(さ・も)さんへの返事

前に『トラ宣』からの引用をしたんですけど、もう一つの日記に(さ・も)さんがコメントをくださりました。それに対する返事も書いたので、(さ・も)さんのコメントの引用と返事をこちらにも転載します。
# それにしても「引用」と打つつもりで「遺尿」となるのが(笑)。

捨てる捨てないって本当に人それぞれだと思います。それぞれがその人のSTORY。捨ててしまった私からすれば、いつきさんの生活もいいなぁって思います。さ・も
正確に言えば「捨てた」のではなく「捨てられた」だったりします(さ・も)(^◇^;)

に対して、

(さ・も)さん、
 おそらくわたしが捨てたのは、「時間」と「自由」だろうなぁと思うのです。でもそのかわりに得たものもとてもたくさんあります。もちろん直接的には「家族」や「仕事」なんでしょうけど、より大切なものは、間接的に得たものだと思います。それは、たくさんの「仲間」です。
 回り道をして、時間をかけて、悩むこともあれば笑うこともある。でも、一直線に進んでこなかったからこそ、たくさんの人たち・いろんな考えを持ちいろんな人生を歩んでいる人たちと出会ってきました。だから、いまの自分があると思います。
 でもねぇ、こんなことはあとでわかることだし、「もしもあのとき」と思わないというとウソになりますよね。

です。まぁ、なんてことないのですが…。

えらいところで…

デイパを選んでいる一軒目の店で、いきなり電話。この間からの懸案事項についての電話でした。
とりあえず、お店から出て軒下で電話。いきなり「いつきさんは、トランスジェンダーをどう定義するのか?」えらい難しい話ですがな。答は、「性別を越境して生きることを選択した人のこと」でした。と、向こうから「選択、ですね」。「はい、選択です」
このあたりからはじまって、30分ほど話。印象に残っていることを少し書くと…。

  • 「ブレンダと呼ばれた少年」をめぐって

わたしはあんまり考えていなかったんだけど、電話の相手の人が一言。「あそこから得られるものは、人に生き方を押しつけてはいけない、ということですよね」。思わず、ひざをポン!

ジェンダーを獲得することで自らのジェンダーを確認するのか、ジェンダーを利用して日常生活の中で必要なパスをするのか。なんぼなんでも、日々24時間トランスとして闘い続けるのはあまりにもしんどすぎます。だれも知らないところでは、ふつうに(笑)生きたいなぁと。そういう時に、ジェンダーを利用すると、以外とふつう(笑)に過ごすことができます。まぁ「理論だけでは日常生活は過ごせない」という、堕落した人生を送っております。

たとえば、「女性は尽くすもの」みたいな考えがあったりしますよね。でも、これって、「女性ジェンダー」をはずして考えたら「依存体質」なわけです。「男はガツーン!」って、「男性ジェンダー」をはずして考えたら「サディズム」とか「権力志向」だったりします。問題は、そうした体質・嗜好etcを「女/男」に振りわけてラベリングしたものがジェンダーなんじゃないかなぁと。
わたしには、「依存的」なところや「マゾヒスティック」なところがあるかなぁ。大切なのは、それは「わたしの」特質と考えるか、それをジェンダーと結びつけて「だからわたしは◯◯だ」と考えるかなんじゃないかなぁ。

う〜む。眠くなってきたので、続きはまた、かなぁ。

折りあい…

ここに「いつきはGIDトランスジェンダーはどこで、どう折りあいをつけているのか」というメールが来たと書きました。実は、まだ返事が出せていません。ただ、ぼんやり考えていたのことが少しまとまってきたので、忘れないうちにいま書ける範囲で…。
「折りあい」という言葉を聞いたとき、「むずかしいなぁ」と思いました。なんでだろうとずっと考えていたのですが、ようやくわかりました。わたしにとって、「GID」と「トランスジェンダー」は対抗概念ではないんですね。むしろ位相の異なる概念なんです。なので「折りあいをつけている」という感覚が、すごく希薄なんです。
と、ここまで書いて、行き詰まってきたので、続きはまた今度…。はぁ…。

キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

昨日の文章を送ったら、次のような返事が返ってきました。

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で、いつきさんにとってGIDトランスジェンダーはどこで、どう折り合いが付くんでしょうか(ちなみに乱暴なワタシはGIDの診断書こそ持っているものの、これは世間を渡る手形にすぎず、GIDなどそもそも信じていない)。

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ふみゅぅ〜。まぁしばし考えて返事を書こうかなぁ。そいつをまたここに転載する予定です。

