薄さ

昨日帰ったのが12時半くらい?寝たのが1時。そりゃ眠いです。それでもなんとか出勤。荷物が多いのとメッチャクチャな雨なので、車で出勤です。なので、少し早めに到着。ここからは、昨日の出張のデータ処理です。
午前は外部との連絡とり。夏の研修の講師さんとか、夏の研修の講師で行くところとか、あれやこれやです。なーんにもやってこなかったからなぁ。でも、打てば響くように反応があるSゃのうさんに勇気づけられました。

午後からは作文読みです。今年は4月から今日まで合計4回の人権学習があって、その作文が山のようにあります。もっとも、全部があるわけじゃなくて、なぜか読ませてくれない(作文を渡すのを忘れてるみたいです)人がおられて、まぁそれはしゃーないかと。でも、可能な範囲でフィードバックしなきゃなりませんからね。こないだの「話」のときの約束です。
それにしても、薄い。なんか、言葉をいじくってるだけです。中にあるのは「べき論」と「待望論(「差別がなくなる日が来てほしい」みたいな)」。ほとんどの子どもたちが、自分をとりまく現実に触れていない。
でもそれは仕方ないかもしれません。なぜなら、わたしたち教員が自分をとりまく現実からスタートする話をしていないからです。
「人権は大切」「差別はいけない」「考えないことは差別につながる」「無関係ではない」すべて正しい。でも、その一歩先のことを言わないと、伝わらない。なぜなら、そういった言葉が「非現実」だからです。だから、子どもたちも「非現実」の中で作文を書く。だから、現実が出てこない。
そんな中、宝石の原石のようにきらめく作文はあります。そんな作文の中に、その子が生きている現実を垣間見ます。その作文に救われます。そして、そんな作文をフィードバックしたいと思うのです。そのフィードバックは、きっと「次の作文」へとつながっていきます。
そんなふうにして、午後いっぱいを使って作文に付箋を貼りまくりました。
にしても疲れた…。

で、こちら

その後1時間半ほど時間をつぶして、希望者は「minamiこども教室」の見学です。10人近くが残られたのはうれしいです。ちなみに、わたしは4年前に未来共生で出会った教育実習生の方と雑談。その後、山崎さんに「ごめんなさい」して、大阪駅に向かいます。
Kうさんと作戦会議の後に、毎月恒例の会議に出席です。いや、南小学校が今日になったので、「うわぁ」と思ってたんですよね。だって、さすがに「minamiこども教室」の見学、行けないです。でもま、きっとまた機会はあるでしょう。
で、会議のあとは総会。そして呑み会(笑)。
「今日は1時間だけだぞ」
とFくださんから言われて、これはたいへんだと。ピッチをあげて日本酒を飲んで、でもあっという間に帰らなきゃならない時間です。
「帰るぞ!」
と言われ、タクシーで駅まで連れて帰ってもらって、おかげさまで無事家に帰れました。
ほんとに毎月お世話になってるなぁ。ありがとうございます。

多文化な小学校

今日は某人権教育研究会のお出かけ研修の日です。今日おじゃまするのは「大阪市立南小学校」です。なんでも、在籍してる子どもの45%が外国にルーツがあるとのことです。まぁ、そりゃ、学校の所在地がミナミですから当然です。
ちなみにこの日の交渉は、今日のためでした。あの時感じた「伝わってほしい感」はみなさんに伝わるかな。まぁ、山崎校長のことだから伝わるでしょう(笑)。
朝、あいさつした瞬間
「せんせいのこと知ってる人、何人か会ったで」
とのこと。はい、すみません^^;;

午前のプログラムは、山崎さんから学校の概略を聞いたあと、授業見学です。日本語教室も普通の授業も、すべて見せてくださいました。外国にルーツのある子が、日常の風景としてそこにいる。それは、ほんとうはどこの学校でもあることなんだけど、でも、子どもたちが顕在化していることが大切なんですよね。一度5年生のどこの国の子なんだろ、目線が絡まって、思わずニッコリ会釈したら、向こうも「やれやれ」という感じで会釈してくれて、授業にもどったり。「物珍しく見られてる」と感じたのが、はたまた「珍しいヤツに見られてる」と感じたのか。ま、おもしろい。
それにしても、カリキュラム的にむずかしいのはわかるんだけど、カタカナの名前をひらがなで表記してるのは笑いました。
で、昼ごはん。混ぜソバの店で食券買いかけたけど、やっぱりやめて「明治軒」へ。おいしいオムライスをいただきました。

