92年度卒業生の思い出・その2

で、スキーに行きすぎた翌年。
見事に担任をはずされましたよ(笑)。まぁしかたないでしょうね。年給を使い果たすほど行きましたから。
年度当初、なんしかふてくされて「仕事はしない」宣言です。いま考えると、ようあんなこと言っていたなぁ、と。
それでも、同和学習では即席の教職員劇をしたりして*1、それなりにいろんなことをやってはいたんですが…。
で、そんだけふてくされているんだから、その次の年も担任をはずされるだろうなぁと思っていたら…。
(続く・笑)

*1:「牛の敵討ち」という教材を劇化したんですよね

なんしか難しい…

去年、突然「呼ぼうと思ってるねん」と言われた高座が今日ありました。もちろん、夜の部です(笑)。
にしても、今日はさすがに緊張します。というのは、ひとつは知っている人が聞きに来られる可能性が大ということ。もうひとつは、仕事帰りの人たちが来られる*1ということ。
前者の方は、それでもなんとかなるとして、後者の方々に笑っていただくためには、それ相応の力量が必要とされます。
で、結論的には…。
「ここはスケートリンクかい!」というほど滑りまくりました*2
終わったあとで「よかったよ」「おもしろかったよ」と言ってくださる方もおられたのですが、やはり「手応え」というものが…。
まぁそれでも「にやり」「にこり」という人もおられたので、よしとしなくちゃなりませんよね。
なんしか、完敗ですわorz

*1:興味を持ってくる人もいるだろうけど、まぁ、「行かなくちゃならないから」という人もやっぱいるわけで…

*2:このネタが滑るくらい滑ったということ

92年度卒業生の思い出

おとといのコメントに触発されて、「あの頃」のことを少し…。
わたしがはじめて担任を持ったのが、「92年度卒業生」のみんなでした。
それまで新採から4年間、担任を持てなかったんですよね。まぁ、諸事情いろいろあったんだけど、念願かなってようやく持てた担任でした。こんな頃ね(笑)。
このときの担任団はすごかった。
それまでは、「校長様」の「お覚えのいいお方」のみを担任にしていたのに、突然「やけくそか?」とみんなで顔を見あわせるほど自由奔放な人ばかりで構成された学年団でした。まぁ、後から考えてみると、そんな人間にしか担任できない子どもたちだったという話もチラホラありますが(笑)。なにせそれまでは、まぁ「ええ子」が多かったんだけど、この学年、中学校時代に番をはってたとか、高校になってから暴走族とつきあっていきなりデビューしたとか、けっこう元気な子がいましたから。
でも、なんだかんだ言って、89年ですから。まだポケベルもなかった時代ですから。のどかなもんでした。
今でも覚えているのが、はじめての同和学習の時間。同和部から「各担任が自分の思いを2時間語れ。以上」という教案(笑)が出され、みんな「何を語るねん」ととまどいながらも、これから3年間の同和学習への思いをみんなで必死で語りあいました。
ある担任は、得意のギターを持ち出して「手紙」を歌う。ある担任は、自分の見合いの時、親が興信所を使ったことを語る。わたしはというと、それまでの4年間たまりにたまった自分の思いを語ったような気がします。
そうそう。ウチの学校ではやっていなかった「全戸家庭訪問」もやりました。
ウチの学校では、夏休みは保護者を学校に呼んで三者面談をします。でも、それではおもしろくない。なので、どれだけ「迷惑や」と言われようと、みんなの家をまわりました。すると、いろんなことがわかってきます。家の中でのその子の立ち位置や、親との関係。家の中の雰囲気。そんなことはもちろん、その子が育ってきた背後にある「地域」なんかに触れることもすごく楽しかったし、必要な情報だったなぁと思います。ですから、夏を過ぎると、ある子どものことを考える時、家のたたずまいや家のまわりの風景、そんなものがトータルで頭の中に思い出されるようになりました。
一方、ある在日朝鮮人の子どもの「わたし一人でなくてよかった」という言葉と出会ったのもこの年でした。その言葉をきっかけに、在日朝鮮人の子どもたちが集まるクラブをつくりました。ムラの中で学習会を本格的にはじめたのもこの年でした。そして、その学習会に集まった子どもたちのうち3人ほどを「全国奨学生集会@水上温泉」に連れて行きました。一人は、わたしのクラスにいた「中学校時代に番をはっていた」ヤツ。なんでも、「木津川河川敷の決闘」という、ごく一部では有名なことを中学校時代にやっていたそうな。
家庭訪問にしろ、クラブにしろ、学習会にしろ、全奨にしろ、そういう場所で出会う子どもたちは、学校の普段の姿とは全然違います。そういう子どもたちの姿との出会いが、わたしを育ててくれたような気がします。