「選べない」ことと「選ぶ」こと

 最近、「GIDは先天的な病気(例の脳内シャワー論)」→「逆の性の教育、社会訓練を与えても従わない(ブレンダ)」→「すなわち、そもそもジェンダー(文化、社会的性)なるものは虚妄」→「生得的な性(セックス)による伝統は正しい」という論が、一部ではやっているとか。論理展開にかなーりウルトラC(死語)が入っているような気がするし、ところどころ本の「つまみぐい」をしている(これは、わたしの得意技・笑)気がしますが、「一部」というのが放っておくとろくでもない人たちなようです。で、ある人からコメントを求められたので、ちょっと文章をひねってみました。こんなんです。

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 よく、「被差別」の立場にある人たちが「自分は好きで(こういう環境・身体etc)に生まれたんとちゃう!」と言うことがあります
 この言葉を聞くたびに思うことは「(例えば部落外である/日本人である)わたしも、好きで(部落外に/日本人に)生まれたんとちゃうけどなぁ…」ということです。でも、そう思いながらも、この言葉をはいたとして、先のような主張をする「被差別者」と「つながれる」とは思えないので、たいていは「うんうん」とわかったような顔をして聞くことにしています。
 そんなわたしに、ある部落の人がこんなことを言いました。「自分は部落出身という生まれは選べなかった。でも、部落として生きることは、自分が選んだことだ」。この言葉を聞いたとき、わたしにものすごい衝撃が走ったことを、今でもおぼえています。

 もちろん、例えば「部落に生まれた/生まれなかった」ことによって、「在日に生まれた/生まれなかった」ことによって、生き方が大きく左右されるでしょう。しかし、部落に生まれたからといって、在日に生まれたからといって、みなが同じ生き方をしているでしょうか。あるものは、自分の出自を隠すという生き方をします。しかし、あるものは自分の出自を明らかにしながら、他の人とつながりあっていく生き方を選んでいます。そうしたたくさんの生徒たちと、わたしは出会ってきました。

 わたしは、トランスジェンダーです。しかし、わたしが「生まれながらに」トランスジェンダーであるかどうかについては、とても疑問です。小さいときから、女性の肉体への同一感があったことは確かです。そうした一連の記憶は、DSMなりICDの診断基準を満たしているらしく、わたしには「性同一性障害」という「病名」をつけられています。しかし、時として恐ろしくなります。それは、「ほんとうに自分はそうなんだろうか」という、後もどりできないことへの恐怖です。
 しかし、いま、わたしはトランスジェンダー「として」生きています。この生き方は、「選んだ」生き方です。先の部落出身の人の言葉を借りるならば、「わたしは性同一性障害に生まれた(眉唾・笑)ことは選べなかった。でも、トランスジェンダーとして生きることは、わたしが選んだことだ」ということになります。

 すべてを「生まれ」のせいにすると、とても楽です。なにしろ、自分の生きざまの中で出会うすべてのことについて、自分には責任がなく、すべては「生まれ」のせいにできるからです。しかし、この生きざまは「自分で選んだ」とすると、その結果起きることすべては、わたしに責任があります。だからこそ、どう生きていくか、真剣に考え、真剣に悩みます。そして、その結果に喜びがあります。

 「生まれによってすべてが定まる」という価値観は、あまりにも短絡的で、あまりにも無責任すぎるのではないでしょうか。
 たしかに、わたしは「男性の身体に/性同一性障害として/日本人として/部落外として/経済的に恵まれた家庭にetc」生まれました。しかし、いま、自分が生きている生き方は、さまざまな紆余曲折を経て、自分自身で選んできました。もちろん、そこには自分の生得的な属性によるさまざまなバイアスがあるであろうことは、容易に想像できます。しかし、そうしたバイアスがあるかどうかについては、「女性の身体に/性同一性障害ではなく/在日として/部落として/経済的にしんどい家庭にetc」生まれた人たちとの出会いの中で、少しずつそれがバイアスによるものであることを確認してきました。そして同時に、世界に一人だけの「わたし」という存在がここにいることを、やはり確認します。そういう自分を、いまようやく「ちょっとはええヤツかな」と思えるようになってきました。

 「生まれは選べない。でも、生き方は選ぶこと」。ここからスタートするとき、おそらくそんな他者と「つながる」第一歩が踏み出せるのではないかと思います。

***

 う〜ん、たいした文章じゃないなぁ。やっぱ50分で考えて(試験監督中・ヒマだし、内職ができない。なので、なにかを考えてしまう時間なんです)+30分(具体的に文字をひねり出している時間)では、ダメダメですね。はぁ…。