午後はいよいよ山崎さんの講演です。
まずは「目撃!にっぽん ーさやかとりきー」の視聴です。抜粋かと思ったら一本まるまる視聴したのは笑ったけど、でも、一本まるまる見ないとわからんわな。
その後、南小学校の子どもたちが置かれている厳しい状況と、それによって奪われる学力の問題が話されました。そこから学力保障のとりくみへと話は進んでいきます。みなさん、ウンウンとうなずいておられる。まぁ、ここまでは、その気になれば京都でもできないことはない。でも、南小学校の真価はここからなんですよね。
「これだけじゃダメ」と「アイデンティティ保障」へと話が移っていきます。だから言ってるじゃん。大切なんだって。どれだけ学力をつけようとしても、「我々はどこから来たのか 我々はなにものか」をたどることなしには「我々はどこに行くのか」にはたどり着かないんですよね。これまでのありとあらゆる講師さんが、話し方は変えこそすれ、みんなが言ってこられたことです。
さらに山崎さんは「これだけじゃない」と。「学校の外にも場が必要」となっての次のとりくみが「minamiこども教室」です。まさに隣保館学習会です。あるいは「サンプレイス」です。そうなんですよね。学校と家の間に、ひとつ必要なんですよね。それは厳しい生活を背負っている子どもになればなるほどです。その場は、一見「勉強の場」にしか見えない。もちろん学力保障は大切です。でも、それだけなら、子どもたちはお客さんです。実は「勉強」するフリをして、もうひとつやっている。まさに「我々はどこに行くのか」なんでしょうね。
そして、最後に山崎さんが語られたのが「識字」でした。識字で出会ったムラのおばあちゃんの話です。やはり、そこに原点がある。
理論とか「べき論」からはスタートしない、まさに「差別の現実から深く学ぶ」という解放教育の実践にどっぷりとつかれた1日でした。

こないだ3年生対象にやった人権学習の感想文を読んでいたら、気になる作文がありました。「やっぱりこの子かぁ」。わたしの教え子がお母ちゃんの子です。
とはいえ、朝からメッチャしんどくて、放課後ようやく復活基調。クラブに行こうとしているその子をつかまえて
「話しようか」
「えー、いまー(笑)」
「うん(笑)」
てことで、よもやま話。
そうなんだよなー。こういう時間を山のように過ごした担任時代だったよなー。この子、別に授業を担当しているわけじゃないし、まぁ外交的な子なので、だれとでも話はする子なんですけど、自分の「根っこにある思い」を一番話しやすい相手はわたしだとか。うれしいな。それは、きっとお母ちゃんの高校時代にお母ちゃんと山のように話をしてきたことを引き継いでくれてるんでしょうね。
いろんな話をして、
「ありがとー」
「ありがとー」
その子はクラブへ。わたしは職員室へ。
またこんな時間をもちたいな。それもいろんな被差別の立場にある子とね。案外多いからね。

場所は変われど

今日はお友だちのSくんと会うことになってます。
てことで、ロビーで合流して月島へ。いや、なんとなくもんじゃが食べたくて。が、もんじゃはおいしいけど、飲み物がよくない。ということで、ひと通りもんじゃを食べたら「屋根」を探します。はじめは橋の下を考えたけど、河川敷に入れない!あかんやん。さいわい近くの公園に屋根があったので、そこに根を生やして飲み開始。
いやぁ、楽しい!
楽しい時間はあっという間に過ぎていきます。
飲みはじめたのが1時頃。でも、気がつくと暗くなりはじめています。いかんいかん。
てことで、新幹線に飛び乗って帰りました。アホや(笑)。

女子会か?

