アウティングとかリベンジとか

朝、職場に行くと、被曝日であることが判明。めんどくさいな。てか、13時って出張に出るつもりだった時間やん。ヤバイな。
とりま、今日行くつもりの朝田善之助記念館に電話。
「あの、この間そちらに電話したのですが、今日、理事の方が来られると聞いたのでうかがいたいのですが」
すると返事は
「まだ理事の方が来られてないので、のちほど電話させていただきます」
とのこと。とりま授業に行って帰ってきたところに電話です。
「はじめまして。いつきと申します」
と、返事は
「理事の竹口です」
竹口さん!」
一気に緊張感がほどけました。
「あの、今日、行きたいんですけど」「おいでおいで」
ということで、残りの授業をこなして行くことになりました。なにせ、午後の授業を午前に振り替えたので、ここでダメだったらややこしいです。

で、出発前に被曝です。
受付に行くと、すでにひとりおられます。ウダウダ話をしながら待っていて、やがて受付開始。前の人を見ると、受付票の性別欄に○をされてません。と、受付の人、「○してください」とか言ってます。めんどくさいな。この歳でこういうめんどくささかよ。まぁでも、このめんどくささは、書類上の税別表記が変わっても変わらんだろうな(笑)。
で、わたしの番。
「えーと、ここに○を」
めんどくささがマックスになったところで
「あぁ」
と言われて、○が免除になりました。おかしいな。
で、受付名簿を見ると、わたしの名前の横に鉛筆でチェックがしてあります。なるほど、配慮対象なのね。でも、これはアウティングだな。で、性別欄が無印の受付票は放射線技師のところにも行くので、これまたバレるわけだな。
別の意味でめんどくささがマックスです。
てか、そもそもこの性別欄はいるのか?最近、メッチャ多いんですよね。だって、性別によって肺の数が違うとかないですやん。ちなみに、被曝前の着替えのために必要とかいうことがあったとしたら、互いが互いの性別を「知ってる」職場においては、それぞれが判断するから必要ないんですよね。
まぁ急ぐからこれは保留にして、出張です。

てことで、朝田善之助記念館に到着。せっかくなので記念写真です。

で、竹口さんと久しぶりにご対面。
前に講演を聞いたけど、あの内容は、竹口さんの膨大な知識や経験のほんの一端ってことがよくわかりました。ちなみに今回は研修会の講師のことで相談に行ったのですが、考えてみると、講演する人のところに相談に行くってすごく失礼です。でも、そんなことはおかまいなしです。
そういう人柄もさることながら、ほんとにすごいですね。理論はもちろんのこと、経験もすごい。その両者があることが、それぞれをパワーアップさせてます。
とにかくいろんな人のことを教えてもらって、すごい収穫がありました。
ついでに記念館の中を案内してもらいました。たぶん非公開の資料室なんかも見せてもらって、最後に再現された朝田善之助の部屋の前でしばし話。
「この風景、懐かしいですか?」
「そりゃ懐かしいよ!」
なんでも、オルグとか街宣とかやったら、みんなここに集まって勉強したんだとか。まさに「朝田学校」というヤツですね。
さまざまな評価はあるにせよ、とにかく知らなきゃならんなということをヒシヒシと感じたひとときでした。
最後に連絡先を交換。
「また「出てこいや」って誘ってくださいよ」
「そやな」
ということで、おいとま。
今日来てよかったな。

あっちに座りたかった

今日は午前は歯医者の日です。こないだ詰物がとれて、やっとです。
とれた詰物を歯医者さんに渡したんだけど
「あれ?おかしいな。どう見てもこうだよな」
ってやってはります。つまりうまく入らないと。
「虫歯もあるし、つくりなおしますね」
ということで、速やかに麻酔を打たれます。うまいわ。はじめにチクリとしただけです。でも、身体に力が入るのは条件反射ですね。
あとは削りまくって型をとって仮詰めして終了。来週もっかい来たらいいってことかな。

ここから移動開始です。目指すは京都府最南端の町。今日はここのガッコで某人権教育研究会の会議です。ただ、楽しみなのは、会議の途中でDARCの見学があることです。
てことで、30分ほど会議をやって、山の下にある木津川ダルクへ。何回か前を通ったことはあるけど、中に入るのはもちろんはじめてです。
中に入って、スタッフの方に
「あの、この間龍谷大学でえんたくに…」
と自己紹介したら
「あー」
とわかってもらえたのはうれしかったです。
部屋に入ると、参加者の皆さんがミーティングをすべく待ってくださっていました。
わたしたちは机から少し離れたところにあるソファで見学です。
やがてミーティングがはじまりました。まずはダルクのパンフレットみたいなのの読みあわせ。そして12ステップです。
そこからひとりひとりが語りはじめられます。まずは
「〇〇」
とアノニマスネームを言うと
「〇〇!」
と返されるのを見て、『アル中病棟』で見たこと、ほんとにやってるんだと再認識したり。
なんか、依存系の人の話を聞いていつも思うのは「さびしい人生でした」って、みなさん口をそろえて言われるんですよね。加藤さんも言っておられたな。
これ、逆に言うと、ダルクと出会って「さびしい人生から脱出した」ってことになるのかな。仲間と出会うって、そういうことなのかな。薬物をやることを通して人とのつながりがどこかで切れる。依存症の回復って、そういうつながりの回復でもあるんだろうな。そしてそれは、たぶん依存症の人だけじゃなくて、例えばトランスの子どもたちや在日外国人の子どもたちも同じなんだろな。もちろん違うところもいっぱいあるんだろうけどね。でも、例えばとーますの話とか読むと、やはり、つながりの回復なんだなって気がします。
ミーティングのあとは質問タイム。わたしもマーシーのことを聞いてみたり。そうか、マーシー、捕まる直前は日本ダルクに行かなくなってたんだ。しんどいな。
壁に貼ってある紙を、許可をとってパチリ。

拡大!