一方、わたしがスキーにのめり込んでしまったのもこの年。
たまたまいつも行っているスキースクールから「今年はスタッフで来い」と言われ、「タダでスキーができて、もっとうまくなれるな」とスケベ心を出したのが運の尽きでした。結局、シーズンの最後には資格もとることになってしまいます。まぁそこまでスキーに行くとどうなるか…。次の年、思いもよらないことが起こるのですが、それはまた…。

激しい日の翌日は

朝、とてもではないけど「爽快」とはいかない目覚め。でも、いい天気です。てことで、午前中は、ちょっとおでかけ。
帰りにビールを買って、「休日の昼のビール」を楽しむことにしましょう。
昼からはパートナーは下の子どもを連れておでかけ。家にいるのは上の子どもとわたしだけ。まぁお互いに好きなことをやっていればいいわけで、ダラダラと新聞を読んで、ダラダラと本を読んで、布団にもぐり込むと寝てしまいました。あぁ、昼寝…。なんという贅沢(笑)。
ここで体力を回復しないと、来週が持たないしな…。

私には「◯◯」がいた/いなかった

今日は、在日外国人教育関係の某セミナー&祝う会。
「「私には浅田先生がいた」をめぐって」というテーマの講演です。
ん〜…。すごくよかったです。
ただ、ものすごく考えさせられたことも、また確かです。

はたして、「わたしには◯◯先生がいた」と、わたしに言えるのだろうか。もちろん、わたしに大きな影響を与えてくれた先生は少なからずいました。でもやっぱり、高校時代、自分自身のことについて「わたしには◯◯先生がいた」ということが言える先生はいなかった。
それは裏返してみると、私が「私」という徴を持ってはいなかった、あるいはその徴をかたくなに出していなかったからでしょうね。そういう意味では、わたしは「◯◯先生」を拒否していたとも言えなくもないかもしれません。
でもその後、「わたしには◯◯さんがいた」と言えるたくさんの「◯◯さん」と、わたしは出会ってきました。その出会いこそが、わたしにとってものすごく大切なものなんですよね。
そういえば、康玲子さんもあとがきの中で「もしもその後たくさんの人と出会っていなかったら、「わたしには浅田先生しかいなかった」というタイトルになっていただろう」みたいなことが書いてありました。そうなんだろうなぁ…。

それと、わたしは子どもたちにとって「浅田先生」たり得ているかどうか。まぁ、本を読むと、まさに「あの頃の学校」における「あの頃の教員」と「あの頃の生徒」の話であって、とてもではないけど、今の話には置き換わらないです。それでも、時代を越えて共通することがあることもまた確かです。そういう意味で、わたしは、「今」の浅田先生たり得ているかどうか。厳しく問われるなぁ。でも、「浅田先生には康玲子がいた」のであって、そういう生徒ときちんと出会うことが、たぶんわたしをまた勇気づけ育ててくれるんだろうなぁ。

にしても、康さんって、文章うまいわ…。

まぁええけどな

今年のわたしの掃除監督の場所は「トイレ」。また微妙です。
てか、生徒のトイレって、両方ともそれなりの汚れ方をします。だって、1日に延べ人数数百人が使うわけですから。もちろん、汚れない使い方をしてくれたらそれはそれでいいのですが、そういうヤツばかりじゃないのがつらいところです。
あと、女子トイレの方は、これまた「突然やってくること」があったりして、こういう時は、しゃーないと言えばしゃーない。まぁ、本当は自分で処理をしなくちゃいけないことなんだけどね。

で、今日の掃除の一コマ。
「先生!終わった」
「ん、便器とかまわりの床とか汚れてへんかった?」
「場外やろ?汚れてへんかった」
「ほかにもあるやん。「突然きたやつ」の跡とか」
「キャハハ〜。なかった。ところで、先生もあるの?」
「そんなもん、干上がっ…。ちゃう(笑)。うるさいわい!」
「キャハハハハ」
そういうのが日常会話ですわ。