終わってからの懇親会は、ほとんど女子会です。聾のシンポジストの人とか、そのお友だちとか、足に障害のある人とか、この研究の責任者の人とか。手話ができる人は手話で。できないわたしは「ありがとう」だけ理解しながら、あとは筆談。酔っぱらいの字は汚いです。すみませんm(_ _)m。
そんななかW田さんが「いつきさんも一緒やん」と話した手話に「そうそうそう!」って反応したら、「うわ、通じた、メッチャうれしい!」って反応して、わたしもメッチャうれしかったです。「思い」は「言葉」を通じて伝わる。やはり「言葉」って大事なんだなって、あらためて思いました。
別れ際に筆談で「やきもち焼いてんのよ」とか書かれて、爆笑しました(笑)。

「障害×学校教員」シンポジウム

朝から新幹線に乗って東京へ。とりあえずホテルに荷物を置いて、そのまま歩いて向かうは本郷三丁目近辺。とりま、ここの写真は撮らなきゃならんでしょう。

うーん、なにか物足りない。「富士には月見草が似合う」ではないけど、やはり、もう少し賑やかな方がいいですね。

てのはおいといて、向かったのは小柴ホール。今日は「障害×学校教員」シンポジウムがあります。
にしても、なんでわたしがこのシンポに呼ばれるねんという話なんですが、たぶん「障害概念」そのものを問いたいんでしょうね。というか、わたしのことをよく知ってくださっているKちゅかるさんからの依頼なので、シンポそのものについては安心して参加することができるんですよね。

てことで、シンポ開始。
わたし以外の人は、「ディスレクシア(K山さん)」「盲(N村さん)」「聾(W田さん)」といった、まぁ、ちゃんとした(謎)障害をお持ちの方々です。
まずは自己紹介です。トップバッターがわたしってなんでやねん(笑)。なので「なんでわたしやねん」という、当然のネタからスタートです。
なにせ「障害」と冠するシンポに出たら「やっぱりいつきは「障害」って考えてる」とか「普段言ってることと違うやん。その場その場で立場を変えるやつ」とか「結局いつきは医療モデル」とか、まぁうしろから砲丸が飛んできそうなのですが、実は前々から「障害でええやん」と思ってるんですよね。だって、「障害者解放運動」は「社会モデル」をとっていて、そこに学びながらやればいいと思ってるんですよ。というのは、障害者解放運動における社会モデルは、決して医療行為そのものを排除してるわけじゃない。必要な医療は必要だし、そこへのアプローチはいいんだけど、要は「Nothing about us ,Without us」なわけです。
なので、そんな話を補足。
そんな中で聾の方の自己紹介でぶっ飛びました。
「わたしは自分が障害者とは思ってません。わたしは手話文化を生きているだけです」
これかーo(^^)o
いや、手話文化ってものそのものは綾屋さんの話で知ってたけど、「その文化を生きているだけ」ってのははじめて知ったし、これはすごいなと。てことは、どうやら「障害」はアイデンティティなんだな。つまり、他者から押し付けられるものではなく、自分がそれをどう解釈し
、どうそれとつきあっていくのかみたいな。
そこからはなんかとてもスリリングです。ディスレクシアの方からはカミングアウトの問題が引き出されてきました。まさかここでと思ったけど、「ノンカムフルバレ」の話から、でも必要に応じてカミングアウトせざるを得ない局面もまたあるって話を正直にできたり。質疑応答の中で「ポストモダニズムは障害教員から」みたいな話が出てきて、思わず「お荷物教員(笑)でもええやん」と反論してみたり。なんかとにかく盛りだくさんなシンポで、また何らかの形で報告が出るのを待つしかないですね。
最後に「教員に多様性を開く」って話が出てきて、ここで盲の方が炸裂。「お金です」。いやあ、ほんとにその通り。お金なんですよ。予算をつけないと話にならない。さて、自分は何が言えるだろう…。

多様性は外にあるんでしょうか?
わたしはマジョリティの定義を「他者との違いに鈍感にされている人」って言ってます。本来、ひとりひとりが多様性を持っているにもかかわらず、そのことに気づかれなくされている人たち。そんな人たちが自らの持つ多様性に気づくその延長線上に「開かれた多様性」があるんじゃないか。
そのためには「当たり前」とされていることに疑問を付す。例えば「元気で明るく大きな声の授業がいい」と言われたら、「ほんとにそうか?」と考える。元気ないけどギリギリの体調や精神状態で来ている生徒にとって「朝から元気なヤツはうざい」と思うかもしれない。そんなときに「二日酔いでしんどいねん。大きな声を出すヤツめんどくさいよな」っていう教員がいてもいい。
当たり前のことに疑問を付して、少しずらす。そこからはじめる必要があるんじゃないかと思います。

まぁ、いつも言ってることですけどね^^;;。
そんなこんなでシンポ終了。与えられ期待された役回りに応えられたかな?もしも応えられたら、それはわたしからの恩返しです。

