さらすことの代償

にしても、高座が終わってから口々に言われたのは「女性だと思った」という言葉。
う〜ん。微妙です。まぁ、簡単に言えば、自分のことを話したがゆえに、「その人にとっては女性ではなくなった」わけで。
ま、それはわかった上で高座をさせていただいているわけですがね(笑)。

風通しのいい世界はどちらなんだろう…。

92年度生の思い出・その4

これの続きです。
夏休み前のホームルーム。夏休み明けにある文化祭でやる「クラス演劇」についての話しあいです。
わたしは最初にハッパをかけました。
「お前ら、いままで2年間で何枚賞状もらった?みんないろんなクラスで賞状もらったかもしれんけど、それら全部足しても進学クラス1クラスに負けてるやろ。最後の最後で賞状とろうや!」
この言葉に呼応してくれたのか、はたまたみんながどこかでそう思っていたのかわかりません。でも、このあたりから急速にクラス全体が燃えはじめました。
「演劇のテーマ、なににしよ」
「こんなんは?」
「あかん、それでは勝てへん」
みんなが「勝てる劇」を探し、ちょうどあの頃話題になっていた「野麦峠」にとりくむことになりました。
夏休み中、わたしはあまり学校には行かず、放送部の合宿だのどこぞの研修会だのに行っていました。
夏休みも後半、クラスに行ってびっくりしました。3階の教室なのに、大量に自転車があります。
「これ、どないしてん」
「駅でもろてきた」
「勝手に持ってきたらあかんやろ」
「ちゃんとくれる言うた」
「それならええわ。こんなんなんに使うねん」
「糸巻き機、つくるねん」
「へ〜」
大道具班の連中を見ていると、その中に「え?」と思うMがいました。Mは、中学校時代からさんざん教員に反抗して、とうていクラスのとりくみに協力するとは思えないヤツでした。
「どないしてん?」と聞くと
「おぉ〜!なんか、燃えてるねん!」
なんでも、Mは少年野球を昔やっていたみたいで、野球部を引退した連中と一緒にキャッチボールなんかをしているうちに仲よくなっていったそうな。で、その野球部の連中が大道具班を一生懸命とりくんでいるのにつきあっているうちにおもしろくなってきたそうな。
「先生、このお地蔵さん、うまいことできてるやろ」
「お、これ。メッチャリアルやん。へー、発泡スチロールでこんなうまいことできるんや」
「先生、持ってみ」
「ん。なんや、これ!」
発泡スチロールだと思ったら、ほんまもんの石でした(笑)。
「この背負い子な、主人公載せるねん」
「まぁ、あいつ小さいしな。せやけど大丈夫か」
「大丈夫や。めっちゃしっかりつくってある」
「まぁ、もうすぐ2学期はじまるし、ちょっとは片づけとけよ」
「わかった」
そして、2学期がはじまります。いよいよ文化祭本番です。
本番直前まで、みんな練習です。なにしろ、セリフが入らない。でも、必死で覚えています。
本番の幕が開きます。みんな必死で劇をしています。
工場長役はクラスのボスのO。こいつが、工場で働く女性たちをはり倒すシーンがあります。そのうちの一人、Sは、高校3年になってからどこぞの暴走族の頭とつきあうようになり、高3デビューを果たしたヤツです。Oが立て続けに何人かを平手ではり倒します。そのうちの一人Sのほっぺたにまともに平手が入ります。他の子らの音とは違う、鈍い音がします。前の方で見ている生徒たちから「痛そ〜」という声が聞こえます。それでも、劇は淡々とすすんでいきます。やがてエンディング。そして幕。
幕が下りきった瞬間、幕の後ろから聞こえてきた雄叫びは、今も忘れることができません。
結果は優勝は逃したものの2位。同じく勝ちにきた「リア王」を演じた進学クラスは3位。
3位をとったにもかかわらず、まったく喜びの表情を見せなかった進学クラスに対して、うちのクラスは飛びあがって喜んでいました。
そして、御法度の閉会式最後のクラッカー。前年度までなんとなく黙認されていたのですが、この年は厳重に禁止を申し渡されていました。でも、生徒たちの動きからなんとなく「やるな」という空気が伝わってきていました。
「パーン!」
「こらー!」
その瞬間を、きっちりとカメラにとらえることに成功しました。
「3年◯組、体育教官室まで来い!」
生徒たち全員がそろって
「すみませんでした!」
「お前ら、全員で掃除せい!」
「はい!」
どうやらみんな、はじめから掃除をすること覚悟でやったみたいです。掃除が終わって全員で記念写真。このときの写真が卒業アルバムのクラスのコーナーの真ん中を大きく飾っています。