こちらも!

なんか、ココルームの天井を思い出しました。

帰る前に
「みなさんの話を聞きながら、実はわたしもこっちに座りたいなと思ってました」
とか言ってみたり。もちろん「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではなく「ツッコミあり」ではあるけど、わたしが日常的にやってることでもあるし、依存症の回復者の友だちもいるしね。

てことで、木津川ダルクをおいとまして、学校に帰って会議再開。まずは感想の交流です。みなさん、「行ってよかった」と言っておられました。そうなんですよね。会わなきゃわからない。なんでも、木津川ダルクができた時に、学校の中に「心配」する声があったんだとか。たしかに幻聴さんとともに生きてる人もいるかもしれない。でも、そういう人がいないことになってるこの社会で、幻聴さんとともに生きる人と日常生活で出会えるこの学校の子らは、幸せなんですよ。
そんなことを話して、あとは会議をさっくりやって、5時前に終了。

ここからまたまた移動開始です。向かうは大阪駅。ここでKうさんと合流して燃料補給。

と、Hりさんも来られたり。
そんなこんなで、恒例の会議です。今日はけっこうあっさりめに終わって、恒例の飲み会。こちらもわたしはさっくりあがりましょう。
それでも帰ると0時前。さぁおべんと詰めて、さっさと寝なくちゃ。

サルベージしたら見つけた

今日のフィールドワークに触発されて、昔のフィールドワークの資料を探してみるなど。すると、ありました!
遠足のしおり
さらにこんなことも書いてたんだな。
学級通信第6号」は「震災の爪痕(その1)」です。ちなみに「その2」は出ませんでした。
学級通信第7号」は遠足前の注意事項。なにやってるんだ?この教員www。
学級通信第10号」は振り返り(その1)です。
学級通信第11号」は振り返り(その2)です。
それにしても、暑苦しい。そしてなによりすごいのは、この暑苦しい教員につきあってた子どもたちです。
まぁ、そんな感じですね。

今年は長田

今日~明日、日教組の近畿・中国・四国ブロックの女性部長会議があります。ちなみに、去年は「山登りの翌日」に山口に行き、おととしは京都で迎え撃ち、その前の年は小豆島に行きました。
この女性部長会議は必ずフィールドワークがセットであります。今年は鷹取に行くんだとか。ここ、かつてきたことがあります。サルベージした資料によると、1996年5月2日に来ていたみたいです。
てことで、とりあえず元町に行って昼ごはん。

八宝菜、とろみがないけどうまい!

で、集合場所へ。ところが1時間早く着いてしまいました。まぁええか。ゲンコでもやっつけましょう。
やがて集合時間が来たので受付をすませて、そこから鷹取へ移動開始です。降り立った鷹取駅、なんとなく25年ほど前に来た時の感じが残っています。なんでも、このあたり、全焼区域と全壊区域がテレコになっているみたいです。そんななか、ところどころに昔のままの建物があったりします。
これは、当時ボランティアの人が地元の人を元気づけようと書いたペイント。

このレンガはお墓の塀ですが、昔のものと新しいものが混在しています。

大国公園。

そう言えば、遠足の時ペーパードームに行くのを希望しなかった子らに「ここで遊んどけ」とか言ったよなぁ。ここに震災当時の電灯が残っています。

旧鷹取商店街。今はまったく変わっています。

そして、鷹取教会へ。あれ?礼拝堂、こんな感じだったけ…。

でも、やはり紙の芯を使って建物が建っています。

チョゴリを着たマリア像。

ベトナムの服を着たマリア像。

和服のマリア像。

あ!昔のペーパードームの写真が!これですこれです。

奇跡のキリスト像。

焼け残ったのが奇跡なわけではなく、ここに「人のつながり」ができたことが奇跡なんだとか。

あと、FMYYの中を見学して、金秋子さんの話がはじまります。
とにかくメッチャたくさんのことをしておられます。でも、元はというと、「ボー」とした大学生だったんだとか。それが、地域に住むさまざまな人と震災を通して出会って、そこから今の活動に入ってこられたんだとか。その経験から出てくる言葉はおもしろいです。
例えば、長田は元々ケミカルシューズをつくっていた街ですが、町全体がひとつの工場のようだったんだとか。なるほどな。そうやることによって、街の中をお金がまわる。すると、町全体が豊かになる。すると、街の中に人々が行き交うようになる。
あと、印象的だったのが、最初に話された「街の中にある多文化を発信する」ということかな。つまり、外から持ってくるんじゃなくて、もともとある声を発信する。そうなんですよね。それは学校も同じです。
とにかく、あまりにも盛りだくさんなので、覚えきれません。そうそう、「1.17KOBEに灯りをinながた-今、伝えたいこと-」は見なくちゃ。
そんな感じで話を聞き終えて、外に出るとすでに暗いです。なんでも予定よりも1時間くらいたくさん話してもらえたんだとか。でも、このあとのフィールドワークがキャンセルになってしまいました。
阪神高速。