あとで、facebookで次のようなコメントがありました。

横からすみません。懇親会では、パネルディスカッションをずっと見ていたTさん(○○書院社長、わりと辛口)が、「中身が濃かった、おもしろかった」とおっしゃった上で、一人だけ名前を挙げたのがいつきさんでした。それも「社会モデル」の普遍化を体現している人、みたいな意味で。主催者としても、友人としてもとても嬉しい出来事でした。ほんま、ありがとさんでした!  追記:障害学とクィア研究の接点を日本でいちばん考えている(←と私は思う)飯野さんもいつきさんをほめていたなー。

うれしい!もしかしたら、少しは恩返しできたかな。
でも、わたしはわたしの戦線で、これからさまざまな解放運動から学びならやっていくだけですね。

今年はていねいに

ここ数年、ずっと殺伐とした気持ちで人権担当をしてきましたが、ほんとに残り年数が数えるほどになってきて、しかも今まで3年間やってきたこともできなくなって、一からやり直す感じになっちゃいました。
じゃ、立て直そうと。そのためにはどうしたらいいか。府教委のというか文科省のというか、とにかく先を見通した人事の計画をしてこなかったツケがほんとに来ています。でも、しかたないです。そのケツを拭かなきゃ、先はない。
なんか、そんな感じで、今年は積極的に打って出ようかなと。なので、1学期はかなり精神的脳みそ的に忙しいです。なにせ、人権学習は各学年を別日程で組んでいて、しかも1年生は1時間ものを2回組んでいるから、都合4回あるわけです。そのうち2回はわたしがプレゼンして、1回はゆきみちゃんの講演。そして、あと1回が来週にあります。これは担任さんにやってもらいます。ネタは「多様性カード」です。うちのガッコのオリジナル教材です。何年か前にK田さんにものすごくお世話になりながらつくった教材です。でも、たぶんはじめての人にはわかりにくい。なので、今日の放課後に勉強会です。とりあえず担任のみなさんの前でやってみる。
いちおう14枚のカードにプラスして「こんなカードもあるよね」というのを追加です。ひとつは「興梠/李」カード。もうひとつは「JAPANESE ONLY/SAY NO TO RACISM」カード。そしてもうひとつがリオオリンピックのときの「公開プロポーズ」カードです。もちろん裏はヘテロで表がレズビアン。こうやって、同じ内容でありながら属性の違いで非対称であることを伝えると、たぶんわかりやすいはず。
まぁ、そんなことを考えながら準備をして、そしてやってみました。
前なら「プラスするカードは自分で考えて」って言ってました。でも、今年はやめました。だって、考えたことのない人は、そもそも考え方がわからない。それは生徒も教員も同じです。逆に、左利きの人の生きづらさは、考えたことのない人にはわからないけど、でも、右利きであっても「わかろう」とすればわかる。そして、なぜその生きづらさがあるかというところまで深めると、他の「生きづらさ」とつながるところがある。それを関連づけることを、わたしはずっとやってきました。
できれば、そうやって考え生きてきたことを伝えたい。だからこそ、あらためて「わたしはこう考えてるよ」「わたしはこんなふうに世界を見ているよ」ということを、この教材を通して伝えたいなと思ったのです。
そしてなにより、この教材を使って子どもたちと一緒に楽しんでほしい。多様性を考えること、人選を知り考えることの楽しさを経験してほしいなと思いました。なので、「どうしよう…」という不安を少しでも減らそうと。
さてさて。
どうなるかな…。

外飲みはあぶない

夜、デモに行こうかと思いましたが、デモからの飲みはさすがにきついです。今日行かないと後悔するかと思いましたが、どうやら闘いは長いみたいなので、今日は飲みに行くことにしました。
てことで、JC・JK・保護者とわたしの4人のみ。なんだかんだとしゃべって飲んで、アカンな。飲みすぎた。
外飲みは、お酒もつまみも無限にあるからこわいです。よく家に帰れたな、我ながら…。

多様性を身につける日まで

朝起きて「通ったのかな」とネットを見たら、どうやら夜を徹しての攻防が続いているようです。でも、6時40分から本会議再開。ここで採決をするとか。
まぁ衆参の多数が違う状況を「ねじれ」と言い、論議を深めるよりも「決められる政治」を求めてきた先に今の状況があるわけで、ナチスの時代もこうだったんだろうなぁと思いながらの出勤です。そして、職場に着いたら「通ったよ」とのメールが…。

