結果

今年はラジオ番組部門は全滅。まぁ、編集で失敗があったらしいからしゃーないです。来年リベンジといきましょう。
一方、朗読部門では久々に一人予選通過。こちらの方は、わたしは一切ノータッチなので、純粋に子どもたち自身の力で突破したわけです。決勝では9位までに入らなかったものの、たいしたものです。けっこう大きなホールの壇上で一人、朗読をするわけですから、他では得られない経験ができたわけです。きっとこの経験は来年に生きます。
さて、コンクール終了後、ホールの前でミーティング。
「この中で悔しいと思った人」
何人かが手をあげました。ホッとしました。

京都の交通機関

にしても、今日はいろいろあったので、帰りに三条で一杯引っかけることにしました。まぁ時間も時間なので、ほんの1時間。カウンターの向かいの席に座っているおじちゃんがちらちらこちらを見ながら、向かい数人でいろんな話をいいながら笑いあっています。きっと、わたしも楽しませてくれているんだろうなぁ。すなおに暖かい人たちだと思います。この店の客さんは。1時間たって帰ろうと思い席を立ったら、案の定「なんやもう帰るんか」と声がかかりました。今日はアカンねんけど、また来ますよ。
さて、帰り道。京阪に乗ろうかと思い、気が変わりました。「そうだ、バスに乗ろう」。
かつて地下鉄なんてなかった頃、京都の交通機関はすべてバスでした。おそらくそれは今も続いていて、バスの本数はすごく多いです。試しにバスに乗ってみると、座ったままでうちの近くまでつれていってくれました。しかも安い。時間差も+10分。これはいいわ\(^o^)/。

今年はどうかな?

2年連続で全国に行くことができましたが、今年はどうかなぁ…。
なにせ、番組部門はまったく放ったらかしです。たったひとつのアドバイスは「ドキュメントをつくれ」でした。
放送部に来る子って、いくつかのパターンに分類できます。
ひとつは、機械いじりが好きな子。
もうひとつは、声優関係に進みたい子。この子らは、さらにアニメ系とか萌え系とかいろんなパターンにさらに分類されます。
さらにあるのは、文章が好きな子。このパターンの子らは、やはり「ドラマ」をつくりたいんですね。
ところが、ドラマをつくるのって、相当大変です。一昨年全国に行って本当にそう思いました。おそらくドキュメントをつくろうにも、素材がないとか、それをストレートに表現したのでは伝わりきらないとか、そういう「伝えたいこと」を載せる方法として「ドラマ」があるように感じました。なので「ドラマをつくりたい」からスタートしたのではドラマ部門では勝てない。「ドキュメントをつくりたいけどその手法を使わない」くらいからスタートしないとおそらくダメなんだと思います。
さて、過去のクラブの「ドラマ」を見てきたら、これが見事に「ドラマをつくりたいから」なんですね。これでは勝てないな、と。なので、「ドキュメントをつくれ」がアドバイスということにあなるわけで。
ところで、わたしが放送部の顧問として決定的に不足しているのは「読み*1」がわからないということです。なので、ぜんぜん指導なんかもしたことがありませんでした。その甲斐あって(笑)、うちが朗読・アナウンスで全国に行ったのは、、わたしが放送部の顧問になる前。つまり、30年近く前になります。てか、京都府予選すら通過しなかったし。まぁ、練習方法もわからないから放ったらかしですしね。
ところが、今年はいつになく朗読にかける熱意が例年と違います。どうやらわたしのようなええ加減な顧問には頼らないと決めたのか、研修講座に行って勉強して、毎日発声や朗読の練習をしているみたいです。もしかしたらもしかするかも。というか、これで予選通過や全国となると大きな自信になるし、そうでなくても「悔しさ」をバネにするスパイスをふりかけてやったら、今年の総合文化祭や来年のコンテストにつながります。
結果は、明日の午前8時40分ですわ。

*1:「読み」というのは朗読とかアナウンスのことです

今週もおしまい

  • 月曜日

他校生としばし話。トランスをめぐる話をいろいろ考えさせられました。

  • 火曜日

Mりこさんと話。てか、Hさしくんとずっと話してたかも。結局ワインをふたりであけてしまいました。ん〜。自分はどうやって「この世界」で生きていくのか。他者との関係をどうつくっていくのか。むずかしいなぁ。

  • 水曜日

血液検査の結果で夕方外出。

  • 木曜日

「まんまるの会」で終電帰り。

で、今日は金曜日。
髪を切ってきました。あぁさっぱりした!

