ゆきみちゃんの講演

今日は2年生の人権学習。ゆきみちゃんの講演です。さてさてどうなるのかな。
とにかく、朝からずっと準備でバタバタ。わたしは協調性がないから、準備はひとりでやるのが性に合ってます。その代わり、片づけは任せますけどね。
で、同僚の車で駅までお迎え。合流して、プレゼンの準備です。
で、あっという間に講演の時間が来ました。

ゆきみちゃんの話、子どもたちに伝わるかな。
前から考えてることですが、強烈な被差別の経験がある人、もちろんおられます。が、すべてのマイノリティが強烈な被差別体験をしているわけじゃない。表面上はうまくやっている人の方が多いんじゃないかな。
でも、うまくやるために、マジョリティの人よりもより多くの労力が必要だったり、場面によって自分を使い分けたり、あるいはたまには自分を偽ったり、心をフリーズドライさせたり。そして、自分を隠したり。そんなことをしなくちゃならない。
わたしはそんなことを強いる社会が「差別社会」だと思っています。そして、そんなことを強いながら「気にせんでええやん」と言うことを「差別に加担すること」と思っています。
で、これ、別に「マイノリティ」と言われる人だけじゃなくて、マジョリティとされる人の中にもいる。だからこそ「差別社会」なんです。
でも、これ、なかなかわかりにくい。その一因は、例えば「いじめ」と「差別」を同じとみなすからです。つまり「差別とは行為である」ということです。たしかに、小さな子どもに対してはわかりやすいかもしれない。でも、わかりやすさの中にはウソが混じる。そのことに自覚的であればいいけど、そんな混じったウソを信じたまま大きくなった人が差別について語る時、それが「行為でなければ差別でない」と伝わる可能性が大きくなる。そしてそれは「社会のありようとしての差別」をないことにしてしまう。
で、まさにいまそうなんじゃないかと思うのです。でも、これを伝えることはなかなか難しい。なぜなら、「わかりやすさ」の引力はとても強いからです。
だからこそ、ゆきみちゃんかなと。「行為としての差別」も語りながら、そこに回収されない「社会のありようとしての差別」も語り、そして自分のマイノリティ性とマジョリティ性を自覚的に語る。さらに、ダンス教室の子どもの話ある。
ゆきみちゃんは、そんな自分の経験と、経験から考えたことをたっぷりと話してくれました。なんか、何度も涙が出てきました。それはたぶん、「わたしの知らないゆきみちゃん」を持つゆきみちゃんとわたしは、それでもいろんなことをやってきた「なかま」だからなんだろな。
ゆきみちゃんが伝えようとして子どもたちに伝わっていないことはたくさんあると思います。それを間に立って伝えるのが、わたしたち教員の仕事です。
なので、明日の授業が勝負だな(笑)。

にしても、最初のスライド「ここにいるわたし「たち」」の写真、これなんだよな。

たしかに「たち」だわ(笑)。