なるほど、これはコケるわな。
そして、鉄人28号。

「よっるーのまっちーにがおー♪」
ということで、今年のフィールドワークはおしまいです。

消えゆく街

朝起きると8時前。よしよし。睡眠時間は7時間。もっとも、どうやら2階に上がって横になった瞬間に倒れたようで、4時に目が覚めたら電気がつきっぱなし、6時に目が覚めたらスマホの充電してなかった。そんな感じだったので、細切れの7時間ではありますが…。
朝ごはんは、もずくのスープと小さなチーズトースト。ひとつはゴーヤとじゃこ。もうひとつはニガナとじゃこ。おいしい…。
しばしゆんたくして、2階に上がってブログの更新でもしましょうか。
その後、いつも行く「大城ストアー」に行って、いつも買うスーチカをゲット。ついでに、「ゆしどうふ、送れますか?」と聞くと「送れるんじゃないかなぁ」ということだったので、ゲット。さらに、卵ポークもゲット。いい買い物ができました。
帰り道、ふと思いついて、あたりをグルグル。
実は、今回来て一番おどろいたのは、ブルドーザーが入って建物の取り壊しがはじまっていたことでした。なんでも、立ち退きが決まって、ここに公共施設ができるんだとか。まぁ、もちろん時代の流れもあるし、今住んでる人たちの気持ちやニーズもあるだろうし、しかたないっちゃしかたないんですが、やはりショックです。というか、「なくしてええんか?」「なかったことにするのか?」って気持ちも湧いてきます。
「あと2回来たい」と思った「ryuukyu.com」もなくなるんですね。そう思うと、つい写真を撮りたくなるってものです。

PIN UP」もなくなるんですね。なので、やっぱり写真。

タクシー屋さんもなくなるんだろうなぁ。

そして、この街並みも。

かつてここに人が座ってたのかな。

組合の証。

講習ってあったんだ。

きっと来年来た時は、この街並みはないんだろうな…。

そんなことを思いながら野入さんのお家に帰って、しばらくしたらYーいちが来ました。
途中、「平敷兼七ギャラリー」に寄りました。ここなら「あの街並み」を見ることができます。Yーいちにもそのことを伝えたいな。と思ったんだけど、去年来たことを話したら、なぜか盛り上がって、記念写真をとってもらいました^^;。
そして、那覇の食堂へ。「フーチャンプルー」をふたりでわけわけ。

そして那覇空港へ。
さてと。しばしのお別れですね。

大宜味村への遠足

朝6時に目が覚めました。7時からスタンディングのはずですが、まったく動きがありません。どうしたもんだろ。いちおう「スタンディング→琉大まで送ってもらう」って話だったけど、これはあぶないな。
てことで、7時半くらいに置き手紙だけして、こっそりと「そいそいハウス」を脱出しました。
そこからバス→タクシーを使って琉大へ。いろいろ探して、教室に潜り込めました。

てことで、「基礎演習」です。去年も参加させでもらいましたが、ほんとにおもしろいです。学生の発表は、やはり未熟です。でも、野入さんの仕掛けのおかげで質問が出ます。時として「それ、質問と違ごて意見やろ」みたいなのも出ます。それへの返しがおもしろい。
そして、野入さんからの臓腑をえぐるような質問。「わかりません」と打ちひしがれる学生さん。こうやって鍛えてもらえることって、すごく幸せなんだよな。
最後にコメントを求められたので、わたしからはふたつ。
ひとつは「発表者としての皆さんが知っておられることを、聞いている人が知っているとは限らないので、基礎情報は伝えてね」。もうひとつは「調べ学習から研究に移行してね」。
まぁ1年生だからしかたないかもしれないけど、逆になまじ小中高で「調べ学習」をやってきた子らだから、そこから抜け出られないのかなぁ。

「基礎演習」が終わったところで、恒例のフィールドワークです。車を出してくださるのはT村さん。3人で楽しくドライブです。車中で
「プレゼンの雛形みたいなのは出されないのですか?」
と聞くと
「出しちゃうとみんな同じ型になってしまうから、あえて出さない」
とのことでした。つまり、自分で調べろってことですね。

で、車は一昨日いた名護を通って、愛楽園を通って、さらに北上します。到着したのは「笑味の店」です。
大宜味村は長寿の村として知られていて、その長寿を支える食をだしてくださるのがこのお店です。お店で出す食材は、ほとんどが自分の畑でとれた野菜です。そのためは、火・水・木が定休日。おそらく畑仕事をしたり、仕込みをしたりしておられるのかな。
お店の裏は、ひたすら山です。山原ですね。

わたしがお願いしたのは「くふぁあじゅぅしぃランチ」です。

野入さんとT村さんは「まかちぃくみそうれランチ」。

うーん、失敗したかな。でも、たぶん多すぎるな。と思ったら、野入さんがタケノコの料理を、T村さんがテビチをわけてくださいました。ほんとにすみません。
なんかもう、どこまでも身体に優しいんですが、あまりにもおいしいです。くふぁあじゅぅしぃ」にシークヮーサーをしぼると、これがまたおいしい。食べることで身体が元気づくってよくわかります。こうやって、少量の野菜を、その代わり多品種を食べることが身体にいいんですね。
食後は散歩です。てか、畑への案内の地図が笑えます。