てことで、一週間連続外出達成だぁ\(^o^)/
さすがに疲れたよ…。

coccoからの送りもの

あまりにも職場の机の上がひどいので、ちょっと片づけ。
すると、山の下からコピーが出てきました。2005.5.24の日付がつけられたその手紙の最後には「こっこ」と書いてあります。coccoさんからの手紙でした。あらためて読み返して、「すごい手紙だったんだなぁ」と思いました。
そうやなぁ、いろんな人の思いをつむいであの番組ができたんやなぁ。そんな中に自分も少しだけではあれ参加させてもらったんだなぁ。waveさんに感謝*1
手紙を返したいと思ったまま、もう3年もたってしまいました。いまからでも遅くないかな…*2

*1:あ、久しぶりにwaveさんに会いたい気がする。どうしているんだろう…

*2:つっても、筆無精やしorz

診察のあとは・まんまるの会

今回から「まんまるの会」は2部構成になりました。第1部は「話しあい」、第2部が「食事会*1」。
はじめは10人ぐらいからスタートしてまたーりと話しあっていたんですが、あとからあとから人が来られます。気がつくと、20人を越していたんじゃないかなぁ。
それぞれがそれぞれの「しんどさ」を抱え、そして、それぞれのスキルでそれをこなしておられます。そういう「生き方」を交流させることで、わたしたちには多様な生き方の可能性があることを、互いが見つけあいます。そんなことを感じさせられました。
だからこそ、第2部が楽しい。と同時に、第2部があるからこそ第1部がある。この場を大切にしたいなぁとつくづく感じました。
気がつくと、あっという間に10時を過ぎています。終電の時間が間もなく来ます。まだまだみんな騒いでいるけど、ボチボチ帰らなくちゃ。

*1:宴会

病院巡り・T井

今日はずいぶんとペースが速いです。
4時ごろにT井に到着。待合室に行くと…。
なんやねん、このメンバー!知ってる人ばっかりやん。しかも、病室から出てきたのも知ってる人。後から来た2人も知ってる人。みんな「まんまるの会」のメンバーですがな。ひどい話や…(笑)。
でも、3年前には考えられなかったよなぁ。待合室でダラダラ話をしているなんて…。つくづく「まんまるの会」をやってよかったと思いましたよ。本の続きは読めなかったけど(笑)。
で、O田さんとご対面。
O田さん「あの、お願いなんですが」
わたし「はい、どうぞ」
O田さん「MMPI、やっていただけませんでしょうか」
わたし「いいですよ」
O田さん「実はですね、ホルモン投与前と投与後の比較をしたいんです」
わたし「いいですけど、変化あるかなぁ…」
まぁ、2004年2月のことですから4年も前です。いろいろあったから、変化はあるでしょうが…。
たぶんそれって、ホルモンによるものじゃないですね。それ以上に、家族との関係や職場でのこと、さらにはいろいろな人との出会いなど、社会的な要因の方がはるかに大きいです。もちろん、そうした関係がつくれるようになった中に、あるいはホルモンの影響はあるかもしれません。でも、あくまでも直接の関係というよりも、間接的な関係だと思います。
まぁ考えてみれば、SRSもそういうもんだと思うんですよね。あるFTMの友だちが言ってました。
「SRSなんて趣味だと思わないとやっていけない」
たぶんそうなんでしょうね。SRSをしてもしなくても十分に社会生活ができる。でも、自分の身体との折りあいはそういう問題ではない。だからこそ、やる必要がある。その友だちが言っていたのは、そういうことなのかな。
そういえば、昨今タイへのルートをアクセスしやすくしようとする動きがあるみたいですけど、そこへの懸念みたいなものもありますね。
かつてだったら、いろんな人をたどり、つてをたどってようやく到達をした。逆に言えば、SRSをするためには、そういう「人をたどる」「つてをたどる」スキルを必要としたわけです。これは、和田さんも言っておられたことのようです。必ず紹介状を必要としたのは、「そういうスキルを持つ人じゃないとできない」ということだったようです。
ところが、そういうスキルなしでできるとしたら…。
なんか自分の中でそうとう矛盾しているのはわかるのですが…。まぁ、おいておくことにします。

病院巡り・H方

授業や会議をサクッと済ませて、いったんお家へ。しかし、病院に行くのになぜバイクじゃダメなんだ(笑)?>自分
病院に着くと、意外と待合室が空いています。これは早そうです。とりあえず、学校の図書室で借りた『鹿男あをによし』をパラパラめくります。いや、おもしろい!『鴨川ホルモー』もおもしろいけど、これもおもしろい。なんかひさしぶりに小説を読むなぁ…。
にしても、作者は「万城目」なんですが、ずっと「まんじょうめ」と読むんだと思っていたら、「まきめ」だったんですね。しかも、「まんじょうめ」も「BANJOME」だったんだ…。まぁそれはいいです。
さて、女性診療科のIちゃんさんの診察。
まずは、昨日の検査結果を見せます。
Iちゃんさん「ふーん、下がりましたね」
わたし「はい、下がりました」
Iちゃんさん「どうですか?」
わたし「う〜ん、ちょっと少なすぎかなぁという気がします」
Iちゃんさん「どうして?」
わたし「コストパフォーマンスが低いんです」
Iちゃんさん「え?」
わたし「いや、ビールとプレマリンではプレマリンの方が安いから」
Iちゃんさん「あぁ!」
ということで、1日1〜2錠を好きに呑むという処方箋がでました(笑)*1

