なぜ自分が傷つかないかわかった

こないだ「よくわからん」って書きましたが、ふと思い出したことがありました。
いや、この間の「フェミニスト」によるトランス女性排除の一連の話です。なぜあれを読んで自分が傷つかないのか不思議なんですよね。なぜだろうって考えて、そうかと思ったののひとつは「「~たち」という言葉」でした。ずっとあのこと考えてたからですね。あからさまな排除は受けてなかったけど、常に排除され続けてきてたからなんですよね。もう排除されることに慣れっこになって飽き飽きしてたんです。だから、あんな文章を書いたんです。
でも、逆になぜあんな文章を書けたのか。それを思い出しました。
わたしにとって大切な文章があります。それは2011年に出版された『現代の「女人禁制」―性差別の根源を探る―』の中でわたしが書いた最後の部分です。
この前に「「ロッカールーム」は男性社会の中で疲れた女性たちのアジールである」という意味のことを書いています。そして、そのロッカールームに、例え「性器の形を変えたから入れてくれ」「書類を変えたから入れてくれ」と言ったとして承認されるだろうかということを書いています。他にもいろいろ書いていますが、それはともかく…。その最終節です。

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8、自分のロッカールームをつくろう
ところで、こうした話を女性の友だちに話をすると、必ずしも「そうだね」という反応ばかりが返ってくるわけではない。どちらかというと、「ロッカールームが息苦しかった」という反応が多いことに気づく。
友だちのRさんが、ある日わたしに次のようなメールをくれた。

わたしは、ロッカールームで繰り広げられる「女子」の会話に息がつまりそうでしんどかった時期があったことを、ある小説を読んでて思い出した。
演じすぎて、つくりすぎて、自分がわからなくなる主人公が、いつも、サバサバしていると言われるから泣くこともできなくて、会社一地味だと言われてるカップルの男の側とセックスすることで、ロッカールームで女性たちに袋叩きに会う。そのロッカールームでのまなざしや空気や会話にずっとチクリと痛くなる。
あ~、わたしにもこんなこと、あったなぁ、って。男の前では笑ってる女たちが、ロッカールームに入ったとたん、顔色も声色も変えて、ぐるりと囲んで、セクシュアリティ=人格攻撃するという体験を思い出した。

「おんな同士の気のおけない会話の場」ではないロッカールームもまた存在するようだ。
考えてみると、女性のロッカールーム=男人禁制の場所はたくさんある。更衣のためのロッカールームにはじまり、女性トイレ、女性専用車両、女性専用フロアetcetc…。MtFトランスジェンダーにとっては、そこには常に「先に入っている人」がいる。そして、そこに入れるかどうかは、誰かの承認が必要となる。すなわち、承認する人とされる人という権力関係が存在することになる。
そしてそれは、女性にとっても同じである。たとえば「性被害の対象にならないと考えられる女性」が女性専用車両に入ろうとする時、「あの人は女性専用車両に入らなくていいだろう」という陰口が、男性からだけではなく、女性からもささやかれるという話を、先のRさんから聞いた。
そもそも、「ロッカールーム」の内と外の線引きはどのようにして決められたのか。そして、世間にあふれているロッカールームは誰がつくったのか。それは、既成概念としての「性別」をもとにした線引きであり、ヘテロセクシュアルを前提とした、男性が性被害を起こすことを自らに禁じるために、あるいは「女性専用」を装うことで女性に経済的により多く支出させる目的でつくったのではないだろうか。しかし、こうした「ロッカールーム」もまた、もうひとつのアジール=「既存の枠組みから承認されたもうひとつのヒエラルキー」と言えるのかもしれない。
ところで、先のRさんのメールは次のように続く。

(そんなわたしを)そこから連れ出してくれた友だちがいた。彼女もロッカールームに居場所がなかったから、わたしたちは、別の場所を求めて、さまよってた。「与えられた」ロッカールームの鍵を捨てて、新しいロッカールームの鍵を自分でゲットした。それが、わたしにとっての、仲間たちとの場所や時間かもしれない。だから、いつきちゃんが、自分から鍵をゲットするまでのプロセスが、鍵をくれた人(たち)との関係を変えたりつくったり、という模索や試行錯誤や葛藤のプロセスが、ね。やっぱりいいなぁ、って思うんだ。長くなった。ではね。

ロッカールームを必要とするのは、女性だけではない。いや、「女性」とひとくくりにすることそのものが、既存の枠組みにとらわれた考え方だ。女性や男性のなかにも、セクシュアリティだけで考えても、レズビアン・ゲイ・ヘテロセクシャル・アセクシュアル・バイセクシュアルetcetc…、多様な存在がある。
わたしたちは、誰もが一人一人が氷に閉ざされた存在だと、わたしは思う。そんなわたしたちが、自らの氷を溶かしながらつながり、互いが互いの氷を溶かしながらそのつながりを深め、互いに外へ出て行く力を与えあう場所。既存の枠組みに依拠することのない自由な空間。そんな「ロッカールーム」をつくりたいと、わたしは思う。

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MさんやRさんや、あるいはSさんや、他にもたくさんたくさん、こんな人たちに囲まれているから、今の自分が今の自分でいられるんだろうな。

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