「海」「笑味の店」「畑」「山」しかありません。これが大宜味村なんですね。つまり、耕作地がほとんどない。それが大宜味村をつくっていくんですね。

続いて向かったのは「塩屋」です。ここは、世界ではじめて牡蠣の養殖をおこなったところです。ちなみに、牡蠣の養殖がはじめての養殖なので、つまり世界ではじめて「海を使って育てる」ことをしたところです。

ここから石巻なんかに牡蠣の養殖が引き継がれていきました。
それにしても、現在のバラエティはひたすら「日本、すごい!」ってやってますが、それは当然批判すべきことなんですが、なぜか塩屋が紹介されることはないです。それはいったいなぜなんだろうと思います。
そんなことを考えていたのですが、ふと山の方からひたすら「カンカンカン」という鳴き声が聞こえてきます。「あれなんですか?」と野入さんに聞くと「セミです」とのこと。へー、そういう鳴き声なんだ。と同時にもうひとつ気がついたのが、「蝉の鳴き声が聞こえる」という事実です。それをかき消す騒音がない。つまり、ヘリが飛んでない。これが北部なんですね。

お次に向かったのが、「大宜味村役場旧庁舎」です。

これが沖縄初のコンクリ住宅です。メッチャおしゃれです。

これをつくったのが「大宜味大工」たちです。
大宜味村は、とにかく耕作地がない。そこでどうしたか。男性は学力の高い子は医者。そうでなければ大工。女性は芭蕉布です。大宜味大工はすごく高い技術を持っていて、例えば那覇に行って役場の建築関係の仕事なんかも奪っていったとか。那覇大工と争いになることはもちろんありますが、ボコボコにやられても
「あの病院の前でやってくれ。あそこには同郷の医者がいて、助けてもらえるから」
とか言って那覇大工をビビらしていたとか。でも、そのネットワーク力はすごいです。
で、この旧大宜味村役場は、その大宜味大工の総力を結集してつくったものらしいです。ほんとにおしゃれだし、かわいい。
役場の前には、「琉球政府」の溝蓋が!

ガジュマルの木にはブナガヤーが!若干こわい^^;;

隣には慰霊碑があります。

憲法九条をメッチャ押してます。建てられたのは2017年。大宜味村の人々の気合いを感じます。
役場前の碑。

「人材を以って資源と為す」とあります。これが大宜味村なんですね。そういや、かつて日本もこうだったよな。でも、今は人材を使い捨てにする国になってしまった気がします。もう終わってるな。

続いて向かったのは、道の駅。パイナップルは露地物がおいしいんだそうです。

てか、露地物のパイナップルとか考えられません。実は、大宜味村は石垣にたくさんの人が移民に行っていて、台湾から伝わったパイナップルが、その移民の人たちを経由して大宜味村に入ってきたと言うことです。なので、パイナップルは当たり前にそのへんにあるっていうことです。

お次は「田嘉里酒造」です。ここは沖縄最北端の酒造ということです。予約をすれば蔵を見学させていただけるとのことで、T村さんが予約を入れて下さっていました。
ここがおもしろい!案内してくださったのは、若い女性。メッチャ詳しい。
使うお米はこれ。

思わず「インディカ米!」と口走ってしまいました。泡盛はインディカ米を使うんですね。れを山原の水で洗って、黒糀の菌をつける。で、放置して発酵させます。で、蔵の壁や天井が真っ黒です。

これ、どう考えても黒糀の菌とか酵母が住んでます。『もやしもん』の世界です。
で、発酵しはじめたお米をタンクに移して加水します。ここでアルコール発酵がはじまります。

タンクのあたりに行くと、ものすごく香ばしい酵母の香りがぷんとしてきます。それにしても、この香り、しょっちゅう嗅いでるなと思ったのですが、うちの子どもがパンをつくったりする時の香りです。まぁそりゃそうだなと。
お次は蒸留工程です。

最初に出てくるアルコールは、70度くらいなんだとか。その後出てくる水で少しずつ度数を下げていくらしいです。これを寝かせます。

他の酒造メーカーは4ヶ月ほど寝かせて出荷するところもあるらしいですが、ここは最低1年は寝かせるんだとか。そして、奥には古酒のタンクがあります。
そして瓶詰め工程を経て、ラベルが貼られて製品になります。