『トラ宣』より引用

●TG自助グループの約束事
1、性器形成術や性ホルモンをはじめとする身体の変更について。
 どうしてもそれが必要な人たちがいる。また一方で、身体的性別違和があっても、手術や性ホルモン使用を我慢できる人もいる。しかしだからといって、そういう人がTSでないとか、性同一性障害や身体的性別違和がないとか軽いとは限らない。
 また逆に、手術しなければ生産的な人生を始められない人たちがいる、という事実を否定してはならない。そういう人たちは我慢や工夫が足りない、という考えは間違っているし、事実にも反している。

2、フルタイムとパートタイムの生活について。
 私たちのなかには、”フルタイム”と呼ばれる、自分の望む性別でずっと生活している人たちもいる。また一方で男性モードと女性モードを行き来する、”パートタイム”という人たちもいる。
 フルタイムになりたいのにさまざまな事情でそうできない人たちや、女性としての自分も男性としての自分も捨てることができない人たちもいる。しかしフルタイムの人たちが、それによってたとえ仕事や収入、家族や社会との関係を犠牲にしているからといって、我慢が足りないとか甘えている、ということにはならない。
 また逆に、パートタイムの人たちが、そういう生活をなんとか受け入れられていたり、あるいは安住していたり、時にはそれを楽しんでいるからといって、性同一性障害や社会的性別違和がないとか軽いとかいうことは限らずしもいえない。

3、パスとノンパスについて。
 ”パス”とは自分の望む性別で人から見られることである。私たちの多くはそれを望んでいる。でも、身体上のさまざまな制約から、そうは見られないで”ノンパス”(リード)となっている場合も少なくない。またそもそもパスを望んでいなかったり、優先順位がかなり低い”クイア派”という人たちもいる。
 ノンパスやクイア派の人たちが、自分の望む性別のスタイルで外出したり、フルタイムになったり、時にはマスコミに出たりすることさえある。また逆に、「自分はパスできないから」という理由で、そういったことをしない人たちもいる。しかしそれは、その人その人の価値観や置かれている状況によって、それぞれが判断すべきことであって、他者に自分の判断を押しつけてはならない。

4、プロセス派とノンプロセス派。
 性同一性障害や性別違和を抱えている当事者のなかには、”普通の女性”や”普通の男性”に同化し、溶けこんでしまいたいと考え、”トランス”ということが、そうなるまでのプロセスに過ぎない人たちがいる。また逆に、”男でも女でもない状態”が、むしろその人本来の状態に近くて、それで安定した気持ちで生活を送れるという人たちもいる。それはどちらが正しいとか間違っているとか、優位であるとか、私たちの課題の中心であるとか周辺であるとかいう問題ではない。

5、不幸くらべはやめよう。
 ”トランス−性別を越えること”は、現代の日本ではとても困難で大変なことである。どういう選択をしても、それがイバラの道であることに代わりはない。誰もが苦しみ、困難に直面している。ただ、その内容が大きく違っているだけだ。
 自分(たち)だけが特別苦しんできたとか、自分以外の誰かがよりお気楽に見えたとしても、それは必ずしもそうとは限らない。”不幸くらべ”や”不幸自慢”は、生産的なものを何も生み出さない。そうすることによって自分自身も傷つき、まわりの人も傷つき、そのあげく、ただ人間関係を損なう結果にしかならない。

6、あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか。
 性同一性障害や性別違和を抱えているからといって、みんな同じではない。優先順位がみんな違う。身体の変更が優先する人もいれば、フルタイムの生活が優先する人もいる。それが衣服であるという人もいる。パートナーとの関係が優先する人もいれば、仕事や家庭が最優先という人もいる。それはNon−GID性同一性障害のない人)の人たちを見れば当然のことであり、よくわかるはずだ。
 トランスという大事業に必要なのは、それぞれの人にとって、何が最優先のことなのか、自分が何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか、それをはっきりさせること。そして、自分を基準にして、ほかのメンバーに特定の選択や価値観を押しつけないことである。
 何を選択するべきか、人によってみんな違う。自分の状態や価値観からなされた判断を他者に押しつけることは、この自助グループを崩壊に追いやるだろう。

***

 わたしにこの「約束事」を教えてくださったのは、あるトランスセクシュアルの人です。特に、「6、あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか」という言葉が突き刺さりました。当時そのことをぜんぜん決められなかったし、それをやってきたその人と自分を比較した時、「自分はあかんなぁ」と思ってしまったんですね。それは、いまでもさほど変わることがありません。なにが違うかというと、まぁ自分にも捨ててきたものがあるなぁと気づいたことがある、と、その程度です。
 この約束事、先日ある掲示板に引用されて「好きだ」という人が結構いたんですけど、わたしはいまだにこの約束事を読むと、厳しい刃を向けられたような、苦しい気持ちになります。