*1:でも、処方箋には「1日2錠」です。なので、日数計算をしなくちゃならないんですよね

血液検査の結果

近所のお医者さんが「血液検査、してあげるよ」と言ってくださったので、先週血を抜いてきました。で、今日がその結果を聞く日です。
お医者さん、結果を見ながら「ふぅむ…。健康ですねぇ。この数値が少し高いですが、これは善玉コレステロールで…」みたいな。相も変わらず、見事に矢印がない表です。
で、問題のエストラジオールは…。65。見事に下がっています。
てことで、これまでの推移をまとめてみました。ついでに、他のデータも補足ね(笑)

測定日 E2(pg/ml) プレマリン(錠/日) ビールの本数 ビールの味
2006/8/10 67.3 4 1本弱
2007/2/8 1430.0 5 1本弱
2007/4/10 1386.0 4 1本弱
2007/6/14 587.2 3 1本
2007/8/16 104.1 2 1本
2008/2/14 681.1 2 1本
2008/4/10 418.0 1.5 1本+α
2008/6/4 65.0 1 1本では足りない

ふむ。QOLが一番高いところはあそこだな(笑)。

基準を「否定」におくのか、「肯定」におくのか

どうやら今日、特例法が「改正」されたらしいですね。結局、「現に子がいないこと」→「現に未成年の子がいないこと」になりました。
ふぅむ…。
とりあえず、まずは確認ね。
わたし個人は別に戸籍上の性別を変えようとは思っていません。また、特例法そのものに対して「悪法である」という意見を持っています。と同時に、特例法の適用を受けようとする人を否定するつもりはまったくありません。なぜなら、特例法の適用を受けなきゃ生きていけないほど行きにくい世の中であるというふうに思っているからです。
おそらく、特例法の適用を受けることを希望する人とわたしとの違いは、そんなに大きくはないと思います。かたや、特例法の適用を受けて、とりあえずもう少しマシな人生にしていきたいと思う人。かたや、特例法の適用を受けなくても生きやすい世の中にしていきたいと思う人。いずれにしろ「もう少し生きやすくしたいなぁ」と思っているわけです。

で、今回の「改正」ですね。
根本的には何も変わっていないなぁということが第1印象。
どこかにある「理想の家族像/家庭像」を持ってきて、それに合致しないから「未成年の子がいたら認めない」。単にそれだけのことです。で、変わったのは「子どもが成人したら家庭から離れていくのでまぁええか」という、その程度のことだと思います。
続いての印象は、「子の福祉に反するなぁ」ということ。
子なし要件廃止を訴えた人々の中の少なくない人は、「子どもが成人していないからこそ、戸籍の性別を変更可能にしてほしい」という主張をしていたはずです。
もちろん、子どもたちを扶養していくためにお金を稼ぐには、「外見の性別」にあわせた書類上の性別の方がはるかにやりやすい。これは当然あるわけで。あともうひとつ。
この間父親のことでいろいろなところに電話するのですが、「息子さんですね」と応対されます(笑)。「いえ、子どもです」というのですがね。同様のことが、例えば子どもの学校から電話がかかってきた時も起こるわけで「お父さんですね」とくるわけです(笑)。いえ「親です」と答えるわけで。世間の中の親子関係には、常にそこに「父/息子」「母/娘」というのが付随するように思えるのです。なぜか「親御さん/お子さん」という性別を抜きにした呼称を使うことがほとんどない。
つまり、子どもが成人していないからこそ、親として存在しているからこそ、性別を常に問われ続けるからこそ、戸籍の性別を変更することが「混乱を回避する」ことにつながると、わたしは思うのです。
でも、それは「どこかにある理想の家族像/家庭像」に反するらしいですね。わたしには、その理由がよくわからないです。
さらに続いての印象は、「長いやろうなぁ」ということ。例えば、20歳で子どもができても40歳ですよ。まぁ「やりなおし」がきかない年齢に近づきますよね。「再チャレンジ」ってどこにいったんだろう…。

ところで、子なし要件が必要であるという論の中に必ず出てくるのが「こんなひどいヤツがいる」という話。
なんだかなぁ…。
例えば、ある人への評価を「あいつ、いろいろアカンところもあるけど、こんなエエところがあるよ」とするのか「あいつ、いろいろエエところはあるけど、ここがアカン」とするのか。わたしは前者でいたいと思います。なぜなら、わたし自身が「エエところ」と「アカンところ」を併せ持つ人間だからです。だからこそ、他者への評価も「エエところ」を基準にしたいなぁと思います。
「ひどいヤツがいる」からすべてのそこに属する人を認めないのは、少なくともわたし個人の考えとは違います。「ひどいヤツ」がいるかもしれないけど、「しんどい人」がいるからその人を救うことを優先していこうよという考えのほうが、よっぽど人に優しい世の中じゃないかと思うのですが…。

基準を「否定」におくのか「肯定」におくのか。そのことで、社会のありかたはずいぶんと変わると思うんだけどなぁ。