ということで、試飲タイムo(^^)o

左から20度・25度・30度・30度の3年古酒・40度の5年古酒・44度の5年古酒・10年古酒・17年古酒です。左から順に呑んでいくと、ほんとうに「差」がよくわかります。なにより、30度から30度の3年古酒になったとたんに明らかに味が変わりました。ここからはどんどん味が濃くなり、舌触りがまろやかになっていきます。おもしろい!
と、野入さんが石垣島に行った時の話をしたとたん、社長さんが出てこられました。そこからは、延々と大宜味村の歴史と石垣への移民の話です。なんか、すごい。
野入さん曰く「石垣に移民した人が大宜味の何が恋しいかというと、「水」って答えたそうです」。
車長さん「あー、水はね。向こうからひいていたんだよ」
みたいな。さらに社長さん曰く「「水」っていうのはね、たぶん泡盛のことだ」
マジか(笑)。
さっき書いたパイナップル畑の話も出てきます。なんでも、海の際から山のてっぺんまでパイナップルが植わっていたとか。子どももパイナップルの入ったカゴを運ばなきゃならなくて、頭のてっぺんにカゴの跡がついたそうな。
ところが、そのうちパイナップルの相場が暴落したらさっさとパイナップル畑をやめてしまう。さらにキューバ危機で(笑)砂糖の価格が高騰すると、すぐにサトウキビの栽培をはじめて、またまた海の際から山のてっぺんまでサトウキビを植えたんだとか。
社「大宜味の人は飽きっぽいからねー」
いやいや^^;;。
ちょうどこのころ社長さんは高校生で
「高校が終わったら、サトウキビをトラックに積んだよ。懸垂みたいな感じで投げ上げて、トラックいっぱいで50セントかな」
セント!そりゃそうだ。キューバ危機は返還前です。にしても、こんな話がシームレスに出てくるのがすごいです。
そんなこんなで、結局30分ほど、すごく濃いぃ話を聞かせてもらって、社長さんは退社です。で、「今の方が社長さん?」という野入さんの質問に対して、説明してくださった方が
「はい、そうです。わたしの父です。ショートリリーフなんです」
てことは、この方が次期社長!すごい!
なんでも、ここの酒造、大宜味の人々が共同出資してつくったらしいです。で、お酒ができたらみんなで呑んだと。すると、売る分がなくなったと。これではダメじゃんということで、酒蔵の建て直しをはかって、今の社長さんになったとか。なんかもう、大宜味の人はフリーダムすぎます。そんなことで、ほんとうに地元の人から愛されている酒蔵なので、ここの泡盛は80%は大宜味で消費され、那覇や首里に行くのは20%くらい。県外にはほとんど出まわっていないんだとか。
なので、30度の3年古酒を買って、ついでに次期社長さんが着ておられたポロシャツも買ってしまいました。で、最後に記念写真をパチリ。

次に向かったのは「芭蕉布会館」。
芭蕉布はバナナに似た糸芭蕉の茎の繊維を糸にして織ったものです。原料となる糸芭蕉。

この糸をつくるのがものすごくたいへんなんだとか。今、この糸をつくれる人は大宜味でもひとりしかおられなくて、その方は人間国宝らしいです。
記念館に着いて、作業場の2階に向かう階段で、向こうから白い長靴をぶら下げて降りてこられた98歳のおばあは、なんと人間国宝!しばし作業を見て、下に降りて製品を見て、紹介ビデオを見て、外に出ると、人間国宝が水をまいておられました(笑)。どんだけカジュアルな人間国宝やねん。
ちなみに、大宜味のエイサーは、沖縄県内でも数少ない女性のエイサーだとか。今度の日曜日、2年に1回の「喜如嘉まつり」があって、その時に見られるんだとか。うーん、それを見たら帰れない。残念!

今日の遠足最後のポイントは「共同売店」です。沖縄北部には共同売店があって、一度のぞいてみたいと思っていました。
共同売店の歴史は、日本が沖縄を植民地化した当時、本土から商人がやってきて、山原の木でウチナーの人がつくった炭をメッチャ安く買いたたいて、舟で那覇へ持っていき、帰りは舟で生活品を持ってきて高値で売るという、あこぎな商売をしていたところからはじまります。でも、生活品は買わなきゃしかたないから、やむを得ず買う。
ところが、大宜味の人たちは、自分たちで舟をつくります。さすがは大宜味大工の地です。そして、自分たちで炭を運んで売り、地元の人々から必要な生活用品を聞いて、それを仕入れて売るための共同売店を、自分たちでつくったんだとか。しかも、その共同売店は、本土の人がつくった共同売店の隣につくる。そうやって、本土の人の共同売店を駆逐していった。ほとんど、共産制です。
現在は、栃木から移住してこられたヤチムンをつくっておられる芸術家の方が共同売店を運営しておられるとのことです。ここでなにかを買おうかと思ったけど、考えてみたら地元の人の要望で仕入れてきたものなので、あまり買わない方がいいですね。なので、炭酸水を買うことにしました。で、裏にあったベンチでしばしゆんたく。ひと息ついたところで、さぁ帰りましょう。

野入さんの家に帰って、おいしい手料理をいただきます。

いつもびっくりしますが、チャチャチャとつくられます。そしてヘルシーでおいしい!
と、間もなく、Hでぼん登場。久しぶりです。てことで、またまたゆんたくしていると、Hでぼんが突然「いつきさん、マッサージしなくていいですか?」と、ありがたいお言葉を言ってくださいました。
てことで、少し脚を揉んでもらうなど。で、12時くらいにHでぼんは帰って、野入さんと1時くらいまで話をして、長い長い一日が終わりました。
あぁ、刺激的な一日だった。

