられたNHKのニュースでピビンバが出てきた瞬間、「まーぜーろ!まーぜーろ!」コールの大合唱が起こりました。きっとその瞬間、そこにいた人たちは「みんなピビンバみたいに混ざってしまえばいい」と思ったんじゃないかと思います。

おわりに -そこにはいないけど、いつもカウンターに参加しているCさんのこと-

わたしにはCさんという友だちがいます。昼間は仕事で大忙し、家に帰ると育児と家事でてんてこまいをする毎日を過ごしておられます。Cさんはカウンターの存在を知り、なんとか自分も参加したいと思いながらも、子どもを連れての参加のハードルの高さにいつも断念をしておられました。
そんなCさんには「ものづくり」という才能があります。ある日、大久保でのカウンターの写真を見ていたCさんは、一本の動画を見てびっくりしました。そこには、かつてLさんのためにつくった「No Racism」のステッカーがはられたトラメガが偶然写っていたのです。その時「自分の分身が大久保のカウンターに参加していた」と感じたそうです。やがてCさんは琉球紅型という染色技法を使って「No Racism Tシャツ」をつくることを決意されました。ムクゲと桜があしらわれ二羽の古典柄の燕がコルムを結ぶデザインは、多くの人の心を魅了しました。

Cさんは東京大行進には参加されませんでした。しかし、1600人の参加者の中に、わたしを含め8人、そのTシャツを着ている人がいました。その中にははじめて出会った人もいました。「レイシズムを許せない」という思いを持つ人と人をTシャツはつないでくれました。その瞬間、遠く離れた関西にいるCさんは、確実にそこにいました。
はじめてカウンターに参加した時、ある人が「うまいものを食って、幸せであることが最大のカウンター」と、わたしに言いました。その言葉の重さと、そして軽やかさが、最近少しずつわかってきました。
カウンターの人々は、ほとんどすべての土日、カウンターをしています。なぜなら、ほとんどの土日、ヘイトスピーチがあるからです。ヘイトスピーチがない休日、それぞれがその一日を楽しんでおられる姿がツイッターを通して伝わってきます。そんな当たり前の土日が当たり前のようにやってくるには、どうやらまだしばらくかかりそうです。しかし、そんな日が少しでも早く来るために、今、わたしにできることはなんだろうと考えます。
もちろんカウンターに行くことはとても大切です。「彼ら」へのプレッシャーのためにも、またその場を通行する人々へのアピールのためにも、カウンターには人数が必要です。しかし、カウンターに行かなければ何もしていないというわけではないとも思います。例えばCさんのような参加のしかたもあります。日々の生活の中で、たった一人でも、決してあきらめることなく声をあげ続けること。そんな当たり前のことをカウンターは思い出させてくれたように思います。