しかし、あそこは
「ねーよ、んなもん。うらやましーだろ(笑)」
と返すべきでした。修行が足りませんでした。

まだまだ続く…

昨日寝たのが1時。当然眠いです。朦朧としながらも、とりあえず起きあがってお弁当づくり。
今日は覚悟して職場に行かなくちゃなりません。というのは、昨日の出張が問題でして…。
出張って、行っている間、職場でやらなきゃならない雑務はとまっています。誰かがそれをしてくれるわけじゃないです。さらに、雑務って増えてます。てことは、帰ってきたら普段の1.5倍程度の量の雑務が待っているわけで。
で、職場に着いたら、やっぱりそうでした_| ̄|◯
しかも今日は放課後職員会議。てことは、完全に詰め詰めでやらなきゃならんやんか。

夜の仕事

今年度は、高座は土日と夜を基本にしようと思っておりまして…。
でも、そんなことを考えていたら、夜の仕事が入ってきまして…。
てことで、毎年行っているここのワークショップに行って来ました。
ここ、50分×3で構成されていて、わたしがそのうちの2コマを担当します。しかも、1コマが高座、もう一コマは質疑応答。って、きついです。だって、いらん話ばっかりするもん。なので、いつも2コマ目の途中まで話してしまいます。これでもマシになったんですけどね。
で、公には3時間でおしまいなんですが、わたしが行く時は4時間目まである。しかもこれが一番長いんですよね。今回は4時間目まで参加された方が6人もおられて、すごく盛況。なんかわたしも熱く&また〜りと語ってしまいました。
でも、おかげさまで最終電車に遅れてしまいましたよ(笑)。

人権教育をめぐる講演

今日は、某人権教育研究団体の総会。こんなんばっかしです。もっとも、この団体は職場の団体なんで、完全な仕事ですけどね。
で、午後は記念講演。大阪大学の平沢安政さんが講師です。
この人の話、前に聞いたことがあるんですけど、その時は、あまりにも流ちょうすぎて、「なるほどなぁ」とは思いながらも、「ちょっとうますぎるなぁ」という感じもしました。でも、今回はよかった。というか、こなれていた。まぁ、こんなことを言うのは失礼にあたりますが…。でも、考えが身体化していた感じがありました。
もちろん、平沢さんは研究者ですから、具体的な実践をご自分がしておられるわけではありません。なので「ここはこうしたらいい」というような話ではない。でも、さまざまなヒントをもらえたかなぁ。
いいレジュメだったから、そのエッセンスを一部紹介。

1、「反差別」から「人権文化の構築」へ
 1)90年代以降の人権教育改革の視点
  1、人権を「自分の課題」としてとらえるような学習の促進
  2、人権教育学校をつくる
  そのためには
  →「社会の多様な資源(人、モノ、コト、運動)と連携し、協働する
 2)「世界中に豊かな人権文化を築く」
  1、「いつでも、どこでも、だれにとっても」=人権文化の普遍性
  2、「反差別」から「人権文化」へ=否定形から肯定系へ
  3、つくりだす人権文化
2、わたしの人権観
 人権は普遍的な問題→共通する4つのレベル
 1)個のレベル
  自尊感情自己実現
  (あなたは自分のことが好きですか?)
 2)他者関係のレベル
  多文化共生
  (あなたはさまざまな他者といい出会いを重ねてきましたか?)
 3)社会関係のレベル
  社会的承認・社会参加
  (あなたはこの社会に対してよいインパクトを与えていますか?)
 4)自然関係のレベル
  持続可能な開発、地球環境との共生
  (あなたは自然の恵みに感謝し、謙虚さを大切にしていますか?)
3、人権教育とは
 1)人権教育の4つの側面
  1、人権についての教育
  2、人権としての教育
  3、人権を通じた教育
  4、人権のための教育
 2)「力と資質」=知識・スキル・態度
  知識=ex.リテラシー
  スキル=コミュニケーションスキル
  態度=水平的関係・自他の尊厳を大切にする・社会へのコミット

4以下省略

一番「ふぅん」と落ちてきたのが2番だな。