(続く)

属性と関係性

先日、id:Yasuda_Naotoさんが書いてくださったコメントなんですが…。

「当事者」を属性ではなく、関係性だけで考える。
…というのが、分かりやすいなあ。私は。
ふわーっとして良くないですか?

という話です。
たしかに、「属性」は本質的に存在するものではなく、「関係性」の中で相対的にあるものだと思います。そこのところを無視して「属性」を「本質的に備わるもの」≒「絶対的なもの」と考えると無理が生じます。その無理に無自覚なまま考えを進めていくことは、「外部」に対しては「立場の絶対性」を引き起こし、「内部」に対しては「排他性」を引き起こすのではなかと思います。
前者については、やはりこのあたりを出さざるを得ないかなと思います。
で、後者については、前に書いたこのあたりの話とつながるでしょうか。結局、「内部」での「違い」をよりどころにして自らを「純化」すると同時に、他者を切り捨てていくことにつながっていくように思われてなりません。
結局は、「当事者」とは誰か?ということなんでしょうね。それを「属性」で考えずに「関係性」≒「相対化」で考えていくということになるのでしょうか。
となると、まさに自らのことをあらわすためには「ひとつの言葉」では不可能で、自分と他者とのかかわりや自分と社会とのかかわり、自分と自分史のかかわりをたんねんに語る必要が出てくる。というか、そうしないと「自分」をあらわすことができなくなる。そして、そのことによって「雑多な自分」というか、ひとつの言葉であらわしきれなかった「あまりの部分としての自分」をあらわすことに近づいていく。
それを互いに重ねあわせていくことが、「関係性」を深める作業になる。
のかな?

これ、アイデンティティの問題としては、極めて正しいと思うんですよね。ところが、どうやらそれだけではすまない問題が一方である。それが、関係性の中に潜む権力関係なんだと思うのです*1
ここで、マイノリティvsマジョリティという「関係性」というよりも「対立」の構図が出てくる。そして、マイノリティがマイノリティであるゆえんを「属性」に「帰属」させていく。

個人的には、ジレンマなんですよ。でも、そのジレンマを乗り越えるのではなく、バランスをとることで「属性」に依拠しない、「関係性」をつむぐ営みをしていきたいとは思っています。

あぁ、竜頭蛇尾だorz

*1:ここで言う「関係性」がid:Yasuda_Naotoさんの言われる「関係性」と同義かどうかはよくわかりませんが…

午後は中国帰国の方で、現在日本語教室で働いておられる方からの話。
これまたすごくおもしろかった。
この方にはお姉さんがおられて、お姉さんは今日話をされた方の日本語教室の前任者なんです。で、わたしはお姉さんの方も知っていて、妹さんの方も知っている。ついでに、お母さんともちょこっとだけ会ったことがあります*1
何がおもしろかったかというと、おふたりの日本語教室のとりくみ方の違いなんですね。
お姉さんの方は、とにかく中国帰国の子を集めるために試行錯誤をされ、中国帰国の子らの「場」としての日本語教室をつくってこられた。ところが、妹さんの方は、その日本語教室を、中国帰国の子らの「場」としてだけではなく、日本人の子どもたちも入れる場として広げていかれます。
わずか2〜3年で、こういう変化があらわれる。まぁ、おふたりの性格の違いというのもあるでしょうけど、それ以上に「世代の違い」なんだろうなぁ。