今回の研修・国立療養所沖縄愛楽園

朝、7時45分にスタートだとか。早い(;_;)。
で、とりあえず名桜大学へ。カフェでモーニングです。食べ過ぎた(;_;)。
しばしメールへのお返事をした後、1回生のポスター発表の見学です。LGBT関連がふたつあって、関心の高さを感じました。が、参考文献がネットなのがさびしいなぁ。まぁ、しかたないか。
それ以外に、名護市営市場の発表もありましたが、市場のはじまりが内地の人のお店だったというのを知ってモヤっとしたり。あと、ハンセン病のポスターがあって、「正しい知識を持つことが排除せずにすむことにつながる」みたいなことが書いてあったので、これまたモヤっとしたり。なので、思わず「隔離政策を支えたのは一般の人々の善意なんだよ」ってツッコミを入れてしまいました。
てことで、ポスターセッションが終わったら、せっかくなので「愛楽園」に行くことにしました。なんでも名桜大学にはハンセン病を専門にしてる伊波せんせいって方がおられるとか。その方に紹介してもらおうと思ったら
「突然行っても大丈夫ですよ」
とのこと。なので、Yーいちの車で愛楽園へ。
事務所で「あのー」というと、「交流館に展示資料がある」とのこと。交流館に行くと、すんごい展示がありました。数々の詳細な証言や、写真など。そして米軍が撮影した動画とか。頭がクラクラします。
で、伊波せんせいに「園内の案内ってしてもらえるんですかねぇ」と尋ねると、「自治会に行けばやってもらえますよ」と。
「そんなん、飛び込みで行っていいんですか?」
「いいんじゃないですか」
どんなんやねん。というとこで、自治会へ。
「あのー、ここに来れば案内してもらえるって聞いたんですけど」
かなり怪訝な顔で見られながらも
「ちょっと待ってくださいね」
と奥に行かれて、別の人を連れてこられました。
「どこの案内をしてほしいんですか?」
「えーと、あのー」
「時間はどれくらいありますか」
「別に特には。せっかく京都から来たので」
と、驚きの発言が!
「もしかしたら、京都で、同和教育をしておられて、在日外国人教育もされてる高校の…」
「はいそうです。いつきです」
「あー、やっぱり!わたし神奈川で教員やってた時に、京都の全国在日外国人生徒交流会に生徒を連れて行きました」
「あー!」
1993年のことですね。Sずきさんという方でした。
するとさっきまで怪訝な顔をされていた方が、満面の笑みになって
「よかったねー」
と(笑)。
てことで、Sずきさんが案内してくださることになりました。ちなみに、Sずきさんのことは、伊波せんせいが「ハンセン病回復者の戸籍のことで博論書いてる人がいる」って聞いてたんですが、まさかそのSずきさんが知り合いだとはわかりませんでした。
てことで、最初に向かったのは小中学校の跡地です。

なんでも、他の療養所内にも小中学校はあるけど、それらはすべてどこかの学校の分校なんだとか。ところが、愛楽園では屋我地の小中学校の分校にすると、本校の人間も「らい病」と間違われるということで反対運動が起きたんだとか。そこで、当時の琉球政府は「じゃ、分校じゃない学校をつくる」ってことで、政府立の学校をつくったんだとか。そしてその英断をくだしたのが、屋良朝苗であると。サブイボ立ちました。
さらに中学校を卒業したら高校に行きたい。でも、高校は本土にしかない。当時の米軍統治下では、沖縄の中学校を卒業しても受験資格がない。そんな中、本土の高校に連絡をとって、パスポートをとって。ハンセン病の人は船には乗れないけど、それをなんとか乗って、降りられないけどなんとか降りて、そうやって療養所に行って診察を受けて「ハンセン病認定」されることで高校に行く。「赤いマフラーしてる人に会え」という情報ひとつで、とにかく高校に行く。でも、愛楽園のカルテには「逃亡」としか書かれなかったとか。
ほんとにすざまじいなかを生きておられたんだなと。
次に行ったのは防空壕あと。

入り口は貝の堆積物があります。

これで手を切って、化膿して、指を落としてしまった人が多数だとか。さらに、奥には通路と無数の穴があいてます。この穴を掘るために、座った状態でツルハシを振るう。ツルハシの跡が生々しいです。

落ちたゴロタ石を手ですくって外へ放り出す。そういう作業の中で、脚を切断することになったり手を切断することになったりする。
防空壕のおかげで、空襲で死んだ人はひとりだけだったけど、防空壕のせいで手足を失った人がたくさんいたとのことです。
そして、出ました貞明皇后の石碑。

そして納骨堂です。

Sずきさんの話をよく聞くと、死者の話や死にゆく人の話がほとんどです。それが療養所の置かれた現実なんですね。
愛楽園のお墓は、療養所内部にふたつ、そとにふたつあるんだとか。ひとつはこの「平安之苑」で、もうひとつは聖公会の納骨堂です。

さらにカトリックの納骨堂が療養所にあります。カトリックの納骨堂ができた時「死んでまで療養所にいたくない」という人たちが、聖公会からカトリックに変わったとか。そこで聖公会も外に納骨堂をつくったんだとか。
愛楽園の納骨堂には子どものお骨もあります。ハンセン病の人たちへの断種や堕胎は知られてることですが、そういう処置を拒否して、あるいはかいくぐって子どもを産んだ方もおられたとか。でも、堕胎させられた方が圧倒的多数でした。小さな子どもを浜辺に埋めて、後でそのお骨を拾う。でも、お骨を見失うこともある。そんな時は骨の代わりに石を入れたりサンゴを入れたりしたんだとか。
納骨堂の隣には「名もなき子どもの碑」があります。

