批判的≠否定的、受容的≠迎合的

それにしても、ふと思ったんだけど、なぜみんな身体加工をしたくなるのかなぁ。もちろん人のことは言えないんだけど、でもなぜなんだろ。
むかーし、anno job logに「性同一性障害の苦痛は変化に対してである」シリーズがありました。あれはかなりうなずきました。もちろん身体加工したければすればいいと思うし、そのことで後悔したらそれはそれだし、まぁ深刻に後悔する人はそんなに多くはないと思いますけどね。ただ、身体加工が人生においてそれほどのウェイトが置かれることへの違和感はつきまといます。あるいは身体加工することが「解」となることというほうがいいかな。
もしも身体加工を「解」と思って実際にやって、思う効果が得られなかったら、次は何を解にすればいいんだろう。「身体加工までやったのにダメだった」というダメージはかなりきついと思うんですよね。
わたしにとっての身体加工は「いろんなことをやった残余」でした。あるいは「差分」かな。もっと言えば「身体加工しなくてもやっていけると思ったからやった」ってことかな。
まぁ、そんなのは「性同一性障害(笑)」ではないという話もあるかもね。「苦悩や苦痛こそが性同一性障害のステイタス」ってことかな(笑)。
ただ、かつてO田さんと話してたけど「身体加工できなかったら死ぬ!」という人と「身体加工しなくてもやっていけると思うけど、やる」って人と、どっちが身体加工への希求度が高いかってことなんですよね。わたしは実は後者だと思ってるんです。これをパズルに例えると、前者は「まず身体加工というピースを置く」ところからスタートする感じかな。だから他のピースを置くこともできる。それに対して後者は「身体加工は最後のピース」って感じでしょうか。つまり、それなしには完成しない。だからこそ希求度が高い。
自称性同一性障害と本物をどう見分けるか」という論文、タイトルはセンセーショナルだしSOC7とは真逆のことを言ってるように見えるけど、案外大切だと思うんですよね。医療者というか「専門家」は、主訴を批判的に見ることが大切だと思うのです。もちろん「否定的≠批判的」です。つまり主訴をさまざまな角度から観察することで、オプションを広げる。「解はひとつではない」ということを提示する。そして本人が選択する。
受容的であることと迎合的であることは違う。
それは身体加工も教育も同じこと。

批判的≠否定的、受容的≠迎合的” に2件のコメントがあります

  1. あのシリーズは、
    身体変化を微分でとらえるか、
    それとも積分か?
    といった考察が目からウロコでした。
    懐かしいなあ。

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