脱精神医療

今日は東優子さんvs康純vs山本蘭という、ガチンコバトル興味深いシンポジウムがあるので行くことにしました。
会場について、いろいろあいさつ。と、そこに鶴田幸恵さん登場。うわ、千葉から来たんだ。
てことで、隣に誘って、一緒に聞くことになりました。
東さんは、国際的(ここでいう「国際的」はアメリカ限定ではなく「国際会議」的)な流れを俯瞰して、そこから日本の状況を「問う」って感じの話でした。
康さんは、精神医療の立場から同性愛の脱精神医療化の話と並置させながら「今の状況」を語られる感じの話でした。
山本さんは、当事者組織の代表として、当事者のニーズに力点をおいて話されるって感じの話でした。
おそらくは三者に一致しているのは「脱精神医療」という観点かな。もちろん「じゃ、どこに医療との接点を置くのか」というテクニカルなことはあるにしろ、「医療的なアプローチは不要」とはならないということは一致しているのは気がしました。
まぁ、それは当たり前であって、なんらかの「身体改造」を必要とする人がいるわけで、それを医療から切り離すことはやはり厳しいわけです。ただ、違うのは「軸足」と「広がり」の問題かなと思いました。それを象徴していたのは、山本さんの「わたしはトランスジェンダーというのは嫌いです」という言葉だったかな。つまり、「身体改造が必要となる人に限定したより狭いレンジで考えたい」ということかなと思いました。そして、社会に対する問題意識も、そういう人がより社会に適応しやすくするためにはどのような制度の整備が必要かというところから考えておられるように思いました。
実は、わたしとしては「その狭いレンジの人についてはほぼ一致」なんですよね。ただ、違うのは「より広いレンジで考えた時にどうするのか」というところなような気がしました。わたしはその「広いレンジ」は「あり」と思っている。山本さんは「なし」と思ってる。で、それがそれだけのことであればバッティングはしないのですが、山本さんは「なし」ではなく、もう少し端的に言うなら「ダメ」と考えておられるように思いました。
で、仮にこういう聞き方が正しかったとしたなら、わたしと山本さんでバッティングするのは、このような「広いレンジ」なんだなと思いました。

人権の専門家

よく職場で「人権の専門家」とか言われます。たぶん、ものすごくいろんな意味が込められてるんだろうと思います。まぁ「鬱陶しい」とか「めんどくさい」とか「好きもの」とか、その他諸々(笑)。
でも、ずっとわたしは「人権の専門家なんていないよ」と思ってきたのですが…。
あえて「人権の専門家って存在する」って言ってもいいような気がしてきました。
例えば…。
野球の専門家がいるとします。豊富な知識もあり、豊かな実践を重ねている。そこには、もしかしたらいろんな他のことよりもそれを優先し、それにかけ続けた結果として得られる膨大な経験と理論がある。
じゃ、人権の専門家がいるとします。豊富な知識もあり、豊かな実践を重ねている。そこには、もしかしたらいろんな他のことよりもそれを優先し、それにかけ続けた結果として得られる膨大な経験と理論がある。
たぶん同じです。でも、前者は専門家として自他ともに認めることは可能かもしれないけど、後者はどこかに「?」が入り込む。
ま、野球は普遍ではなくて人権は普遍ってことはあるかもしれない。でも、そこでいう普遍さと専門性の有無は少し違う。
で…。
おそらくは専門家同士の間には、いろんなことはあるだろうけど、やはり謙虚さと尊敬がある。例えば、人権を専門的に追求している人たちの間にもそれはたぶん(笑)あります。
逆に言うなら、専門家と非専門家の間には専門家同士の間にある「それ」はなかなかない。なぜなら、「わからない」からです。
そして、イーブンに論議をしようとする。でも、それはきついと思うのです。

これ、教育を語るときにも同じようなことがある気がします。
なんか、「教育」も「人権」も、いまや居酒屋談義で語れてしまうレベルって意味で、同じなのかもしれない。

打ち合わせ

今日は、とある講演会の打ち合わせ。いや、わたしが打ち合わさせていただく側です。
打ち合わせの中で、「その課題」についていろいろ話を聞かせてもらいました。ほんとに、自分が何もわかっていなかったことに気づかされます。だからこそ、もっと聞きたい、もっと知りたいと思いますよ。でも、もっと聞きたければ、もっと知りたければ、やはりそれなりの自分からの「対価」を払わなくてはなりません。自分の中から「絡み合う経験」を探します。
「絡み合う経験」と「同じくらいのしんどさの経験」は、まったく違います。後者を出すのは不可能です。前者は…。それを「絡み合う」と相手が認めてくれれば大丈夫。じゃあどうすればそれを「絡み合う」と考えてくれるのか。それは、その経験を出す側が謙虚さと誠実さを持って出していることが伝われば、きっとそう受けとめてもらえる。じゃ、どうすれば謙虚さと誠実さを持てるのか。それは「自分が正しくあろう」と思わないこと。自分が不完全であることを引き受けること。そして、そういう自分を掘ること。
なんか、そんな気がします。
で、つながる。そして、互いに互いをさらに深く掘る。

そんなことを実感するひとときでした。とても心地よかった(^^)。

あとからジワジワくる

ふいに出会ったフォビアは、その瞬間は「キョトン」なんですけど、あとからジワジワきます。そしてそれはなかなかひかない。もしかしたら、一生ひかないかもしれませんね。仮にひくとしたら、そのフォビアを打ち消す「なにか」があった時、それに相殺される感じで消される。
「ひく」という受動ではなく「消す」という能動。そこには打ち消してくれる「他者」と、消そうとする「わたし」の両者の意志が働く。
いや、「消す」は消えるからなくなることになる。そうではなくて、そこに存在し続けるけれども、「つ」になるということ。「無化」かな。

とりあえず、まだ「つ」にはなってないけど、「やる」ことが「つ」へとつながる行為。そこに「他者」はいるはず。そしてすでにいる。