*1:東加古川駅の近くでラーメン屋さんをしておられます。餃子が絶品です

「当事者外」の存在

「交流会」をやる時に、ピアで固めるのか、そうしないのか。
わたしのギョーカイの伝統的には、ピアで固めるという作風がつよいんじゃないかな。
例えば、朝鮮人の子どもたちのみを集めて、そこで話をする。それ、すごく大切だと思います。そして、かつてわたしもそのことを強く主張をしてきました。
でも最近、「そうではない方法」へと、わたし自身は移行しています。
ひとつは、「当事者外」の存在は邪魔ではないということ。逆に、「当事者外」の存在にはピアサポートでは得られないメリットがあるということ。だって、「世間」は「当事者外」によって構成をされているんだから。理解ある「当事者外」と一緒に生きられなくて、どうやって理解ない「当事者外」に囲まれて生きていくのかという認識かな。
もうひとつは、「当事者性はひとつに限定されない」ということ。このことは、「当事者外」という存在そのものを否定すると思います。まぁ言ってみれば、誰もが「当事者」であるということになるでしょうか。大切なのは、それぞれがもつ「当事者性」をどう重ねていくかということが大切なんじゃないかなぁと思うのです。その中で、「この場ではこれをメインに据えて話をしていこう」という合意をつくっていく。それはある時は部落問題であり、ある時は在日外国人問題であり、ある時はセクシュアリティの問題である。

などと書いていたら、だんだんゴチャゴチャしてきたな…。

ルーツとルート

今日の帰り、郵便物を届ける用事があったので、えらい規模のところに行ってきました。
まぁ、郵便物を届けるのが「ついで」なのか、郵便物を届ける「ついで」というか、そのあたりはよくわかりませんが…。
で、今年からそこで働くことになったこちゅかる子さんとしばし話。
こちゅかる子さんとわたし、全然違うところはもちろん多々あるんだけど、「キリスト教1世」の親を持った「2世」という共通点から出てくるさまざまなものの考え方の類似性もまた、多々あります。
おそらくは、「1世」って、まったくそういう素地のないところから、自らの意思でキリスト教になる。当然、まわりとの軋轢もたくさんあるだろうし、その中で「ゆずらない一線」というものもたくさんあるんだと思います。しかし、「2世」って、そういう「こだわり」の中にどっぷりと浸かりこんでいます。
例えば、わたしの家では長い間「盆・暮れ・正月」という概念はありませんでした。あるのは、「クリスマス」と「イースター」。まぁ、イースターといっても、教会で色セロファンで包まれた卵をもらうだけなんですけどね(笑)。ついでにいうと、クリスマスも別に何がどうということはないです。まぁプレゼントはもらいましたけど、その程度かなぁ。あ、教会の人たちがクリスマスイブの日にキャロリングできてくれました。まぁそんなものです。方や、盆…。なにもない。暮れ…。ほんとうになにもない。正月…。澄まし雑煮は食べたかな。お年玉はもらったな。そんな感じ。そうそう、年賀状も来なかったわけじゃないけど、それよりもたくさん来たのはクリスマスカード。それをあちこちに飾っていました。
もっとも、「あまりにも季節感がないのもどうよ」と思ったらしく、正月のおせち料理は後に出てきたような気もします。
それ以外に、親戚づきあいもあまりなかったですね。その典型的な例が、わたしは父方の祖母の葬式に出なかったという。
父 親「お前、仕事あるだろう
わたし「いや、別に休めるよ」
父 親「まぁ、来なくていいよ。母親は、あくまでもわたしの母親であってそれだけのことだから」
わたし「わかった」
「血縁」よりも、自らつくりあげた*1「人と人のつながり」を大切にしていたのかなぁと思います。そして、「死んだあと」のことを考えるのではなく「いま・ここ」でなにができるのかを大切にするのも、うちの価値観なのかなぁ。だから、法事とかには全然関心がない。
そうやって生活をしていると、近所の子どもたちやクラスの子どもたちの価値観との間にそうとうなズレができはじめます。
「なんでうちは違うのかな?」「でもこれでいいのかな?」
なんか、やっぱり揺れていたなぁ。
やがて大きくなると、親の存在っていうのがわかってきます。そこへの反発も当然出てきます。例えば、それは教会学校の教師としてのわたしの態度や、青年会活動へのわたしの態度として典型的にあらわれてきました。「批判的に教会にかかわる」という、のがその当時のわたし(たち)のスタンスでした。その中で、「教会」と「キリスト教」が分離をしていった。そこでおもしろかったのが、わたしの場合は「教会=キリスト教」から「わたし」が分離したのではなかったというところかな。結局、教会に行かないままに、「キリスト者」として生きることになし崩し的に(笑)なっていったんですよね。
ま、そのまま「現在に至る」という感じですか。
で、わたしが「わたし」であるということは、「キリスト者」「クリスチャン」という一言、あるいは、「クリスチャンホームに育った」という一言、すなわち「ルーツ」ではあらわしきれないわけです。どちらかというと、そこを出発点としながら、自分がどう「右往左往」してきたかという「ルート」にこそ意味がある。