この碑をつくるにあたっても賛否両論あったんだとか。それを象徴するのが、除幕式での当事者の方の「複雑な思い」というスピーチです。ここに祀られた子は幸せだけど、断種・堕胎が強要されることで子どもが持てなかった人がたくさんいるんですよね。そういう歴史が「なかったことにされる」ことへの怒りみたいなものが、その根底にあります。
ちなみに、この納骨堂は3代目だとか。初代は空襲でやられ、2代目は粗悪な材料でつくったために老朽化が激しく、現在の3代目は入所者の皆さんがお金を出しあってつくられたんだとか。
そして、旧面会所。

かつてはこの面会所を境に、「有菌者」と「無菌者」の居住区がわかれてたとか。そしてその間には壁があったとか。その壁は、物理的には越えようと思えば越えられるんだけど、越えられない。そういうものだったらしいです。
ただ、愛楽園は「外部」に行きやすい。具体的には脱走しやすくて、案外脱走してる人が多かったみたいです。が、もちろん見つかったら、翌日は処罰される。だから、職員が怖かったとか。また、職員も愛楽園で働いていることは人に知られなくなかったんだとか。
なんかもう、幾重にも囲まれた社会なんだなと。
でも、現在はゲートボールの名護市長杯をやったり、外部との交流が進んでるとか。あるいは、どこの療養所でも課題になってる「最後のひとり」問題を、外部の人も入所できるようにすることで乗り越えていこうということも考えておられるとか。
なんか、崇仁みたいな感じですね。
ここから再び戦争の時の話です。
機銃掃射を受けた水タンク。

機銃掃射を受けて穴があいた塀。

沖縄って比謝川に米軍が上陸して、そこから南下していったから、読谷村以南で地上戦があって、それより北の被害はまた別種なのかなと思ってたけど、そういう世界じゃないですね。
ここに書ききれないことが、まだまだあるけど、約2時間のすんごいフィールドワークをしてもらいました。Sずきさん、ありがとうございます!って読んでないだろうけど(笑)。
帰りの車から見た橋。これが「こっち」と「向こう」をわけてたのかな。

で、そこから「水車そば」で遅めの昼ごはんを食べました。テビチ、うまい。

にんにく入りのコーレーグースうまい。

その後、今日お世話になるN入さんのお家へ。「おべんきょ成果」の報告をしたり、あれやこれやと話をしながら、手料理をごちそうになり、ぁゃιぃお酒を呑んでと。

さてと、今日は早めに寝ましょう。明日が本番だ。

「洞村移転の真実」

今日は某人権教育研究会のフィールドワークです。ただし朝は2時間ほど「隙間」があります。どうしたものかと思ったけど、同僚に「年休とろか」って言ったら「休み!休み!」って言われたので、朝は年休です。おかげさまで、少し片づけが少しできたかな。
で、畝傍御陵前へ。
昼ごはんを食べようと思ってた「きみちゃん」は定休日。失意の中ムラ中をさまよい歩くと、たこ焼き屋さんを発見!たこ焼きだけでなく、天ブラもあるので、フクとれんこんを頼みました。
フクでかい!

そして、たこ焼きうまい!

てことで、無事おなかの中にものが入ったので、「おおくぼまちづくり館」へ。
今日案内してくださるのはボランティアの吉住さん。外国人教育の関係で知り合いなので、いろいろやっておられるんですよね。さすがは奈良です。
ちなみに、わたしは洞村に来たのは3回目か4回目です。が、まだ一度も「山歩き」はしてません。今回はやっと行けるとのことで、楽しみです。
まずは前菜の講演「洞村移転の真実」です。「たいしたことない」とか謙遜されてたけど、さすがにすごいです。ところどころに「思想」が出てくる確信犯です。いいなぁ。
で、「山歩き」。今や、人が住んでた痕跡は、庭木にしていたシュロの木と井戸くらいしかありません。あたりは全国から持ってきて植樹した木に覆われてます。この「つくった感」こそが「神武」天皇陵なんですよね。
まぁしかし、この斜面で生活するのと、おおくぼの街で生活するのとどちらがいいかというと、そりゃおおくぼだろうなとは思います。でも、だからと言って、あとから来た「天皇陵」が「どけ」って言うのはアカンやろな。
そんなことを考えながら、しばしの山歩き終了。また探検したいな。
解散後、お友だちの車に乗せてもらうべくフラフラ歩いてると、灯籠発見。
「これなんやろ?」
って話してると、そこで植木を手入れしてたおじさまが
「おおくぼまちづくり館に行ってきたんか?」
と声をかけてくださいました。
い「はい」
お「これはな、踏切のところから持ってきたんや」
い「へー、そう言えば、近鉄はここ通ってなかったんですね?」
お「そうや。オレが小さい頃は向こうの国道の横を通ってた」
つまり、ムラの入り口にあった灯籠が近鉄が通ることで移転されたってことになるみたいです。確かに横を見ると「青年會」って書いてあります。
い「てことは、今は向こうとこっちは近鉄でわかれてるけど、もともとはわかれてなかったんですね?」
お「そうや」
い「ほな、あれも改良住宅ですか?」
お「そや」
なるほどなぁ。聞いてみるもんです。てか、よく声をかけてくださったなと。お友だちが「ブラタモリやな」って笑ってました。
さらに向こうには地図もあって、「大久保町」「四条町」って書いてあって、メッチャおもしろかったです。
案内されたあと、そういう知識を持って、もう少し歩いてみると、いろんなことがあるんだな。

