それでも向き合ったかな

今日は台風が来るかもということですが、なにができるわけでもありません。いちおう停電に備えて充電だけはしておきましたが、それとてどれくらいの意味があるのかな。なにせ基地局がアウトになったらどうにもなりません。一番心配なのはNASですが、これもどうにもなりません。なので、淡々と日常を過ごしましょう。
最近、なんか、スマホのフリックがおかしいので、気分転換にもとから貼ってあったシールをはがしてガラスに変更。小さなホコリがひとつ入ってしまったけど、これを取り除くとホコリがさらに増える気がしたので、そのままにしておきましょう。うん、よく滑る。
てことで、今日はKH Coderをさらにいじることにしました。
おそらくこの手のものは、語り口をそのまま食べさせるんじゃなくて、語順は変えないけど、言葉は整理しなくちゃならんのでしょうね。あとは漢字やひらがなの統一かな。なので、生データをかなり加工しなきゃならんのでしょう。
あとは、語り口のクセみたいなのがあって、それをどう扱うのかが悩ましい。例えば「そうですねぇ」という言葉が合いの手で入るクセのあるデータを食べさせると、それが頻出単語になります。が、意味があるのかないのか。さらに、合いの手のしての「そうですねぇ」に混じって、肯定の意味の「そうですねぇ」があったりすると、これもややこしい。一方、クセとしての「そうですねぇ」がどういうシチュエーションで出てくるのかを考えると、それはそれで意味がある。
まぁこれが分析するってことなのかな。
一度、このブログを分析するのもおもしろいかもしれません。
そんなことを考えながら、今日はもうひとつデータを加工してみました。が、あらためてデータを読み直してみると、キツイわ。壮絶な人生を歩んでおられます。ただ、きっとターニングポイントがいくつもあったんでしょうね。そのターニングポイントがことごとく裏目に出てる感じです。
段落を区切っていくうちにイヤになってきます。これを分析するのか?そんな資格が自分にあるのか?この語りが「どのように語られたか」を分析することの意味がどれくらいあるのか?語られたことは、語られたこととして捉える以外方法はないんじゃないのか?それとともに、この語りを生み出した「その人」の「人生」がどのようなシチュエーションにあったのかということ、あるいはこの語りを通して明らかになるシチュエーションを描くことのほうが意味があるんじゃないのか?そんな思いが首をもたげます。
と、フルボッコ大会の時のあるセンセの
「語りが真実かどうかわからない」
というひとことが蘇ってきます。
結局、そのあたりを行きつ戻りつするしかないのかなぁ。しかし、あのセンセ、インタビューしながら、その語りの信憑性を疑いながら聞いてたのかなぁ…。
そんなふうにしていながら、ふと窓の外を見ると暗くなっています。暗くなるのが早くなりました。今日はこれくらいにしておきましょう。てか、この三連休はこれくらいにしておきましょう。
それでも、この三連休で少し進んだかもしれません。が、また止まるな。止まるけど、脳みそは動いた。
台風、来ないな…。