まぁ、これはこちゅかる子さんが話して下さったことへのレスポンスになるのかな。そんなことをダラダラと話をしていたら、あっという間に8時を過ぎてしまいましたよ。

にしても、これって結局は「叙述的自己表現」なんだよなぁ…。

*1:あるいは与えられた?

「平手打ち」をめぐって

あたしゃ昔はよく生徒をガツンとやっていたけど、ある時生徒からそれが権力関係に依存していることを突きつけられて、きっぱりやめました。この時の平手打ちは、「それでもなお」ということだったし、あの子とわたしの間では権力関係は避けられないものの、OKでだったんだと思っています。
ちなみに、いまも手は出さんなぁ。グリグリはたまにやるけど(笑)。

92年度卒業生の思い出・その3

「92年度卒業生」さんから、その後メールをもらいました。
すごくうれしかったです。と同時に、ほんとうにいろんなことを思い出しました。ありがとね!

てことで、前回の続き。
担任をはずされて、ふてくされて仕事をしなかったその翌年。なぜか担任に復帰。その代わり、当時の学年部長がはずされてしまいました。理由はたったひとつだったそうな。「卒業式で、◯◯◯は歌いません」宣言をしたそうな。そんなことではずされるって、ひどい話です。てか、わたしを担任団に放り込んだら同じ*1ですがな。

で、学級開きの日。
クラスのある子は、ガラリと教室のドアを開けた瞬間「こりゃだめだ〜」と叫んだそうな。まぁ言ってみれば、その学年の一番ガチャが集まったクラスだったそうです。いや、単純に数学の選択で集まってきただけなんですけどね。その「選択」の仕方が少々いろいろあったみたいです。
ちなみに隣のクラスも数学の選択だったんですけど、こちらの方は「進路に必要だから」。うちのクラスは「他の教科より数学の方が通る確率*2が高いから」だったみたいです。
そこからはもう、毎日が祭です(笑)。で、祭には祭で返すわけで。
わたしの方はといえば、家庭訪問の嵐です。といっても、たいした理由で行くわけではないです。いまでも覚えているのがこんなパターン。
「今日、ゴミ捨てSな」
「わかった」
で、ゴミ捨てに行かない。すると家庭訪問。
ピンポーン…。
「はーい」とお母さんの声。
「あの、担任の◯◯ですが」
「え!先生!うちの子、なにかしましたか!」
「いや、ゴミ捨て行かなかったんです」
「はぁ?そんなことで」
で、本人が出てきます。
「こら!今日ゴミ捨て行かへんやったやろ!今すぐ学校にもどってゴミ捨ててこい!」
「先生、かんにんしてぇな」
「ほな、明日朝一番やで。チェックするしな」
「わかったし。ごめん」
「ほなな」

一方、校区内に住んでいたので、たまには生徒を家に呼びつけます。
「こら!お前、なんでホームルームさぼんねん」
「先生、ごめん」
「お前な。オレがどういう思いでホームルームやってるか、わかってるやろ*3
「わかってる」
「もうな、はがいいんや!」
と平手打ちをします。ところがはずされてしまいます。で、もう一発。
そこからは、ふたりとも涙でぐちゃぐちゃです。
「すまん。つい手ぇ出してしもた。すまんかった」
「ううん。ええの、先生(涙)」
「ええか、もうホームルームさぼるなよ(涙)」
次の日の朝、学校で顔をあわせたら恥ずかしいのなんのって。ふたりして学園ドラマやってましたから。
「き、きのうはどうも」
「どうも」
みたいな。

まぁそんなことをやりながら、夏休みに突入していきます。
(続く)

