わたしの関心

今日の授業はふたコマ。まぁ楽勝です。ただ、月曜日に代講に行って、明日自習カントクが入るから、束の間って感じですか。それでも朝から放送室に行って「今日がんばろうね」と。6時間目の生徒会選挙と放課後のリハーサルと、放送部はいろいろ動かなきゃなりません。
それにしても、若い教員は生徒といますね。いいことです。
わたしは生徒とはいない。そうしはじめたのはいつ頃かなぁ。たぶん3回目の担任の頃からかな。となると20世紀の最終盤の頃ですね。放送部もずっと一緒にいたけど、いつの頃からか「任せる」って決めました。任せたら伸びる。生徒会は…。15年ほど前はどっぶりと浸かりこんでました。ただ、それは必然があった。その後若い教員が担当するようになって、わたしはフェードアウトした。それもまたいいことです。
こうやって、表の動きからフェードアウトする。裏でやることって、表にならないから、たぶん人々の記憶には残らない。
そう言えば、かつて「かかわりが中途半端」って言われたことがあります。たぶんどっぷりとかかわること。その子の一切を丸抱えにすること。そんなのが必要なこともあるかもしれないし、そういう話であれば中途半端なかかわりかたしかしてきませんでした。でも、わたしという触媒を介して子どもと子どもがつながって、そこに何らかの変革があるなら、それはそれでいいし、そういうやり方は中途半端になります。楽っちゃ楽だけど、子どもたちの記憶に残らないという代償はあるけど、それはわたしの問題だから、まったくどうでもいい話です。
勤務校についても、いろいろ価値観を変えてきたと思うけど、表立ってはなにもやらないから、たぶん、個々の教員は自分で変わったと思ってるだろうな。それでいい。それがいい。人の影響で変われば、また人の影響で変わる。だから、変わることに「わたし」はいらないし、そもそも存在しない。まぁ、ずっとこんなふうにやってきたけど、それはそれで寂しくもあります。が、まぁ、いなくなっても大丈夫なら、そのほうがいい。寂しいのはしょせんはわたし個人の問題だし、その寂しさはかえってジャマになる。
てかまぁ、たぶんわたしの関心は「ここ」にはないんだろうな。関心はどこにあるんだろ。そもそも関心はないのか。いや、ないことはないか。
その場において、ある人がどのように振る舞うのか。その振る舞いによってその場がどう変化し、また人々の振る舞いがどう変化するのか。わたしがコミットするとするなら、そこに大きな変化をもたらすのではなく、小さな波を起こす。その小さな波が大きな波に飲まれてしまって消えるのか、それとも小さな波として人の振る舞いに影響を与えるのか。そしてそれが場の変化へとつながるのか。そんなのを観察する。
うーん、いやらしいな(笑)。