今朝、いわゆる「共謀罪」が成立しました。それも、法務委員会での採決をすっとばして、中間報告という形で本会議に出して採決するという方法です。討論の時間も採決の時間も制限するという方法です。
ここに至る歴史を振り返ってみます。
現在の安倍政権は第2次です。その前の第1次政権のときに「教育基本法」を変えました。「教育基本法」は、いわば教育における憲法のようなものです。もともとは戦前の教育への反省から生まれたもので、「教育は国家権力から独立したものである」ということを謳っていました。しかし、第1次安倍政権によって、「国家が教育をする」というふうに変えられました。
その後、第2次安倍政権になり、「特定秘密保護法」ができました。これはプライバシー保護ではなく、「国家にとって都合の悪い秘密」つまりこれが「特定秘密」です。それを隠すことができるという法律です。そして、いわゆる「戦争法」ができました。これに基づいて自衛隊南スーダンに行きました。その後「日報問題」もありましたね。
そして、次にできたのが「共謀罪」です。
これはなにかというと、昨日までは「犯罪行為」に対して処罰するという考え方でした。ところが、今日からは「するかもしれない」ということで処罰することができるようになったのです。「するかもしれない」とは誰か。そんなのはわかるはずがない。つまり、わたしも君たちも「するかもしれない」わけです。だから、監視しなくちゃならない。
例えばね。わたしたち教員は君たちを信じてます。だから、例えば授業中にスマホを触らないと思っている。でも、もしも触ったら、それに対して「反省文+スマホ預かり」をする。でも、今日からは違います。君たちは「触るかもしれない」と扱われるということです。つまり、教員が板書するために黒板を向いている最中に触るかもしれない。だから、それを監視しなきゃならない。どうするか。例えば教室の前にカメラをつけます。いや、前じゃないですね。後ろです。常に後ろから監視されている。そんな状態になるということです。そしてもうひとつ、こちらのほうがこわい。例えば、とてもなかよしだったふたりがケンカしたとします。その時、片方の人が「あいつを陥れよう」と考える。そして、例えば授業が終わったあとに「先生、あいつ、授業中スマホ触ってたで」とチクる。昨日までは、でも触っているところを見ないと「反省文」とはならなった。でも、今日からはそれだけでしょっぴけることになりました。つまり、他の人から監視されるということです。
こういう時代は過去ありました。それは「治安維持法」の時代でした。その頃罪のない人がたくさん捕まりました。そして、今日から再びそういう時代になったということです。
じゃ、なぜそんな社会をつくるのか。それは、戦争をするためです。じゃ、なぜ戦争をするのか。それはお金が儲かるからです。なぜなら、例えば爆弾や銃弾は消費されるだけの存在だからです。爆弾一発でうん百万。一秒間に何十発撃てるマシンガンで10秒撃ったらうん十万が消費されます。すると儲る。だれが?それは軍需産業です。そして、それを売る人です。そして、そこに関与する国家です。私たちじゃない。だから、そういう人は戦争がしたい。
戦争なんて正義でもなんでもないです。金儲けです。現に、世界中の国々が不況になるたびに戦争をしてきました。そしていまの日本もそうだということです。
だからね。こんな沈みかかった国なんて、さっさと出てください。世界は広いです。そんな世界を見てください。
今の日本は多様性を排除しています。そんな国に未来はありません。例えば錦織選手。あの人は日本から出てアメリカに渡りました。なぜか。それは日本では強くなれないからです。単一な人ばかりのところでは強くなれない。さまざまな民族・国籍・価値観・人種がいるところで、互いに競い合い・学び合うなかで成長するのです。逆にそれがないところは滅びていきます。
今の日本は大学の研究費を出さない。じゃどうなるか。優秀な頭脳は出ていきます。こないだノーベル賞を受賞した科学者は、日本を出てアメリカで研究し、アメリカの市民権をとった人です。あの人がノーベル賞をとったとき「日本人が」って言ってたけどウソですね。
つまりそういうことです。みんな海外に行きます。だから、君たちも賢くなって海外に行って、君たちの能力を発揮してください。
わたしはこの国に残ります。そして、この社会をそれでもなんとかしたい。そして、もしもこの国が多様性を身につけたら、ぜひ帰ってきてください。そして、世界で身につけた能力をこの国で発揮してください。
あぁ、長くなってしまった。じゃ、こないだの宿題、あてますね…。