*1:つーより、もっとひどい

*2:=卒業できる確率

*3:確かこのときは同和学習かなんかでしたわ

92年度卒業生の思い出・その2

で、スキーに行きすぎた翌年。
見事に担任をはずされましたよ(笑)。まぁしかたないでしょうね。年給を使い果たすほど行きましたから。
年度当初、なんしかふてくされて「仕事はしない」宣言です。いま考えると、ようあんなこと言っていたなぁ、と。
それでも、同和学習では即席の教職員劇をしたりして*1、それなりにいろんなことをやってはいたんですが…。
で、そんだけふてくされているんだから、その次の年も担任をはずされるだろうなぁと思っていたら…。
(続く・笑)

*1:「牛の敵討ち」という教材を劇化したんですよね

92年度卒業生の思い出

おとといのコメントに触発されて、「あの頃」のことを少し…。
わたしがはじめて担任を持ったのが、「92年度卒業生」のみんなでした。
それまで新採から4年間、担任を持てなかったんですよね。まぁ、諸事情いろいろあったんだけど、念願かなってようやく持てた担任でした。こんな頃ね(笑)。
このときの担任団はすごかった。
それまでは、「校長様」の「お覚えのいいお方」のみを担任にしていたのに、突然「やけくそか?」とみんなで顔を見あわせるほど自由奔放な人ばかりで構成された学年団でした。まぁ、後から考えてみると、そんな人間にしか担任できない子どもたちだったという話もチラホラありますが(笑)。なにせそれまでは、まぁ「ええ子」が多かったんだけど、この学年、中学校時代に番をはってたとか、高校になってから暴走族とつきあっていきなりデビューしたとか、けっこう元気な子がいましたから。
でも、なんだかんだ言って、89年ですから。まだポケベルもなかった時代ですから。のどかなもんでした。
今でも覚えているのが、はじめての同和学習の時間。同和部から「各担任が自分の思いを2時間語れ。以上」という教案(笑)が出され、みんな「何を語るねん」ととまどいながらも、これから3年間の同和学習への思いをみんなで必死で語りあいました。
ある担任は、得意のギターを持ち出して「手紙」を歌う。ある担任は、自分の見合いの時、親が興信所を使ったことを語る。わたしはというと、それまでの4年間たまりにたまった自分の思いを語ったような気がします。
そうそう。ウチの学校ではやっていなかった「全戸家庭訪問」もやりました。
ウチの学校では、夏休みは保護者を学校に呼んで三者面談をします。でも、それではおもしろくない。なので、どれだけ「迷惑や」と言われようと、みんなの家をまわりました。すると、いろんなことがわかってきます。家の中でのその子の立ち位置や、親との関係。家の中の雰囲気。そんなことはもちろん、その子が育ってきた背後にある「地域」なんかに触れることもすごく楽しかったし、必要な情報だったなぁと思います。ですから、夏を過ぎると、ある子どものことを考える時、家のたたずまいや家のまわりの風景、そんなものがトータルで頭の中に思い出されるようになりました。
一方、ある在日朝鮮人の子どもの「わたし一人でなくてよかった」という言葉と出会ったのもこの年でした。その言葉をきっかけに、在日朝鮮人の子どもたちが集まるクラブをつくりました。ムラの中で学習会を本格的にはじめたのもこの年でした。そして、その学習会に集まった子どもたちのうち3人ほどを「全国奨学生集会@水上温泉」に連れて行きました。一人は、わたしのクラスにいた「中学校時代に番をはっていた」ヤツ。なんでも、「木津川河川敷の決闘」という、ごく一部では有名なことを中学校時代にやっていたそうな。
家庭訪問にしろ、クラブにしろ、学習会にしろ、全奨にしろ、そういう場所で出会う子どもたちは、学校の普段の姿とは全然違います。そういう子どもたちの姿との出会いが、わたしを育ててくれたような気がします。

一方、わたしがスキーにのめり込んでしまったのもこの年。
たまたまいつも行っているスキースクールから「今年はスタッフで来い」と言われ、「タダでスキーができて、もっとうまくなれるな」とスケベ心を出したのが運の尽きでした。結局、シーズンの最後には資格もとることになってしまいます。まぁそこまでスキーに行くとどうなるか…。次の年、思いもよらないことが起こるのですが、それはまた…。