変わっていく町

今日はパタパタする日ってのを覚悟して朝がはじまります。
まず玄関を出てひょいと横を見たら、猫の額ほどの庭の屋根が崩壊してます。崩壊するのはいいんです。基本的には風や雪の対策のために簡単に崩壊するようにつくってます。チキチキマシン状態なんです。が、直すのはめんどくさいのはめんどくさい。ま、日が長くなってきたから、帰ってやりますか。
で、午前は巡回とカントク。その後はこないだ入稿した本ができあがってきたので、それを配布用に仕分けです。それにしても、よくぞ20日でつくってくれたなぁ。ほんとに助かります。
で、午後はウトロのフィールドワーク。今回は新採の人なんかも一緒です。
まずは金秀煥さんの講演です。このご時世、韓日関係にかなりピリピリしておられるのが伝わってきます。具体的には、歴史をどうとらえるのかってことです。なにせ、日本政府そのものが韓日の歴史を政治的な問題と位置づけて、それをもって韓日の関係をつくろうとしてますからね。でも、本質はそこではない。なので、それをどう伝えるかってあたりを随分と考えておられるみたいです。
でも、とても簡単です。「人の生きざま」なんですね。「1965年に政治決着したから、もうすべてなし」ではない。戦争と植民地支配が、人の人生にどういう影響を与えたかってことが大切なんですよね。まぁでも、日本政府はそういうことは捨てるだろうな。だって、日本の原子力政策の中で生まれた福島第一原発の事故が、人の人生にどういう影響を与えているかってことすら捨ててますからね。そういう政府だってことです。
ま、そんなことを考えながら、やがてウトロの歴史に話は入ります。出てくるスライドに、知ってる人がチョコチョコいます。懐かしいなぁ。わたしがウトロをウロウロしはじめたのは1992年です。もう27年もたつんだ。
で、フィールドワーク。うわぁ。ほんとに町がない。西半分は前のままですが、東半分は、ほんとになくなりました。「こっちおいで」って肉を食べさせてもらったガレージもありません。さびしいなぁ。でも、しかたないです。いつ立ち退きか、いつ洪水かって生活ではなくなったんですよね。だからこれからも細く長くつきあいは続けさせてほしいな。
そんなことを感じながらフィールドワーク終了。

家に帰って屋根を直して。家の中に入ると「辛子蓮根来てるよ」。

熊本のY本さんが誕生日のプレゼントとしてくれたものです。うれしいなぁ。
みんなでパクパクというかシャクシャクというかいただきました。

洞部落のフィールドワーク

今日の午前は洞部落のフィールドワークです。とは言え、洞部落は厳密にはすでにありません。というのは、神武天皇陵が建設されるとき「天皇陵を見下ろす位置に部落があるのはけしからん」ということで強制移転させられたからです。これ、完全におかしな話です。そこに部落があるのがわかってて、わざわざ天皇陵をつくって「けしからん」は順番がおかしいです。でも、それがまかり通るのは、いつの時代も同じです。
そういや、今日は沖縄の県民投票だな。
ただ、これが単に「強制移転」と言われてたのは過去の話で、研究が進んだ現在はもう少し複雑です。そんなあたりを福西満さんからお聞きしました。
まぁとても簡単に言うと、今でこそ解放運動は「貴族あれば賤族あり」ってことで反天皇制の立場をとってます。でも、かつては「天皇が解放令を出してくれた」ってことで、例えば水平社の糾弾闘争でも「天皇の御心に背くのか」という論理がとられていたとか。
つまり、洞部落の人たちは「天皇陵をつくるならどうぞお使い下さい」と自分たちの土地をさしだし、そのことをもって差別を解消しようとしたという側面もあったと。さらに、もともとの洞部落は山の中腹にあって、人口に対して狭かったので、新たな土地を得て新たにまちづくりをしようという狙いもあったと。つまり、単なる権力からの横暴とか差別とかじゃなくて、部落の側の戦略もあったと。さらに、1940年に神武天皇陵の拡張工事があった時は、部落ではない村も移転させられていたことがわかって、そうなるとますます「差別」というひとくくりでは語れなくなってきます。でも歴史って、たぶんそういうものなんでしょうね。
それにしても、「移転」というと、「あまべの移転」も思い出すんですが、なぜ好き好んで部落の土地に移転するのかなぁ。もしかしたら、ずいぶんと「眼差し」が違ったのかなぁ。
で、話のあとはフィールドワーク。行ったのは「生國魂神社」と「洞部落跡の入口」です。後者がなぜ「入口」かというと、なんでも「即位30年祭」が行われるので立ち入らないでほしいと言われたんだとか。どこまでジャマするねん。
生国魂神社は中まで入れてもらっていろいろ見せてもらいました。例えばこんなんとか。

で、昔の洞部落の風景を教えてもらいました。なんか、のどかな風景なんですよね。
そんなこんなで、3時間弱のフィールドワーク終了。
それにしても、福西さん、なんでわたしのことを知ってたんだ^^;?